開始日時 | 2018/10/13 11:00:16 | 終了日時 | 2018/10/13 13:34:04 |
水平距離 | 7.61km | 沿面距離 | 7.67km |
経過時間 | 2時間33分48秒 | 移動時間 | 2時間10分47秒 |
徒歩距離 | 8.2km | 徒歩合計 | 13,900歩 |
全体平均速度 | 2.99km/h | 移動平均速度 | 3.48km/h |
最高高度 | 96m | 最低高度 | 54m |
※ 古事記に関連ある場所では、その記載箇所を現代語訳で表示。 (あおぞら文庫より武田祐吉訳を拝借して一部変更。又、竹田恒泰著:現代語古事記を参考)
2018/10/13 11:27:12
土師氏伝承の埴輪誕生物語ゆかりの地
菅原東遺跡埴輪窯跡群は約1500年前の古墳時代に埴輪を焼いた窯跡で、発掘調査により出土しました。「菅原」の地は古墳築造に関わっていた土師(はじ)氏が居住していた場所で、土師氏により埴輪づくりが行われていたとみられます。公園には、埴輪窯を発掘した状態で展示しており、また、出土した埴輪を元に作成された馬形埴輪などのレプリカを設置しています。
記紀の垂仁紀には、野見宿禰が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに
土で作った人馬を立てることを提案したとあり、これを埴輪の起源とする。
天穂日命(天照大神の御子)の末裔と伝わる野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第11代垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より改めて土師連姓を与えられたと言われている。
垂仁天皇陵の近くにあります。
2018/10/13 12:07:55
垂仁天皇の主な事績
・后狭穂姫の兄、狭穂彦が叛乱を起こし、狭穂姫は兄に従って焼死。(狭穂姫の狭岡神社に碑がある⇒ 2018/09/27に訪れている)
・日葉酢媛が薨去。野見宿禰の進言に従い、殉死の風習に替えて埴輪を埋納する。
・瓊敷入彦命に河内国の高石池や茅渟池を始め多くの池溝を開かせて農業を盛んにした。
・五十瓊敷入彦命が剣千振を作り石上神宮に納める。
・天日槍の玄孫の田道間守に命じて常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる。
・野見宿禰が当麻蹴速と相撲をとり蹴殺す(日本書紀。古事記には記載がない。)
2018/10/13 12:32:54
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薬師寺東塔落慶法要案内看板(慶賛法要:2020年5月1日~10日)