開始日時 | 2018/09/27 10:57:06 | 終了日時 | 2018/09/27 13:54:58 |
経過時間 | 2時間57分52秒 | 移動時間 | 2時間15分20秒 |
水平距離 | 14.09km | 沿面距離 | 14.10km |
徒歩距離 | 10.00km/h | 徒歩合計 | 13,500歩 |
全体平均速度 | 4.76km/h | 移動平均速度 | 4.03km/h |
最高高度 | 135m | 最低高度 | 60m |
※ 古事記に関連ある場所では、その記載箇所を現代語訳で表示。 (あおぞら文庫より武田祐吉訳を拝借して一部変更しています)
2018/09/27 11:06:32
法華寺(ほっけじ)は、奈良県奈良市法華寺町にある仏教寺院。奈良時代には日本の総国分尼寺とされた。山号はなし。本尊は十一面観音、開基は光明皇后である。元は真言律宗に属したが、平成11年(1999年)に同宗を離脱し、光明宗と称する。
2018/09/27 11:07:33
2018/09/27 11:17:02
2018/09/27 11:29:56
天明狂歌の久世宵瑞の墓がある瑞景寺
久世宵瑞は「平城坊目考」を著した人物としても知られます。奈良の歴史に久世宵瑞あり、と言っても過言ではありません。奈良の冬のイベントとして定着しつつある大立山まつりの会場は平城宮跡ですが、今の平城宮跡は棚田嘉十郎の功績抜きには語れません。そしてさらに嘉十郎から時代は遡り、江戸時代中期に平城京の研究に尽力したのが久世宵瑞なのです。
2018/09/27 11:32:31
境内には古事記に由来する「狭穂姫」をめぐる悲恋物語の舞台とされる「鏡池」が存在します。また、笠郎女の万葉歌「君に恋ひいたもすべなみ奈良山の 小松が下に立ち嘆くかも」が記された歌碑も設置されています。
2018/09/27 11:32:59
2018/09/27 11:33:49
2018/09/27 11:34:53
狭穂姫命(さほひめのみこと、生年不詳 - 垂仁天皇5年10月薨)は、日本の皇族。
記紀に伝えられる垂仁天皇の最初の皇后(垂仁天皇2年2月9日立后)で、皇子誉津別命(本牟智和気御子)の生母。同母兄に狭穂彦王(沙本毘古)がおり、垂仁天皇治世下における同王の叛乱の中心人物。『日本書紀』では狭穂姫命、『古事記』では沙本毘売命、または佐波遅比売命に作る。
父は彦坐王(開化天皇の皇子)、母は沙本之大闇見戸売(春日建国勝戸売の女)。同母の兄弟として狭穂彦王の他に袁邪本王(次兄。葛野別・近淡海蚊野別の祖)、室毘古王(弟。若狭耳別の祖)がいた(『古事記』)。
2018/09/27 11:37:41
2018/09/27 11:38:08
2018/09/27 11:42:25
万葉歌碑
君に恋ひいたもすべなみ奈良山の
小松が下に立ち嘆くかも
万葉集巻4593 笠郎女(かさのいらつめ)
2018/09/27 11:47:43
2018/09/27 11:48:57
2018/09/27 11:51:54
2018/09/27 11:53:11
境目谷古墳(應神天皇皇子大山守命那羅山墓)
大山守皇子(おおやまもり の みこ、生年不明 - 応神天皇41年(310年?))は、記紀に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。応神天皇の皇子で、母は高城入姫命(品陀真若王の女)。仁徳天皇・菟道稚郎子の異母兄に当たる。大山守命とも。
応神天皇40年1月、菟道稚郎子の立太子の際、山川林野の管掌を任されたが、兄である自らが皇太子になれなかったことを恨んでいた。応神天皇の崩御後、密かに皇位を奪おうと謀り、皇太子を殺害するために数百の兵を挙げた。しかし、この謀は前もって大鷦鷯尊(おおさざきのみこと。後の仁徳天皇)と皇太子の察知するところとなり、菟道川(うじがわ)の渡河中に渡し守に扮する皇太子の計略によって船を転覆させられ、救援を請うも空しく水死した。遺骸は考羅済(かわらのわたり。現在の京都府京田辺市河原)で見つかり、那羅山に葬られたという(那羅山墓)。現在、この墓は奈良市法蓮町所在の円墳に比定され、宮内庁の管理下にある。
2018/09/27 11:53:38
2018/09/27 12:03:48
2018/09/27 12:09:13
仁明天皇の勅願を受け、平城天皇萱の御所跡に在原業平が開基したと伝わる。その由緒から「業平寺」とも呼ばれる。平城天皇の第1皇子阿保親王の菩提所である。
2018/09/27 12:33:53
奈良市・旧平城京で発見された顕著な一群の木簡。1986年(昭和61)から89年(平成1)にわたり、平城宮に近接するデパート建設用地で発掘調査が行われた際、約10万点もの大量の木簡が発見され、話題をよんだ。このうち、左京三条二坊八坪の東南隅で発見された約3万6000点の木簡のなかには、「長屋親王宮」と記したものが多くあり、「長屋王家木簡」とよばれるに至った。これらの木簡は調査でみいだされた遺構が長屋王の邸宅であったと推測させる根拠となっている。
長屋王は奈良時代、聖武(しょうむ)天皇の治世に左大臣として権勢を誇り、藤原不比等(ふひと)の策する誣告(ぶこく)によって自殺した人物として知られるが、これらの木簡によって当時の王家の日常生活、たとえば氷室(ひむろ)や飼い犬、家政機関と物資の出入りなど王家を取り巻く環境が鮮やかに復原される点が興味深い。「長屋親王宮」と記した木簡の存在は、長屋王が親王ではないだけに、歴史学者の関心を集めている。
2018/09/27 13:38:44
八幡神社の南東すぐに両王子の旧蹟地があり、両王子の墓があるようだ。
『記紀』によると、本来の大和の王になるべきはこの王子達であったはずだが、西から攻め上がってきた武内宿禰と息長帯日売の軍の前に自滅してしまい、誉田別命が応神天皇として即位することになる。
この地域の押熊の地名は鎌倉時代にはすでにあったようで、この王子達の実在と悲劇が長く語り継がれたのかも知れない。
2018/09/27 13:39:49
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