開始日時 | 2022/04/20 09:50:25 | 終了日時 | 2022/04/20 12:34:22 |
水平距離 | 29.15km | 沿面距離 | 29.23km |
経過時間 | 2時間43分57秒 | 移動時間 | 2時間12分24秒 |
全体平均速度 | 10.70km/h | 移動平均速度 | 13.17km/h |
最高速度 | 32.06km/h | 昇降量合計 | 851m |
総上昇量 | 424m | 総下降量 | 427m |
最高高度 | 119m | 最低高度 | 49m |
地点名 | 通過時刻 移動時間 | 積算距離 区間距離 | 平均速度 | 標高 獲得標高 | 平均勾配 |
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START | 09:50:25 | 0.00km | 99m | ||
02:12:24 | 29.23km | 13.2km/h | ↑424m ↓427m | -0.01% | |
GOAL | 12:34:22 | 29.23km | 101m |
【コース】
自転車で恭仁京跡へ 車では国道163号線で行ってたが、道幅狭いしトラック多いので自転車はムリ。
菅井から木津川自転車道 ⇒ 木津門樋の休憩所 ⇒ 国道24号線を横切って ⇒ 木津川PLANT店 ⇒ 城山台 公園(大仏 鐵道公園)
⇒ 国道324号線 ⇒ 国道44号線 ⇒ 恭仁宮跡 (約29km 2時間45分)
天平12年(740年)から天平16年(744年)にかけて営まれた都。
『恭仁宮跡』
京都府南部、木津川北岸の瓶原に位置する。
藤原広嗣の乱の後、天平12年(740年)12月15日聖武天皇の勅命により、平城京から遷都された。
相楽が選ばれた理由として右大臣橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。
741年(天平13年)の9月に左京右京が定められ、11月には大養徳恭仁大宮という正式名称が決定され、大極殿が平城京から移築され、大宮垣が築かれていき、宮殿が造られた。条坊地割りが行われ、木津川に大きな橋が架けられた。しかし、都としては完成しないまま743年(天平15年)の末にはこの京の造営は中止されて、聖武天皇は近江紫香楽宮に移り、742年(天平14)秋には近江国で宮の建設が始まり、さらに744年(天平16年)2月に、穂積老を留守官に任じて難波京に遷都、さらに745年(天平17年)5月に都は平城京に戻された。
宮は平城宮を簡略化した程度で、南北750メートル、東西560メートルの南北に長い長方形であった。朝堂院も平城宮より東西に幅が狭く、板塀で囲まれていた。西側は狭い谷間、東側は木津川の氾濫原によって宮や京の造営が制約され、全体的に小規模であったとみられ、条坊制を示す遺構も確認されていない。
『山城国分寺跡』
聖武天皇の詔で創建された国分僧寺の遺構に比定され、当地で営まれていた恭仁京の廃都後、宮跡が国分寺に造り替えられて建立された特異な例になる。建立に際しては恭仁宮大極殿(元は平城宮第1次大極殿)が金堂に転用されるとともに、七重塔などの建物が新たに造営された。現在は金堂基壇・塔基壇を遺存する。
寺域は1957年(昭和32年)に国の史跡に指定された。1973年度(昭和43年度)以降に恭仁宮跡とともに発掘調査が実施されている。
(Wikipediaより)
天平16年に難波宮へ遷都の後、都の跡地は山城国分寺として活用され、大極殿は金堂に転用された。今は大極殿と七重の塔が建っていたとされる礎石が残っている。
2022/04/20 11:55:28
2021/09/06に訪ねている。