開始日時 | 2023/06/07 10:56:11 | 終了日時 | 2023/06/07 12:34:32 |
水平距離 | 3.44km | 沿面距離 | 3.44km |
経過時間 | 1時間38分21秒 | 移動時間 | 0時間54分53秒 |
全体平均速度 | 2.10km/h | 移動平均速度 | 3.64km/h |
最高速度 | 7.01km/h | 昇降量合計 | 35m |
総上昇量 | 17m | 総下降量 | 18m |
最高高度 | 78m | 最低高度 | 63m |
地点名 | 通過時刻 移動時間 | 積算距離 区間距離 | 平均速度 | 標高 獲得標高 | 平均勾配 |
---|---|---|---|---|---|
START | 10:56:11 | 0.00km | 76m | ||
00:54:53 | 3.44km | 3.6km/h | ↑17m ↓18m | -0.03% | |
GOAL | 12:34:32 | 3.44km | 76m |
【コース】
近鉄尼ヶ辻駅 ⇒ 垂仁天皇陵 ⇒ 唐招提寺 ⇒ 秋篠川堤を上って ⇒ 近鉄尼ヶ辻駅
それにしても糞害で樹々が枯れることが気になる
かつて川鵜もいたがどこかに追いやられたみたい いずれ白鷺も追い払われるのだろう
2023/06/07 11:11:26
クマツヅラ科クマツヅラ属 南アメリカ原産 多年草
学名は、Verbena bonariensis
全体に剛毛があって著しくざらつく。大きな根株から直立する茎を出し、分枝して高さ1.5mほどになる。茎は通常4稜。葉は広線形で縁に鋸歯があり、無柄で基部はやや茎を抱き、対生する。茎の頂に花序を出し、先端の5裂した紫色の、長さ1cmほどの筒状の花を密につける。花穂は開花に伴って伸長する。花期は夏から秋にかけて咲く。
全国的に市街地の道ばたによく見られる (日本帰化植物写真図鑑)
2023/06/07 11:15:00
垂仁天皇は、日本の第11代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月1日)
御間城天皇(崇神天皇)の第三皇子。生母は皇后の御間城姫命(みまきひめのみこと、大彦命の娘)である。兄の豊城入彦命をこえて、24才で皇太子に立てられる。
父帝が崩御した翌年の1月2日に即位。即位2年に彦坐王(天皇の伯父)の娘の狭穂姫命を皇后とした。
『名』
活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと) - 『日本書紀』
伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと) - 『古事記』
漢風諡号である「垂仁天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
『事績』
●即位元年、1月即位。
●即位2年、狭穂姫を立后。。10月、纒向に遷都。
●即位5年、天皇の従弟にあたる狭穂彦は妹の皇后を唆して天皇を暗殺しようとした。「夫と兄のどちらが愛しいか」と問われ「兄」と答えた皇后は短刀を渡され、寝ている天皇を刺せと告げられた。断ることができなかった皇后は、しかしもう少しというところでどうしてもできず天皇にすべてを打ち明けた。天皇は狭穂彦を討伐することにしたが、兄を見捨てられない狭穂姫は自分が生んだ誉津別命を連れて狭穂彦の元に走った。長らく攻めあぐねた天皇がついに狭穂彦の稲城に火をつけると狭穂姫が飛び出してきた。しかし皇后は誉津別命だけを預けて燃える城の中に戻ってしまい、そのまま兄と共に焼け死んでしまった。
『古事記』では狭穂彦の元に走った皇后は皇子を妊娠しており、稲城で生まれた皇子を渡しに外へ出てきたとある。天皇は屈強な兵士を差し向けて皇后を奪還しようとするが失敗。諦めきれない天皇は子の名付けや育て方、後任の皇后について尋ねて時間稼ぎをしたがついに話すことも無くなり泣く泣く稲城に火を放ち、皇后は兄と共に焼死した。
●即位7年、7月、野見宿禰が当麻蹴速と相撲をとり蹴殺す(相撲節会の起源説話)。
●即位15年、天皇は丹波道主王の娘たちと再婚し、長女の日葉酢媛命を皇后とした。しかし末娘の竹野媛だけは醜かったので故郷に返した(『古事記』では歌凝比売と円野比売の2人)。大いに恥じた竹野媛は葛野で輿から投身自殺してしまった(『古事記』では円野比売。相楽で自殺未遂、弟国で自殺)。
●即位23年、鳥取部・鳥養部・誉津部が設けられた(狭穂姫の遺児の誉津別命が初めて言葉を発した記念とされる)。
●即位25年、武渟川別・彦国葺・大鹿嶋・物部十千根・大伴武日の五大夫を集めて先帝の偉業を称えて神を祀ることを誓った。同年、天照大神の祭祀を日葉酢媛命が生んだ皇女の倭姫命に託した。宇陀、近江、美濃と周った倭姫命は最終的に伊勢に落ち着き伊勢神宮を建立した(元伊勢伝承)。
●即位27年、初めて屯倉(天皇の直轄地)を作った。また諸神社に武器を献納し神地・神戸を定めた。
●即位28年、殉死の禁令。
●即位32年、7月、日葉酢媛命が薨去。野見宿禰の進言に従い、殉死の風習に替えて埴輪を埋納する(埴輪の起源)。
●即位35年、子の五十瓊敷入彦命に河内国の高石池や茅渟池を始め諸国に多くの池溝を開かせて農業を盛んにした。
●即位37年、大足彦尊を皇太子とする。
●即位39年、子の五十瓊敷入彦命が千本の剣を作り石上神宮に納めたことをきっかけに同神宮の神宝を掌らせる。
●即位88年、天日槍の曾孫の但馬清彦に但馬の神宝を献上させた。現在、その神宝は出石神社で祭られている。
●即位90年、2月、天日槍の玄孫の田道間守に命じて常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる。
●即位99年、7月、崩御。140歳(『古事記』では153歳。崇神天皇29年から数えれば139歳の筈であり、『大日本史』はこれによって139歳とする)。12月、菅原伏見陵に葬られた。
『住吉大社神代記』には、在位53年で辛未年に崩御したとある。この干支は『書紀』の庚午年没と1年異なるが『古事記』では崇神天皇没の戊寅年の53年後が辛未のため一致している。
●景行天皇元年、3月、田道間守が帰国。
『野見宿禰』
即位7年、天皇は出雲国造家の野見宿禰を召喚した。当麻村に当麻蹴速という強者がいたからである。当麻蹴速は「自分より強いものはいないのか、全力で力比べできる相手はいないものか」と吹聴していた。そこで野見宿禰を当麻蹴速と戦わせたところ、互いに蹴り合った末に野見宿禰が当麻蹴速の腰を踏み折って勝った。これが相撲節会の起源だとされる。天皇は当麻蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を野見宿禰に与えた。
それからしばらくたった即位32年、皇后の日葉酢媛命が亡くなった。少し前の即位28年に亡くなった倭彦命の葬儀で近習者を集めて殉死させた有様があまりに惨たらしかったため、天皇は殉死の風習に代わるものを考えていた。そこに野見宿禰が進み出て出雲国から100人の土部(はじべ)を呼び寄せることにした。野見宿禰たちは人や馬の形をした焼き物を作り殉死者の代わりとしてはどうかと提案した。これが埴輪の起源だとされる。天皇はこれを称えて野見宿禰に土師臣(はじのおみ)の姓を与えた。なお考古学的には人型や馬型の埴輪は埴輪の中でもかなり後になって出てくるものであり、人型が始まりというこの説話は正しくないことがわかっている。『古事記』には「石祝(棺か)作りを定め、土師部(はにしべ)を定めたまいき」とある。石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民を定めたという意味である。
『非時香菓』
晩年の即位90年、天皇は田道間守を常世国へ遣わして非時香菓(ときじくのかくのみ)を探させた。常世国にたどり着いた田道間守は非時香菓が沢山成っているのを見つけた。そこで実を持ち帰ったのだが既に天皇は亡くなっていた。帰れるとは思えないほどの困難な旅を成し遂げたはずの田道間守は、しかし天皇の元に実を持ち帰ると言う目的を果たせなかった。悲観した田道間守は陵のそばで自殺した。この実は今の橘であると『日本書紀』に書かれているが諸説ある。また垂仁天皇陵の周堀には小島があるが、これは江戸時代の修陵で田道間守の墓に擬して削り遺された外堤であり拝所も設けられている。『古事記』では大后・比婆須比売命(日葉酢媛命)が非時香菓の半分を受け取ったとされ、大后は天皇崩御後まで生きていたことになる。(ウィキペディア)
2023/06/07 12:10:55
【姫女苑】(ひめじょおん)
・菊(きく)科 一年生(草)
・学名ムカシヨモギ属
・開花時期は、 6/ 1 ~ 8/20頃
・北アメリカ原産の帰化植物
花期は夏(6月以降)
つぼみは上向きのことが多。
白い花の部分はピーンと張ってい。
葉っぱは茎からストレートに伸びてい
茎には髄(ずい)という部分が詰まっている
2023/06/07 12:26:40
一級河川の秋篠川は、大和川水系の河川で学園前にある大渕池付近を水源とし、西大寺周辺から西ノ京、唐招提寺薬師寺周辺を流れ、大和郡山市九条町周辺で佐保川に合流します。
奈良時代には平城京への物資の輸送路として、南北に直線に付け替えが行われ、「西の堀河」とも呼ばれていました。
2023/06/07 12:34:15
徳川家綱将軍の寄進した尼寺「興福院」が、平城京の「三条大路」と「西一坊大路」が交差する「辻」(現在の三条大路5丁目交差点付近)があったことから、当駅周辺が「尼ケ辻」という地名となっていたことに由来する駅名である。
現在「興福院」は法蓮村(現在の奈良市法蓮町)へ移転している。