幻の宮と伝承された難波宮

難波は古墳時代後期より西日本からの物資の一大集散地として重要視されてきたが、7世紀に入ると中国の隋や唐および朝鮮への派遣船の出発地となり唯一の国際交流の基地として副都の扱いを受けて繁栄してきた。桜井であれ飛鳥であれ奈良であれ都は内陸深く入り込んでいて外交、通商と言った高度で迅速さが求められる交渉は勿論の事、西日本から瀬戸内海を通って運ばれてくる夥しい物資の管理の対応は難しく、難波がこう言った問題の対応には最も優れた機能を持ち合わせていた。考徳天皇は難波宮に遷都してきて、この地で「大化の改新」の一大事業が推進された。便宜的に前期難波宮と名付けられる。時代は下って聖武天皇は内乱や天然痘と天変地異に悩まされ人心一新のため都を難波宮に遷都した。便宜的に後期難波宮と名付けられる。ところがこの難波宮は廃宮後は所在がまったく分からなくなり「幻の宮」と呼ばれ続けていた。戦後になってからの発掘調査でようやく遺構が地中から出土して1300年の眠りから醒めて全容が判明するようになった。

史実溢れる歴史都市の考察 より