20230914-精華町一回り(逆修の碑)

マーカーリスト
開始日時2023/09/14 10:17:06終了日時2023/09/14 10:57:48
水平距離9.27km沿面距離9.30km
経過時間0時間40分42秒移動時間0時間39分03秒
全体平均速度13.70km/h移動平均速度14.25km/h
最高速度36.35km/h昇降量合計287m
総上昇量151m総下降量136m
最高高度117m最低高度62m

区間解析

地点名通過時刻
移動時間
積算距離
区間距離
平均速度標高
獲得標高
平均勾配
START10:17:060.00km 98m 
 00:39:039.30km14.3km/h↑151m ↓136m0.16%
GOAL10:57:489.30km 108m 

20230914-精華町一回り(逆修の碑)

【 山城国一揆 】  (精華町ホームページより)
■国一揆始まる
1485(文明 17)年12月11日。この日は、のちに歴史のうえで「戦国時代の国民議会」という高い評価を受ける山城国一揆が始まった記念日です。この日、南山城に住む農村武士や多数の一般住民たちが寄り集まり大集会を開きました。奈良興福寺大乗院の僧尋尊は、この集会のようすを次のように書き留めています。 「今日、山城の国人集会す。上は六十歳、下は十五、六歳と云々。同じく一国中の土民等群集す。今度両軍の時宜を申し定めんがための故と云々。然るべきか。ただしまた下剋上の至りなり。」(下図の傍線部)すなわち、成人に達したすべての「国人(地元の武士)」たちが集まって集会を開き、「(畠山)両軍の時宜(両軍の撤退要求やその後の方針)」について相談した、またここには国中の「土民(民衆)」たちも集まっていた いうのです。「然るべきか(当然である)。ただしまた下剋上の至りなり。」という記事は筆者尋尊の矛盾した気持ちを示したものでした。 『大乗院寺社雑事記』 彼は一方で武士に領地を侵食されている立場から、国人・土民の行動に賛成しながらも、他方、こうした動きは上下関係を覆す下剋上そのものだと考えていました。 集会の議題は、応仁の乱以後もこの地にひんぱつはたけやまよしなりおいて頻発していた畠山義就軍(西軍)と畠山政長軍(東軍)の武力衝突をやめさせる方法についてでした。応仁の乱終結の後も、東西両軍の対立は続き、とくに山城や摂津・河内・大和などの国々では紛争がまだ続いていたのです。 1482(文明14)年12月には、政長方の河内出陣のすきを突いて義就軍が南山城に兵を進めました。義就軍は翌年にかけて政長方となっていた草内城(京田辺市)、狛城(木津川市)、水主城(城陽市)などを次々と落とし、南山城を制圧しました。 これに対して1485(文明17)年10月になると、義就方の斉藤彦次郎の寝返りをきっかけとして政長方の反攻が始まり、南山城はふたたび騒然となりました。両軍は全兵力を久世・綴喜の郡境あたりに集結させ、北がわに政長軍1500人、南がわに義就軍1000人がにらみあって小競り合いをくりかえす状態となりました。 集会はこうした状況の中で催されたのです。話し合いの結果、この集会では4点からなる「国中掟法」が決議されました。 それは、①今後、畠山両軍は南山城に入ってはならない、②戦争で混乱した寺社領地(荘園)の権利関係はもとのとおり認める、③住民は荘園年貢を滞納しない、④新しい関所などはいっさいつくらない、 というもので、地元住民の手による地域管理をうたったものでした。そして、この決議をもって両軍との交渉が行われました。「三十六人衆」とか「国衆三十八人」とよばれた地元の農村武士の多くが東軍に属していたこともあって、とくに西軍方との交渉が困難だったようです。しかし、多額のお礼を仲介者に払ったりしながら交渉を進め、12月17日ついに両軍ともが撤退を完了しました。そしてここに、地元の国人衆を担い手とする政治が始まりました。
■惣国の政治
山城国一揆の立役者となった36人の国人は「三十六人衆」と呼ばれ、惣国(そうこく)という政治組織を結成。さっそく新たな国づくりが始まりました。 1486年(文明18年)2月13日、「宇治平等院」に集まって国民議会を開催し、中央のどの勢力にも属さない、中立国にふさわしい法律や行政機関の整備を行います。 室町幕府奉行人連署奉書 1493(明応2)年8月3日 例えば特定の人物に権力が集中するのを避けるために重要事項については会議で決定することや、「月行事」(がちぎょうじ)という運営機関のもと、選挙によって選ばれた人が月ごとに持ち回りで政務を担うことなど、きわめて民主的な政治体制がつくられました。 その政治の内容は3点ほどにまとめることができます。
1つ目は 警察・裁判の仕事です。この時代、重罪犯に対する処置は守護の職務だったのですが、惣国は惣国内での事件について自力での解決をめざしました。たとえば、国一揆の成立した翌々年の1487(文明19)年に、綴喜郡の多賀(井手町)で起こった殺人事件に対して、惣国は犯人である奈良の油売りを逮捕して斬刑を執行しています。2つ目は道路の管理です。道路は人間の通行や商品の流通になくてはならないものですが、惣国はこの道路の管理も自主的に行っていました。政治の3つ目は住民が荘園領主に納める年貢米の半分を惣国に徴収したことです。 半済とよばれるこの政策は、惣国を運営していくための資金をつくることが目的だったと思われます。ただ、この政策に対しては反対する者もおり、興福寺大乗院領であった菅井の住民たちは、「菅井惣荘」の名前で納入を断っています。このように、半済政策の実施は、武士たちを担い手とする惣国と土民たちを構成員とする惣荘との間に、税を取る者と出す者という亀裂を生んだのでした。
■惣国の解体
室町幕府奉行人連署奉書 1493(明応2)年8月3日 惣国が成立して何年かたつうちに、ほかにもさまざまな矛盾が表面化してきました。惣国の掟では荘園領主に対する年貢滞納を禁じていましたが、狛野荘(木津川市)、加茂荘(木津川市)、綺田荘(木津川市)では毎年のように滞納がくりかえされました。 また1492(明応元)年10月には、大和の古市氏の後押しを受けた一部の国人が、掟を破って3ヵ所に新しく関所を設けようとし狛野荘・木津荘(木津川市)の住民が荘園領主に助けを求める一幕もありました。国人と土民、国人どうしの対立が表面化しはじめ、そのすきまを縫って他国勢力の介入も強まったのです。 この間、1486(文明 18)年以来山城国守護には幕府の重臣である伊勢貞陸が任じられていましたが、1493(明応2)年になると、伊勢氏は守護の権限を振りかざして人夫の徴発などの命令を出してきました。 ちょうどこのころ、京都では東軍の細川政元(勝元の子)が、西軍の畠山基家(義就の子)と手を組んで新将軍擁立のクーデターを起こしたため、各地の武士の 間でふたたび対立が激しくなっていました。山城惣国もこの政変の影響を受けて、もと畠山政長・細川政元派の国人と、もと畠山義就派の国人との間に対立が生じ、結局、同年8月18日に開いた集会で、守護伊勢氏の命令をきくことになってしまいました。成立してから7年9ヵ月に及んだ惣国は、ここに自治政治を放棄し、山城国一揆は解体したのでした。







■稲屋妻城の合戦
このように山城国一揆は、1493(明応2)年8月18日をもってほぼ終わりを告げたのですが、最後に、精華町域を舞台とする一幕が残って いました。 山城国人衆の数百人が稲屋妻城にたてこもって、守護から相楽・綴喜2郡の支配を命じられた古市氏の入国に反対したのです。これに対して、古市澄胤は、この年9月11日軍勢を率いて山城国に入り、祝園と菅井に陣取って稲屋妻城攻撃 にとりかかりました。 菅井付近にはよろい・かぶとに身を固めた河誉田氏の軍勢50人も配備されました。寄せ手はまず、守護支配に反対 する張本人であった稲八妻公文(公文:荘園の現地管理役人)の進藤父子の館をうちこわし、その後城攻めに向かい、激戦の末これを打ち破りました。ここに山城国一揆は名実ともに終わりを迎えました。 現在、国一揆の最後の舞台であった稲屋妻城の跡を示すものはほとんど見当りません。 ただ、わずかに北稲八間区の共同墓地に残る地蔵石仏と14基の五輪塔(逆修の碑)が戦死者を祀る供養塔ではないかともいわれています。