開始日時 | 2021/09/06 09:07:56 | 終了日時 | 2021/09/06 11:44:35 |
水平距離 | 19.67km | 沿面距離 | 19.88km |
経過時間 | 2時間36分39秒 | 移動時間 | 1時間36分06秒 |
全体平均速度 | 7.62km/h | 移動平均速度 | 12.26km/h |
最高速度 | 41.91km/h | 昇降量合計 | 663m |
総上昇量 | 344m | 総下降量 | 319m |
最高高度 | 174m | 最低高度 | 55m |
三十八神社(ミソヤジンジャ) 10年ほど前パソコン相談に「ブログを・・・」と言ってよく通って来られていた方がこの神社の宮司さんだった いつも私がお相手してた 滝行とか心霊写真それに磐座のはなしをよく話してた 聖水でがんが治ったと言うことも その会場に誘はれたけど結局行かなかった ( 宮司さんのホームページ ( https://38jinja.com ) 前から機会があればこの神社に行ってみようと思ってた 久々に自転車で出かける 木津川市加茂町観音寺清水まで片道10km 案内板らしいもの一切ない 長い階段(おそらく百段以上ある 数えてないけど) 途中の鳥居を通ってまた階段 やっと本殿 こじんまりとして清掃行き届いてる 誰もいない 本殿を一周りして 帰る頃おばあさんが登ってきて会釈する 本殿で祝詞を上げてお詣りしていた 風があって自転車で走っている間は爽快 しかし休憩しているときは汗がふきだす
2021/09/06 10:00:17
2021/09/06 10:00:28
【御祭神】 武甕槌命 タケミカヅチノミコト 綿津見神 ワダツミノカミ 【由 緒】・・・がわからない net検索しても情報少ない が こんなのを見つける 「帝塚山大学文学部紀要」第36号抜刷 「京都府木津川市加茂町観音寺三十八神社における宮座の組織と神事」 が国会図書館にある 2年ぶりかな 午前中に関西館へ行く 受付でその本を探してもらうと書庫にあるので貸し出し申請してください と PCで申請手続きを教えてもらって 20分ほど待つ == その本から転載 == 三十八神社の由緒について確かなことはわからない。昭和六〇年、三十八神社屋根の葺き替え時、内陣から二〇枚の棟札が発見された。 報告書をもとに、造営、遷宮の関与者銘などを記したのが表2である。 最古は永正五年(一五〇八)のもので、「棟上げ御遷宮」と記載されており、これ以前に創建されていたことが確実である。 また、慶長三年(一五九八)の棟札には「三十八所大明神」とあり、三十八神社は三十八所大明神と呼ばれていたことがわかる。 現在、奈良の春日大社には末社として三十八所大神社があり、若宮神社のそばに、若宮一五社の一つとして祀られている。 三十八所神社に関する記事が「大乗院寺社雑事記」長享二年(一四八八)二月二四日の条にあり、次のように書かれている。 一吉野愛染之宝塔聖御嶽万タラ持来、拝見了、相語、上御前ハ 戌亥向也、南本地十一面、女躰也、率川也、中本地阿ミタ、 北本地地蔵、三十八所也、子守也、(後略) 吉野の愛染宝塔聖が持ってきた曼荼羅に、三十八所神社が描かれており、地蔵を本地仏とするという。 中世末まで興福寺一乗院門跡が金峯山寺検校を務めていた。 その関係もあり、春日社に吉野の三十八所神社を勧請し、末社として祭祀したことが推察される。 そしてさらに、春日社から興福寺領である観音寺に三十八所神社を勧請したということであろう。 加茂町内には三四社が存在するが、そのうちの一四社が春日系の神社であり、荘園領主である興福寺・春日社の影響がいかに強かったかが窺える。 また、村名となっている観音寺は、中世に東大寺、西大寺、興福寺の末寺となった。興福寺ゆかりの吉野金峯山寺と強く習合した三十八所神社を勧請し、 観音寺と三十八神社の神仏習合の形態を整えたことも考えられる。近世に観音寺は廃寺となり、観音寺旧蔵の観音菩薩像と十三重塔を地蔵院が引き継いだ。 吉野の三十八所神社の本地仏として描かれていた地蔵を寺名にした地蔵院であることにゆかりを感じる。 観音寺には近世の共有文書が豊富に伝えられており、その中に天保一四年(一八四三)の本殿造立に関する数点の文書がある。 そのうち、観音寺村の庄屋松本久右衛門が役所に提出した「三拾八神社普請二付願」には氏神三十八社が大破したため、南都春日小宮の榎本社の古社を もらいうけたい旨が書かれている。 現在、榎本神社は春日大社回廊内西南隅に鎮座し、春日山の地主神であったとされている。 また、同じく「氏神御上遷宮緒入用緒算用拜下遷宮入用物覚帳」には榎本御社寿代銀として銀七〇〇匁が計上され、村中の全員が南都に行って社を もらい受けたとある。近世後期にもなお、春日社との強い結びつきがあったのである。
2021/09/06 10:47:09
鹿背山不動石仏
南北朝時代初期 建武元年 1334年、像高 45Cm
像の両側に
「建武元年(1334)甲戌十一月卅一日」「大工末次」の刻銘がある