四天王寺

聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音菩薩(くせかんのんぼさつ)である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。
『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。
宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった[2]。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に「和宗」の総本山として独立している。

中心伽藍
境内配置図 A.中心伽藍(a.中門、b.五重塔、c.金堂、d.講堂)、B.本坊庭園、C.霊苑、S.四天王寺学園(中学・高校)、M.宝物館、1.石鳥居(重文)、2.西大門、3.南鐘堂、4.南大門、5.石舞台(重文)、6.六時堂(重文)、7.聖霊院前殿、8.聖霊院奥殿、9.北鐘堂、10.本坊、11.五智光院(重文)、12.元三大師堂(重文)、13.東大門、14.本坊西通用門(重文) 南から北へ中門(仁王門)、五重塔、金堂、講堂を一直線に配置し、中門の左右から出た回廊が講堂の左右に達する「四天王寺式伽藍配置」を踏襲している。これらは第二次世界大戦後に再建され、1963年(昭和38年)に落慶法要が営まれた鉄筋コンクリート造建築だが、日本の飛鳥時代、高句麗、六朝などの建築様式を加味して創建当時(6世紀末)の様式に近付けようとしたものである。設計は建築史家藤島亥治郎。
中門 - 門の正面左右に松久朋琳・宗琳作の金剛力士(仁王)像を安置することから「仁王門」とも呼ぶ。入母屋造単層で、屋根は段差を付けて瓦を葺く「錣葺」(しころぶき)とし、棟上に鴟尾(しび)を乗せる。
五重塔 - 現在の塔は1959年(昭和34年)建立の八代目。
金堂 - 入母屋造で屋根は上下二重とする。中門、講堂と同様、錣葺とし、鴟尾を乗せる。外観は法隆寺金堂に似るが、裳階(もこし)を付さない点が異なっている。内部には中央に本尊救世観音菩薩(ぐぜかんのんぼさつ)像、向かって左に舎利塔、右に六重塔を安置し、仏壇周囲に四天王像が立つ。周囲の壁面には中村岳陵筆の「仏伝図」の壁画がある。
本尊 - 四天王寺の本尊は、近世以前の史料には「如意輪観音」とするものが多いが、現本尊は救世観音と称されている。彫刻家平櫛田中の指導で造像されたもので、左脚を踏み下げて座す半跏像である。こうした半跏形式の菩薩像は右手を頬に当てる「思惟像」(しゆいぞう)が多いが、当寺の本尊像は右手の掌を正面に向ける施無畏印とする。なお、仏壇四隅に立つ四天王像は仏師松久朋琳・宗琳の作である。
講堂 - 入母屋造単層。堂内西側を「夏堂」(げどう)、東側を「冬堂」(とうどう)と称し、それぞれ阿弥陀如来坐像(松久朋琳・宗琳作)、十一面観音立像(佐川定慶作)を本尊とする。

四天王寺(Wikipedia)