【コース】
JR奈良駅 ⇒ ならまち ⇒ 頭塔 ⇒ 赤穂神社 ⇒ 比賣神社/南都鏡神社/新薬師寺 ⇒ 中の禰宜道 ⇒ 春日大社 ⇒ 若草山
⇒ 手向山八幡宮 ⇒ 東大寺 ⇒ 戒壇院 ⇒ 入江泰吉旧居 ⇒ 近鉄奈良駅 (7.7km 17,200歩)
2代目駅舎の保存・活用
2003年(平成15年)9月6日まで使われていた2代目駅舎は1934年(昭和9年)に完成したもので、周囲の景観に配慮して方形屋根に相輪を持つ和洋折衷様式が採用されている。大阪鉄道局建築課が京都帝室美術館懸賞設計に応募し落選した設計案を再利用したものだった。高架化に伴い取り壊される予定であったが、その歴史的価値から反対の声は根強かったこともあり、曳家によって元の位置から18m移動された上で保存され、奈良市総合観光案内所として利用されている。
この旧駅舎は、2007年に近代化産業遺産、2011年に土木学会選奨土木遺産となっている。
なお、旧駅舎のホールにはなら・シルクロード博覧会に出品されたサモトラケのニケのレプリカ像が飾られていたが、駅舎移設に際して奈良市立一条高等学校に寄贈されている。
古文書によると767年に修二会をはじめた東大寺の僧実忠が土塔を築いたとの記録があり、
それが頭塔にあたるものと考えられています。
頭塔の役割は五重塔らと同じく仏舎利を収める仏塔と考えられています。
また奈良時代の僧玄昉の頭を埋めた墓との伝説があり、頭塔の由来とされてきました。
大正11年(1922)3月8日に国の史跡に指定されました。
頭塔には各面1・3・5・7の奇数段に11基、四方で計44基の石仏が配置されていたと考えられています。
現在は44基のうち28基が確認され、うち1基は郡山城の石垣に転用され「逆さ地蔵」として知られています。
まだ復元されていない南面には五輪塔が複数あります。
現在では22基の石仏が重要文化財に指定されています。
2022.11.04にも行っている 今日は前を通過
奈良名張線
【↑直進】
東大寺
春日大社
飛火野
浮御堂
【→右折】
不空院
新薬師寺
奈良写真美術館
至 滝坂の道
赤穂神社は、奈良県奈良市高畑町にある神社である。式内社。
『延喜式』所載の神社で、二月堂のお水取りの際に読み上げられる『神名帳』にも「赤穂明神」とある。
天武天皇6年(678年)4月14日に十市皇女を、天武天皇10年(682年)に藤原鎌足の娘である氷上娘を「赤穂」の地に葬ったと『日本書紀』に記されており、その赤穂としてこの地が有力とされている。
【 祭神 】
天児屋根命を主祭神とし、天満宮・弁才天を合祀した社を併置している。
「高貴の姫君を祀る」との口碑伝承もあり、女性守護の霊験があるとされている。
【 歴史 】
飛鳥時代よりの藤原氏の氏神であり、平城遷都に伴いこの地に遷座したと伝わる。熟稲を神籬に懸け、「赤丹穂に聞食し給へ」と申したことより、赤穂の社と呼ばれるようになったという。
もとは数百坪程の社地があったといわれ、明井町(閼伽井町か)の通りに大鳥居があり、桜の名所である神領も所持していた。後年田になり、一帯が「桜田」とよばれた。
明治維新を機に荒廃し、200戸近い家々・禰宜の大半が離散し築地塀のみが虚しく残ったといい、堀辰雄らが哀惜の詩文を残したとされる。これを嘆いた地元の有志によって復興が進められ、天満宮と弁才天社を合祀して赤穂神社の左に配し、二社並存という形とした。
1930年(昭和5年)、この近所にある新薬師寺のそばの鏡神社の別社となり現在に至る。
【 伝説 】
聖武天皇が眼病の際、新薬師寺に祈念したところ、夢に「赤穂の神に祈り、社の西南にある清浄水で眼を洗うべし」との神託があった。その通りにしたところたちまち快癒し、それにちなみその清水は明井と名付けられ、今は閼伽井と呼ばれる。
(wikipedia)
春日山・不空院はその名が示す通り、春日山を背に不空羂索観音を本尊とする真言律宗の古刹です。奈良・高畑は春日大社の神職が住まい、多くの文化人に愛された地でもあります。
春日の杜から高円山へと続く門前の小道は、古き奈良の風情を残し、今日も古都を旅する人々が静かに往き交います。ここに足跡を残された弘法大師(空海)を偲ぶ土地の人たちの信仰により「福井之大師」(福井は 不空=福 に発する旧土地名)の別称で呼ばれ、「女人救済の寺」としも知られる所です。
「大乗院寺社雑事記」などの歴史文献には、奈良時代(753年・天平勝宝5年)中国より渡来された鑑真和上が、ここ不空院に住まわれたとの記述があります。
また平安前期(810-824 弘仁年間)には、弘法大師が興福寺・南円堂建立の試みとして、鑑真住房跡であるこの地に雛形の八角円堂の建立を提案して願文を書いたと伝わります。これが不空院の始まりといわれております。八角円堂はこの寺域に確かに建てられ、不空羂索観音が奉安された。八角円堂は江戸時代・安政の大地震で倒壊しましたが、不空羂索観音は現在も当山に御本尊として御座します。
この地に『比賣塚』があり古くから「高貴の姫君の墓」と語り伝えられており、『日本書紀』の記載にある「天武天皇6年4月14日に十市皇女を「赤穂」の地に葬った」とされる。この近くには赤穂神社がある。
1920年代に比賣塚は国有となって奈良財務局の管理下におかれたが、地元の寺島富郷氏の奔走によって奈良財務局から比賣塚の払い下げを受け、そこに神社を造営することとなった。比賣塚の現形9坪を新薬師寺に寄進し、神殿・祭祀を南都鏡神社の摂社として委任することとした。
1980年(昭和55年)夏、新薬師寺・南都鏡神社の協力により地鎮祭が、同年末に上棟祭が行われた。1981年(昭和56年)、十市皇女の命日である4月7日を新暦に換算した日である5月10日に鎮座奉祝祭が行われ、十市皇女を祀る比賣神社が誕生した。 (Wikipedia)
十市皇女は大海人皇子と額田女王の姫御子
天智天皇の御子大友皇子(のちの弘文天皇)の正妃とり葛野王を産んだ
天智天皇が崩御すると吉野に隠棲していた大海人皇子は兵を挙げ父と夫の戦い(壬申の乱)となる
大海人皇子はこの戦いに勝利して飛鳥で即位し天武天皇となる
十市皇女は戦いを逃れて飛鳥で暮らすが30歳前後で急死
この不審な急死に対しては、自殺説・暗殺説がある
『日本書紀』には「十市皇女卒然に病発して宮中に薨せぬ」そして大和の赤穂の地に葬られたと記されている
【歌碑】「河上の ゆついはむらに 草むさず つねにもがもな 常をとめにて」吹黄刀自 万葉集 第1巻 22番歌
十市皇女が伊勢神宮に参った際に「波多の横山(三重県津市一志町)」の巌を見て吹黄刀自が作った歌
【神像石】日本初の漢詩集「懐風藻」を編集した淡海三船や曾祖父の弘文天皇(大友皇子)を顕彰するため
4代にわたる御姿石を設けた
【御祭神】
・本社
天照皇大神
藤原広嗣公
地主神
・別社 式内赤穂神社
天児屋根命・比売神(十市皇女)
・末社
天神社 火雷天神
祖霊社 歴代の氏子内功労者を祀る(昭和36年10月創祀)
天満宮 菅原道真公・市寸嶋姫命
・攝社 比売神社
十市皇女・市寸嶋姫命(昭和56年5月9日鎮座)
天平から天平神護年間(729年 - 767年)に、頭塔の近くにある清水寺(現:福智院)に玄昉の弟子報恩が肥前国唐津から鏡神社を勧請して祀ったのが始まりである。続いて、藤原広嗣の屋敷跡ともされる現在地に大同元年(806年)に移転し、新薬師寺の鎮守社とされた。
代々に渡って春日大社の社殿を下賜されてきた。
現在の本殿は、延享3年(1746年)に春日大社の本殿・第三殿を譲り受け、移築されたものである。一間社春日造建築で、奈良市指定文化財となっている。
天平19年(747年)に、聖武天皇の病気平癒を祈って光明皇后により創建され、7体の薬師如来像が安置されたと言われています。かつては七堂伽藍が整った壮大な寺院で、創建当初の建造物として本堂(国宝)が今に残ります。東門・南門・鐘楼・地蔵堂はいずれも鎌倉時代に建立され、重要文化財に指定されています。
本堂内には円形の土壇が築かれ、壇上には本尊薬師如来坐像(木造・国宝)と、それを囲む日本で最古最大の十二神将立像(塑像・国宝)が安置されています。
大阪万博「古河パビリオン」
周囲に池を巡らした庭の中に、天平文化のシンボルといわれる高さ86メートルの「七重の塔」の展示館がそびえていた。約1200年前、奈良・東大寺の大仏殿前に建てられた2基の「七重の塔」を摸して、当時とそっくりの姿で再現したもので、当時の人たちが塔に託した“新しい世界”への夢を、現代に置きかえようとの意味がこめられていた。
このため、生活の未来像を反映したコンピューター展示の「コンピュートピア」(コンピューターの世界)を収めた半地下式の展示室が、七重の塔の基壇として設けられた。この基壇は高さが10メートルで、周囲に池があった。
塔部分は原形を忠実に再現した鉄骨造で、耐風、耐火、耐震性を考慮しながら、建設に10年は必要といわれた七重の塔を、最新プレハブ工法により約1年間で完成させた。各層の屋根は、4分の1ずつに分けたものを、鉄骨に沿って取り付けたレールでリフトアップし、上層部から順に組み立てるという初めての工法で造られた。
色彩は相輪が金、屋根が黒、欄干と柱が朱で、夜は照明にはえて美しかった。また、最上層には回廊式の展望台が設けられ、地上とはエレベーターで結ばれた。
塔は万博終了後に解体されたが、相輪が東大寺に寄贈され、大仏殿のそばに建てられている。
2023/01/09 13:41:29
東大寺の金堂である。奈良時代に創建されてから治承と永禄の二度の兵火に遭い、現在の建物は江戸時代に公慶上人によって再建された。ただ天平・鎌倉の大仏殿は桁行11間(約88m)であったが、財政困難の理由で7間に規模が縮小された。それでも高さや奥行は創建時のままで、世界最大級の木造建造物である。
東西 57.012m
南北 50.480m
高さ 48.742m
写真家・入江泰吉(1905~1992)は奈良の仏像、風景、伝統行事、万葉の花などを半世紀以上に渡り、撮り続けました。「美しき奈良大和路」のイメージは、入江の写真作品によって広く知られ、定着していった。
一般公開されることになった入江泰吉旧居は、入江が戦後から亡くなるまで暮らした場所です。旧居がある水門町は、東大寺旧境内で、いまも土塀や古い家が並ぶ風情ある町並みが残ます。ここで、作品の構想を練り、暗室で現像を行うなどの仕事をし、趣味の時間を愉しんだのはもちろん、親しかった第206世東大寺別当・上司海雲、文豪・志賀直哉、画家・杉本健吉、随筆家・白洲正子をはじめ、多くの人も来訪しました。
1992(平成4)年4月、入江が全作品を奈良市に寄贈したことから入江泰吉記念奈良市写真美術館がオープンした8年後の平成12年(2000年)妻のミツエは自宅を奈良市に寄贈する。
2023/01/09 14:09:47
奈良の待ち合わせ場所といえば「行基広場」です。行基広場には行基菩薩の像が設置してあります。行基は奈良時代の僧で社会福祉や土木の公共事業を行い、それを認められ「奈良の大仏」建立にも携わった人物です。現在の像は3代目で、初代の像と同じ型で作られた像が「大和登美山鼻高霊山寺」にもあります。