開始日時 | 2019/07/23 10:36:53 | 終了日時 | 2019/07/23 14:39:12 |
水平距離 | 9.58km | 沿面距離 | 9.74km |
経過時間 | 4時間02分19秒 | 移動時間 | 2時間59分59秒 |
徒歩距離 | 14.00km | 徒歩合計 | 19,700歩 |
全体平均速度 | 2.41km/h | 移動平均速度 | 3.18km/h |
最高高度 | 127m | 最低高度 | 73m |
※ 古事記に関連ある場所では、その記載箇所を現代語訳で表示。 ([古事記]は、あおぞら文庫より武田祐吉訳を拝借して一部変更。又、竹田恒泰著:現代語古事記を参考) (第34代舒明天皇~41代持統天皇までの天皇は、日本書紀の現代語訳を「擅恣企画」のサイトを参考)
2019/07/23 10:38:11
2019/07/23 10:57:59
文武天皇(漢風諡号)は、第42代天皇(在位:697年8月22日 - 707年7月18)。
諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の707年に「倭根子豊祖父天皇」と、『続日本紀』797年に諡された「天之真宗豊祖父天皇」がある。
草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の長男。母は阿陪皇女(天智天皇皇女、持統天皇の異母妹、のちの元明天皇)。
当時としては異例の14歳の若さで即位。祖母・持統上皇(史上初の太上天皇)のもとで政務を行っていた。後の院政形式の始まりである。
701年9月9日に大宝律令が完成し、翌年公布している。 大宝律令において初めて日本の国号が定められたとされる。遣唐使の粟田真人に初めて節刀を与えて唐との国交正常化を目指して日本の国号変更(「倭」→「日本)を通告するも、記録の不備あるいは政治的事情からか後の『旧唐書』に「日本伝」と「倭国伝」が並立する遠因になったとみられている。
陵は、宮内庁により奈良県高市郡明日香村大字栗原にある檜隈安古岡上陵(桧隈安古岡上陵)に治定されている。宮内庁上の形式は山形。遺跡名は「栗原塚穴古墳」。
ただし、八角墳であり横口式石槨を持つ明日香村平田の中尾山古墳を真の文武天皇陵とする意見が有力である。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
(ウィキペディアより)
2019/07/23 11:06:58
奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)に存在する古墳。藤原京期(694年~710年)に築造された終末期古墳で、直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになった。
【石室・壁画】
石室は凝灰岩の切石を組み立てたもので、南側に墓道があり、南北方向に長い平面をもっている。石室の寸法は南北の長さが約265cm、東西の幅が約103cm、高さが約113cmであり、大人2人がかがんでやっと入れる程度の狭小な空間である。横口式石槨と呼ばれる系統に入り、平らな底石の上に板石を組み合わせて造ってある。横口式石槨の系譜には、鬼の俎板・雪隠、斉明陵と推測されている牽牛子塚古墳、野口王墓(天武・持統陵)、キトラ古墳などが入り、7世紀前半の中頃から8世紀初頭まで続いている。
壁画は石室の東壁・西壁・北壁(奥壁)・天井の4面に存在し、切石の上に厚さ数ミリの漆喰を塗った上に描かれている。壁画の題材は人物像、日月、四方四神および星辰(星座)である。東壁には手前から男子群像、四神のうちの青龍とその上の日(太陽)、女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、手前から男子群像、四神のうちの白虎とその上の月、女子群像が描かれている。男子・女子の群像はいずれも4人一組で、計16人の人物が描かれている。中でも西壁の女子群像は(壁画発見当初は)色彩鮮やかで、歴史の教科書をはじめさまざまな場所でカラー写真が紹介され、「飛鳥美人」のニックネームで親しまれている。人物群像の持ち物が『貞観儀式』にみられる元日朝賀の儀式に列する舎人ら官人の持ち物と一致する。この元日朝賀の儀式には日月・四神の幡も立てられる。
奥の北壁には四神のうちの玄武が描かれ、天井には星辰が描かれている。南壁には四神のうち南方に位置する朱雀が描かれていた可能性が高いが、鎌倉時代の盗掘時に失われたものと思われる。天井画は、円形の金箔で星を表し、星と星の間を朱の線でつないで星座を表したものである。中央には北極五星と四鋪四星(しほしせい)からなる紫微垣、その周囲には二十八宿を表す。これらは古代中国の思想に基づくもので、中央の紫微垣は天帝の居所を意味している。
極彩色壁画は、1974年4月17日に国宝に指定された。(Wikipedia)
2019/07/23 11:29:57
【概要】
墳丘は現在東西約58メートル、南北径45メートル、高さ9メートルの円墳状である。本来の墳形は八角形・五段築成、周囲に石段をめぐらすとされる。2室からなる切石積みの石室があり、天武天皇の夾紵棺と持統天皇の金銅製骨蔵器が納められているとされる。本古墳は、天皇が埋葬された古墳として考えてよく、被葬者の実在性も問題がない。治定が信頼できる数少ない古代の陵墓である。同様の事例には、天智陵(御廟野古墳)を上げることができる。 しかし、本古墳は1235年(文暦2年)に盗掘にあい、大部分の副葬品が奪われた。その際、天武天皇の棺まで暴かれ、遺体を引っ張り出したため、石室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していたという。持統天皇の遺骨は火葬されたため銀の骨壺に収められていたが、骨壺も奪い去られ、無残な事に中の遺骨は近くに遺棄されたという。
【薄葬令と古墳】
646年(大化2年)に薄葬令が出されたが、古墳造営のすべての否定ではなかった。一部の支配者層だけは、古墳の造営を続け、下級官人及び庶民は古墳造営が禁止されたのが実情である。言い換えると、一部厚葬、大多数薄葬であった。本古墳をはじめ、中尾山古墳、高松塚古墳などは薄葬令以降の古墳である。
(ウィキペディアより)
日本書紀(大きな事件を要約) 天武天皇(第28巻・第29巻) 天智天皇即位1年 大海人皇子は皇太子に。 即位4年10月 天智天皇が病気に。蘇賀安麻侶を派遣して大海人皇子を呼び寄せる。蘇賀臣安麻侶が密かに皇太子に「注意して発言してください」と進言。 天智天皇は皇太子に天皇を譲ると言うが、皇太子は固辞した。皇太子は出家して吉野宮へ。ある人が「虎に翼をつけて放った」と言った。吉野で出家すると 舎人の半分が大挙した。 即位4年12月 天智天皇が崩御。 天武天皇即位1年3月 天皇の死を中国の使者の郭務宋に伝える。郭務宋は品物を献上。 即位1年5月 郭務宋に鎧兜・弓矢・その他の品を与える。高麗が使者を派遣して貢調した。郭務宋が帰国。美濃で天智天皇の墓を作っているが、兵士を集め いているのではないか?と朴井連雄君が天武天皇に報告。別の人が近江京から倭京で監視を置き、大海人皇子の食料補給路を遮断しようとしていると報告。 天武天皇が危機感を覚える。 即位1年6月22日 不破道を塞げと、部下に軍隊を起こす命令をする。 即位1年6月24日 高坂王に駅鈴を求めるが断られる。大海人皇子は東国へ。この時の従者は少数。大野で民家の垣根を壊して火をつけて明かりを取った。 隱郡でも隱駅家を焼いた。ここでは民が合流しなかった。横河で黒雲が見えた。大海人皇子が占うと、「天下が二つに分かれるが、最後は自分が勝つ」と言 った。伊賀郡で伊賀駅家を焼いた。伊賀では郡司の兵が合流した。夜明け、茨萩野に止まって食事した。高市皇子が鹿深で合流。伊勢の鈴鹿に到着。鈴鹿山 道を塞ごうとする。川曲の坂下に到着。夜になり雷雨になる。三重郡家で家を焼いて暖をとる。鈴鹿関司が使者を派遣して山部王・石川王が関にいると報告 したので、天武天皇が呼び寄せる。 即位1年6月26日 関にいたのは山部王・石川王ではなく、大津皇子だった。大分君恵尺などが合流する。村国連男依が不破道を塞いだと報告した。高市皇子が 軍を管理。山背部小田・安斗連阿加布が東海の軍隊を起こす。稚桜部臣五百瀬・土師連馬手が東山の軍を起こす。天武天皇は桑名郡家に宿泊する。近江朝廷 は天武天皇が東国に入ったと知って騒ぎになる。大友皇子は、すぐに軍を起こし後を追うように進言されるがしなかった。大友皇子は東国・倭・筑紫・吉備 に派遣する。筑紫の栗隅王と吉備の当摩公広嶋は天武天皇に親しかったので、殺そうとする。当摩公広嶋を殺すが、栗隅王は逃れる。韋那公磐鍬は襲われる が逃げる。大伴連馬来田と吹負の兄弟は天武天皇が勝利するだろうと考えて、兵を集めた。 即位1月6月27日 高市皇子が桑名郡家の天武天皇に使者を派遣して「そこにいては政治は不便ですから、御所から近いところへ行くべきです」と言う。天武 天皇は皇后を置いて不破に。尾張国司守の小子部連?鉤が2万の軍を率いて帰属した。その軍で不破の道を塞いだ。野上に天武天皇が到着すると高市皇子が 関ヶ原から来て言いました。「近江朝廷の駅使を捕らえると書直薬・忍坂直大麻呂っだった。彼らが言うには『吉野の大海人皇子対策のために東国の兵を 起こすために派遣した韋那公磐鍬は近江王朝の味方です。だから磐鍬は東国の兵が大海人皇子側になったと思って逃げたのです』と」。天武天皇は高市皇子 に「近江王朝には知謀の臣下がいるが、自分には無い」と弱音を吐いた。高市皇子は天皇を激励し、自分が軍を率いると言う。天皇は皇子に全軍を任せた。 皇子は関ヶ原の和?に帰る。天皇は野上に滞在した。その夜に雷電が鳴る。天皇は誓約をすると雷雨が止まる。 即位1年6月29日 天皇は和暫に行き、軍に号令をかける。天皇は野上に帰る。大伴連吹負は留守司の坂上直熊毛と話し合い、漢直たちと話し合う。「高市皇 子のふりをして飛鳥寺の北から出て行くから内応しろ」。百済の家で用意して、南門から出て秦造熊を褌だけにして馬に乗せて走り、寺の西の陣営で「高市 皇子が不破から到着した! 軍隊が従った!」と言わせた(実際には高市皇子は現在関ヶ原にいる)。留守司の高坂王は飛鳥寺の西に集まり、陣を作る。 穗積臣百足は武器を近江に運んでいて不在だった。陣営はパニックになり逃げた。大伴連吹負は数十騎で坂上直熊毛たちと合流。その後、高市皇子の命令と 称して穂積臣百足を呼び寄せ、飛鳥寺の西の槻の下で殺した。穗積臣五百枝・物部首日向を監禁。その後、許して軍に組み込む(飛鳥の軍が天武天皇側にな った)。大伴連安麻呂・坂上直老・佐味君宿那麻呂を不破宮(野上)の天武天皇に勝利の報告させる。吹負をこれらの軍の将軍に。近江を襲う計画を立てる。 即位1年7月1日 軍は乃楽(奈良市)へ。 即位1年7月2日 天武天皇は数万の軍を倭へ向かわせる。別の軍を数万、不破経由で近江へ入らせた。軍には近江軍と区別するために赤いものを身につけさせ た。別の軍を三千人、茨萩野に駐屯させる。田中臣足麻呂に倉歴道を守らせる。 一方、近江は数万の軍で派遣して不破に向かわせた。その途中の犬上川で山部王が蘇我果安・巨勢臣比等に殺され、軍は混乱して停止する。蘇我果安は自殺。 近江の将軍の羽田公矢国は降伏。そのまま天武天皇側の将軍になり、北越に入る。近江は精鋭兵で玉倉部邑を襲う。天武天皇側は出雲臣狛で迎撃した。 即位1年7月3日 大伴連吹負が乃楽山に駐屯していると荒田尾直赤麻呂が言った。「古京(飛鳥)を守るべき」。吹負は進言を受け入れ、古京を守らせる。 赤麻呂は橋の板を解いて、盾にして街を守った。 即位1年7月4日 大伴連吹負の軍は大野君果安の近江軍と乃楽山で戦闘に。近江軍が勝利し、吹負軍は敗走。果安は追いかけて古京を山から見ると、街に盾が あるのが見えて、引き返した。 即位1年7月5日 近江の別の軍は田辺小隅を将軍にして倉歴に到着。夜中に天武天皇側の田中臣足麻呂の軍の陣営に忍び込み、「金」という合言葉を言わない ものを斬り殺した。田中臣足麻呂は逃げ延びたものの、軍は全滅。 即位1年7月6日 近江の田辺小隅の軍は?萩野に行き、同様に攻めるが、?萩野の軍は精鋭であり、赤い布を身につけて敵味方をはっきりさせていたために、 田辺小隅は敗北。敗走し、戦線離脱し、戻らなかった。 即位1年7月7日 村国連男依たちが息長で近江軍と戦い、撃破。境部連薬を殺す。 即位1年7月9日 村国連男依は近江の秦友足を鳥籠山で殺す。紀臣阿閉麻呂は大伴連吹負が敗れたと聞いて、1000騎を倭へ。 即位1年7月13日 村国連男依は安河で戦って勝利。社戸臣大口・土師連千嶋を捕まえる。 即位1年7月17日 栗太の軍を征伐。 即位1年7月22日 村国連男依は瀬田に到着。近江陣営は橋の西に陣を敷き、橋を壊して、長板を置き、敵兵が渡ろうとすると板を外して落とした。 大分君稚臣が突撃して渡り、敵将の智尊を斬り殺す。大友皇子と臣下は逃げた。村国連男依は粟津岡で軍を起こして、羽田公矢国・出雲臣狛が合流。 三尾城を攻めて降伏させた。 即位1年7月23日 村国連男依は犬養連五十君・谷直塩手を粟津市で斬り殺す。大友皇子は山前で自殺。 これ以前のこと、少子部連鋤鉤は山で自殺。天武天皇はそこに隠された謀略があったのではないかと疑った。 |
2019/07/23 11:52:48 / 12:12:59
2019/07/23 12:19:36 / 12:25:14
鬼の雪隠から吉備姫王墓(猿石)・欽明天皇檜隈坂合陵へ向かう
2019/07/23 12:29:24
吉備姫王墓(檜隈墓)
吉備姫王は桜井皇子(欽明天皇の第六皇子。家来の桜井部犬が物部氏に味方していたことなどから、587年の丁未の乱で物部氏に味方し、戦死したと思われる)の王女。母は未詳。
茅渟王(押坂彦人大兄皇子の子)の妃となり、宝皇女(皇極天皇・斉明天皇)・軽王(孝徳天皇)を儲けた。
つまり欽明天皇の孫であり斉明女帝の母、天智天皇・天武天皇の祖母にあたります。
『日本書紀』には檀弓岡に葬られたとありますが、『延喜式』諸陵寮には欽明天皇陵の御陵内に墓があると記され、現在の地と推定されました。
近くの水田から掘り出され、その形から「猿石」と呼ばれる石造物がここに置かれており、見ることができます。
2019/07/23 12:33:41
【即位】
継体天皇と手白香皇女との間の息子である。父親の継体天皇は第15代応神天皇から分かれ地方に土着した傍系の出自であった。継体天皇は大王位を継承するに際し、先々代仁賢天皇の手白香皇女を皇后に迎え入れている。継体天皇は即位までの妃との間に他に沢山の子がいたが、嫡子は直系の手白香皇女との間の皇子であるこの広庭とされた。宣化天皇の妃が身罷った時に、先代安閑天皇の皇后であった春日山田皇女を中継ぎとして推薦したがこれは辞退され、まだ若い広庭が539年(宣化天皇4年12月5日)に即位した(第29代欽明天皇)。
欽明天皇は応神天皇の男系血統と、仁徳天皇以来の王朝の血統を継承したとされ、現皇統へと続く祖となった。
なお、天皇が皇女を皇后とするという流れは、欽明天皇が即位するまでに天皇に立った庶兄の宣化天皇、安閑天皇でも、それぞれ継体天皇に続いて手白香皇女の姉妹を皇后に迎え入れ、さらに欽明天皇自身も石姫皇女を皇后に迎えており、維持されている。仁徳天皇を唯一の例外とするこの流れは、聖武天皇妃の光明皇后冊立まで続いた。
【仏教伝来】
552年(欽明天皇13年)に百済から仏像と経文が伝来する。これによって、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で対立がおこり、物部氏は寺を焼き、仏像を投げ捨てる事までした。これにより物部氏と蘇我氏の間の確執が始まる。
(ウィキペディアより)
古事記 下の巻-七 欽明天皇 弟のアメクニオシハルキヒロニハの天皇(欽明天皇)、大和の師木島しきしまの大宮においでになつて、天下をお治めなさいました。 この天皇、ヒノクマの天皇の御子、石姫いしひめの命と結婚してお生みになつた御子は、ヤタの王・ヌナクラフトタマシキの命・カサヌヒの 王のお三方です。またその妹の小石こいし姫の命と結婚してお生みになつた御子は、カミの王お一方、また春日のヒノツマの女のヌカコの郎 女と結婚してお生みになつた御子は、春日の山田の郎女・マロコの王・ソガノクラの王のお三方です。またソガのイナメの宿禰の大臣の女の キタシ姫と結婚してお生みになつた御子はタチバナノトヨヒの命・イハクマの王・アトリの王・トヨミケカシギヤ姫の命・またマロコの王・ オホヤケの王・イミガコの王・ヤマシロの王・オホトモの王・サクラヰノユミハリの王・マノの王・タチバナノモトノワクゴの王・ネドの王 の十三方でした。またキタシ姫の命の叔母のヲエ姫と結婚してお生みになつた御子は、ウマキの王・カヅラキの王・ハシヒトノアナホベの王 ・サキクサベノアナホベの王、またの名はスメイロト・ハツセベノワカサザキの命のお五方です。すべてこの天皇の御子たち合わせて二十五 王おいでになりました。この中でヌナクラフトタマシキの命は天下をお治めなさいました。次にタチバナノトヨヒの命・トヨミケカシギヤ姫 の命・ハツセベノワカサザキの命も、みな天下をお治めなさいました。すべて四王、天下をお治めなさいました。 |
2019/07/23 13:31:46
丸山古墳(五条野丸山古墳/大軽丸山古墳/見瀬丸山古墳)は、奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町にある古墳。形状は前方後円墳。
実際の被葬者は明らかでないが、後円部墳頂は宮内庁により「畝傍陵墓参考地」(被葬候補者:第40代天武天皇と第41代持統天皇、あるいは第29代欽明天皇と堅塩媛)として陵墓参考地に治定されている。また宮内庁治定部分を除く古墳全域は「丸山古墳」として国の史跡に指定されている。
奈良県では最大、全国では第6位の規模の巨大古墳で、大王墓としては最後の前方後円墳になる。
古墳は丘陵上の傾斜地に設けられている。極めて大規模な前方後円墳であり、全長は318メートル、前方部高さ15メートル、幅210メートル、後円部の径155メートル、高さ21メートル、前方部の幅210メートルにおよぶ。これは景行天皇陵を上回って奈良県下では最大、日本全国においても河内大塚山古墳に次いで 6位の規模であり、古墳時代後期後半に築造されたものの中では最大の規模を誇っている。
また、横穴式石室の全長は28.4メートルで、全国第1位の規模である。羨道は一枚の長さ4.8メートルの巨大な自然石6枚で天井を覆い、長さ20.1メートル、幅1メートル以上、高さ1.5メートルほど。玄室の長さ8.3メートル、最大幅4.1メートル、高さ4.5メートルある。内部には刳抜式家形石棺が2基、L字型に直交するように置かれている。玄室内には約1メートルの土砂が堆積しており、石棺の身については詳細は不明だが、奥棺は蓋の長さが2.42メートル、幅1.44メートル、高さ0.42メートル。前棺は蓋の長さが2.75メートル、幅1.41メートル、高さ0.63メートル。材質は流紋岩質溶結凝灰岩で加古川付近の竜山石。
通常石室は円墳の中央に置かれるが、丸山古墳では中央から20mほどずれている。石室を作る際の石が大型化する中、かつ横穴式を目指したことで、中央まで横穴を掘れなかったのではないかとする説もある。
(Wikipedia)
2019/07/23 13:51:17
『日本書紀』・『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。
【略歴】
孝霊天皇の皇子。母は皇后で磯城県主大目の娘の細媛命。異母兄弟に倭迹迹日百襲姫命・彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)・稚武彦命らがいる。19才で皇太子となる。
先帝が崩御した翌年の1月に即位。即位4年、軽の境原宮に都を移す。建国の地である橿原にほど近い。即位7年、穗積臣の祖の欝色雄命の妹の欝色謎命を皇后として大彦命、稚日本根子彦大日日尊(後の開化天皇)らを得た。また伊香色謎命、埴安媛を妃にしている。伊香色謎命との間には葛城氏、蘇我氏の祖となる彦太忍信命を得た。埴安媛との間には崇神天皇の代に反乱を起こすことになる*武埴安彦命を得た。即位57年、崩御。
【欠史八代】
『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のこと、あるいはその時代を指す。
これら古代の天皇達の実在を疑問視する説を初めて提唱したのは、歴史学者の津田左右吉(1873年 - 1961年)である。
(ウィキペディアより)
※武埴安彦命について
古事記 中の巻-二 孝元天皇 オホヤマトネコ彦クニクルの命(孝元天皇)、大和の輕の堺原さかいはらの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は穗積 ほずみの臣等の祖先のウツシコヲの命の妹のウツシコメの命と結婚してお生みになつた御子は大彦おおびこの命・スクナヒコタケヰココロの 命・ワカヤマトネコ彦オホビビの命のお三方です。またウツシコヲの命の女のイカガシコメの命と結婚してお生みになつた御子はヒコフツオ シノマコトの命お一方です。また河内のアヲタマの女のハニヤス姫と結婚してお生みになつた御子はタケハニヤス彦の命お一方です。この天 皇の御子たち合わせてお五方いつかたおいでになります。このうちワカヤマトネコ彦オホビビの命は天下をお治めなさいました。その兄、大 彦の命の子タケヌナカハワケの命は阿部の臣等の祖先です。次にヒコイナコジワケの命は膳かしわでの臣の祖先です。ヒコフツオシノマコト の命が、尾張おわりの連の祖先のオホナビの妹の葛城かずらきのタカチナ姫と結婚して生んだ子はウマシウチの宿禰すくね、これは山代やま しろの内の臣の祖先です。また木の國くにの造みやつこの祖先のウヅ彦の妹のヤマシタカゲ姫と結婚して生んだ子はタケシウチの宿禰です。 このタケシウチの宿禰の子は合わせて九人にんあります。男七人女二人です。そのハタノヤシロの宿禰は波多の臣・林の臣・波美の臣・星川 の臣・淡海の臣・長谷部の君の祖先です。コセノヲカラの宿禰は許勢の臣・雀部の臣・輕部の臣の祖先です。ソガノイシカハの宿禰は蘇我の 臣・川邊の臣・田中の臣・高向たかむくの臣・小治田おはりだの臣・櫻井の臣・岸田の臣等の祖先です。ヘグリノツクの宿禰すくねは、平群 の臣・佐和良の臣・馬の御みくいの連等の祖先です。キノツノの宿禰すくねは、木の臣・都奴の臣・坂本の臣の祖先です。次にクメノマイト 姫・ノノイロ姫です。葛城かずらきの長江ながえのソツ彦は、玉手の臣・的いくはの臣・生江の臣・阿藝那あきなの臣等の祖先です。次に若 子わくごの宿禰すくねは、江野の財の臣の祖先です。この天皇は御年五十七歳、御陵ごりようは劒の池の中の岡の上にあります。 |
2019/07/23 14:38:06
【キトラ古墳概要】
二段築成作りの円墳である。墳丘は小高い阿部山の南斜面に位置している。名称の「キトラ」は、「北浦」の転訛といわれる。
1983年11月7日、石室内の彩色壁画に玄武が発見され、高松塚古墳に次いで2例目となる大陸風壁画古墳として注目を集める。
1998年の探査で青龍、白虎、天文図が確認され、2001年には朱雀と十二支像が確認された。カビなどの被害が発生していたため壁画ははぎとられて保存されている。
2000年7月31日、国の史跡に指定され、同年11月24日には特別史跡に指定された。
2013年に石室の考古学的調査は終了したため石室は埋め戻されて墳丘の復元整備が行われている。
2018年10月31日付けで壁画と出土品が国の重要文化財に指定され、2019年には壁画が国宝に指定された。
円墳であり、四神を描いた壁画があるなどの類似点から、高松塚古墳の「兄弟」といわれることがある。
【年代】
壁画などにみられる唐の文化的影響が高松塚古墳ほどには色濃くないことから、遣唐使が日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初め頃に作られた古墳であると見られている。
【構造】
二段築成の円墳である。上段が直径9.4m、高さ2.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さ90cm。
内部構造は横口式石槨で天井は家形になっている。石槨は凝灰岩の切石を組み合わせて作られており、内部は幅約1m、長約2.6m、高さ約1.3m。 奥壁・側壁・天井の全面には漆喰が塗られ、壁画がほどこされている。
【壁画】
東西南北の四壁の中央に四神の青龍、白虎、朱雀、玄武が描かれている。
東壁の青龍と西壁の白虎は右向きであり、すなわち青龍は南壁の朱雀のほうを向いており、白虎は北壁の玄武のほうを向いている。しかし中国においては、これとはことなり青龍も白虎もいずれも南壁の朱雀のほうを向いている。
四神の下に、それぞれ3体ずつ十二支の獣面(獣頭)人身像が描かれていると想定されているが、北壁・玄武の「子」、東壁・青龍の「寅」、西壁・白虎の「戌」、南壁・朱雀の「午」など6体の発見に留まっている。
同時代の中国や朝鮮半島では獣頭人身を象った浮き彫りや土人形が埋葬された墓が発見されているため、キトラ古墳は中国や朝鮮半島などの文化的影響を受けていたと考えられている。しかし、2005年になって発見された「午」の衣装は、同じ南壁に描かれている朱雀と同じ朱色であった。このことは、十二支像がそれぞれの属する方角によって四神と同様に塗り分けられていることを推測させる。これは中国・朝鮮の例には見られない特色である。
天井には三重の円同心(内規・赤道・外規)と黄道、その内側には北斗七星などの星座が描かれ、傾斜部には西に月像、東に日像を配した本格的な天文図がある。この天文図は、中国蘇州にある南宋時代(13世紀)の淳祐天文図より約500年古く、現存するものでは東アジア最古の天文図になる。 描かれている星の総数は、277個である
(Wikipedia)
令和元年7月23日 炎天下の飛鳥路を歩く | 平成23年2月11日 大雪の飛鳥路を歩く |