開始日時 | 2023/09/24 09:50:23 | 終了日時 | 2023/09/24 13:04:29 |
水平距離 | 20.17km | 沿面距離 | 20.35km |
経過時間 | 3時間14分06秒 | 移動時間 | 2時間00分33秒 |
全体平均速度 | 6.29km/h | 移動平均速度 | 9.96km/h |
最高速度 | 40.45km/h | 昇降量合計 | 696m |
総上昇量 | 347m | 総下降量 | 349m |
最高高度 | 121m | 最低高度 | 42m |
地点名 | 通過時刻 移動時間 | 積算距離 区間距離 | 平均速度 | 標高 獲得標高 | 平均勾配 |
---|---|---|---|---|---|
START | 09:50:23 | 0.00km | 90m | ||
02:00:33 | 20.35km | 10.0km/h | ↑347m ↓349m | -0.01% | |
GOAL | 13:04:29 | 20.35km | 98m |
【コース】
縄添春日神社 ⇒ 左大臣(橘諸兄)遺跡 ⇒ ふ船休み ⇒ 咋岡神社 ⇒ 櫻井王令穿七井戸 ⇒ 飯岡古墳群(車塚古墳)
⇒ 穴山梅雪翁墓 ⇒ フォレストモール[なか卯]で昼食
2023/09/24 10:14:28
平安時代、藤原氏の恒例行事となったのが春日詣で、精華町も当然訪れていたであろう
祝園神社の森は「柞(ははそ)の森」と呼ばれ のちに紅葉の名所として和歌や紀行文学などにも登場する「柞」はケヤキ コナラ クヌギ等落葉広葉樹の総称であり晩秋濃淡に色づく
「時わかぬ 浪さへ色にいづみ川 ははその森に 嵐吹くらし」
(柞をよみ侍りける) 藤原定家(『新古今集』)
「源義朝の系譜と伝わる 左大臣遺跡 縄添春日神社に合祀する」
左大臣ってだれ 藤原頼長?
1156年の保元の乱で 平清盛と源義朝に敗れて重傷を負った左大臣藤原頼長は このあたり柞の森に落ち延びたとか。
2023/09/24 10:32:27
京田辺市の飯岡山の頂の東に東面して咋岡神社(くいおか じんじゃ)が建つ。なお、当社旧地(京都府京田辺市草内宮ノ後)に同社名の社がある。 菅原道真を祀り、天神、天神宮と呼ばれていた。 祭神は右に宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、左に菅原道真。 式内社。平安時代、『延喜式』神名式(延喜式神名帳)』(927)中「綴喜郡 十四座 大三座 小十一座 鍬靫」の「咋岡神社」に治定されている。 ◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。 室町時代、飯岡は北野社領であり天満宮(祭神、菅原道真)を勧請した。旧地は現在地の北、飯岡北端(草内宮ヶ森)にあり、木津川と普賢寺川の 合流点だったという。飯岡ほか二村の総社になっていた。 永亨年間(1429-1441)、木津川洪水により、田辺、草内、飯岡の三村に分祀された。この際に、宇迦之御魂神を勧請し、現在地に合祀される。 安土・桃山時代、1601年、修復されている。(棟札) 江戸時代、1617年、修復されている。(棟札) 1636年、修復された。(棟札) 1695年、木津川の氾濫によりこの地に移されたともいう。菅原道真が祭神に合祀されたともいう。 近代、1873年、村社となる。 1875年、式内社、咋岡神社と治定され社号を咋岡神社に改めた。 ◆建築 本殿は東面する。一間社流造、銅板葺。 ◆境内末社 伊勢社、八幡社、厳島社がある。 ◆飯岡 飯岡(いのおか)の地名由来について、古くは「咋岡(くひおか)」と呼ばれた。当社の「咋岡神社」の名も『延喜式』神名式に記されている。 平安時代、833年の『続日本紀』には「区ひ(田+比)岳」とある。 飯岡山についても、当初は「馬咋(うまくひ)山」「馬咋岡(うまくひおか)」と記され、後に「馬(うま)」が省略されて「咋岡(くひおか)」になった。 さらに、「く」が略されて「飯岡(ひおか/いおか)」になり、「飯岡(いのおか)」に転じたという。 ◆樹木 境内のスダジイは「京都の自然200選」に選定されている。シイの巨木がある。拝殿内には米寿を祝って奉納された額がたくさん懸けられています 額に枡を模った木枠と棒(杵・斗掻き棒)がつ いているのが特徴ですが これは山城地方に伝わるならわしだそうで、八十八と書いて「米」、食べるのに困りませんように…との願いが込められているのだそうです 今は一合升だけど、古くは一升枡を用いたとのこと
2023/09/24 10:44:57
かつて飯岡の丘陵地に「七井戸(飯岡七水)」があったという
三宅安兵衛により、1926-1927年にそれぞれ碑が立てられている
飯岡丘陵には古墳が多く点在する。
山城盆地のなかに孤立する小高い丘は、かつて咋山・咋岡とよばれ、早くから開けた土地であった。この飯岡丘陵には木津川の水運に関係する一族の墓と考えられる古墳が点在している。
前方後円墳の飯岡車塚古墳、円墳の薬師山古墳、トヅカ古墳、南山城地域を代表するゴロゴロ山古墳、弥陀山古墳など、四世紀から六世紀の古墳が数多く見られる。トヅカ古墳からは銅鏡や刀剣、馬具、管玉などが出土し、またゴロゴロ山古墳は継体天皇の皇子・椀子皇子の塚であるといわれている。薬師山古墳の頂上には薬師堂がある。
穴山梅雪は武田家重臣。母は武田信玄の姉の南松院、正室には信玄の次女の見性院妙顕。武田家とは非常に近い親族関係にあったが信玄の死後、武田家当主となった勝頼との不仲が進み、織田信長、徳川家康側に翻った。
家康に随行して上洛し、近江国安土において信長に謁見。この後家康とともに堺を遊覧した翌日に、本能寺の変が起きた。すぐさま家康と共に畿内を脱しようとしますがその途上,草内で一揆に巻き込まれた、または明智光秀に家康を撃ち取るよう命じられた土民たちが家康と誤って撃ったなど諸説ある。(あるいは家康が梅雪を恐れて殺したとも。)悲運の武将として、飯岡の村人がこの地に手厚く葬った。