【コース】
JR京都駅前 ⇒ 嵐山公園バス停 ⇒ 中洲からの渡月橋 ⇒ 大悲閣千光寺 ⇒ 川辺で昼食 ⇒
戸無瀬の滝 ⇒ 櫟谷宗像神社 ⇒ 保津川下りの船回収場所 ⇒ 嵐山公園バス停 ⇒ JR京都駅
2022/10/04 10:31:12
JR京都駅前バス停C6のりばから50分 230円
2022/10/04 10:50:28
桂川左岸と、中州である中ノ島公園の間に架かる橋で、全体が右京区にある。橋長155m、幅12.2m。
当初は100m~200mほど上流にあった。
1606年(慶長11年)に角倉了以によって保津川の開削工事とともに現在の位置に架け替えられ現代にまで残る渡月橋の原型となった。
大悲閣までは 渡月橋から保津川に沿って 途中から山道を(高さ100m)登って約1km歩く
道中には芭蕉の「花の山 ニ町のぼれば 大悲閣」と「六月や峰に雲おくあらし山」の句碑がある。
角倉了以(すみのくらりょうい)(1554~1614)
---------------------------------------------
安土桃山・江戸初期の豪商
角倉了以は京都嵯峨の出身で、その生涯はほぼ徳川家康と重なっている。角倉家は代々医術を本業としていたが、その傍ら土倉
つまり質屋も営んでいた。了以は祖父の企業家精神と、医者であった父の科学的精神をうけて、医業は弟に譲り自分は土倉経営
を中心に家業を発展させ、海外貿易でも文禄元年(1592)豊臣秀吉の朱印船に加わり、安南国(今のベトナム)と貿易して莫大
な富を得たようだ。
家康が江戸幕府を開いて3年後に、京都の西を流れる保津川(大堰川)開掘の願書を出し、30数キロ上流から嵯峨までの舟運
に関する権利を得た。そして、開削を始めて6カ月後には竣工させている。その工事に当たっては人任せでなく、自ら石割斧を
振るって仕事にあたったと言われる。史料「前橋旧蔵聞書・六」等々によると、保津峡の開削の成功によって搬送船が嵯峨に着
き、大堰川開削により丹波地方の農作物は旧倍して運ばれはじめ、嵯峨近辺は商人の往来が多くなり発展したと記録されている。
材木は筏で運送され、険しい山道を人馬で物資を搬送していた頃に比べれば、その利便は格段の差を生じた事が伺える。角倉家
は、莫大な資金を投じて開削したが、開削後の水運による収益をすべて独占する事で、さらなる利益を得たと考えられる。通船
の技術導入に当たっては、行舟術にすぐれた舟夫18人を了以が嵯峨に招いて、新しい水運への対応をした。舟夫の止宿先は嵯
峨の弘源寺で、後にこれらの船夫を嵯峨に定住させ、大雄寺の荒れ地を開拓し、ここに舟夫の居住地を作った。そこには今でも
角倉の地名が残っている。(現在の京都市右京区嵯峨角倉町あたり)。他にも了以が行った通船のための河川疎通事業としては、
富士川・天龍川・高瀬川等の開削がある。
中でも、了以の名が今日にまで残る事になったのは、晩年に開削した同じ京都の高瀬川の開削である。方広寺大仏殿再建のため
の資材輸送を命じられていた了以は、淀川の上流で調達した木材を筏にくみ、使用許可を取っていた鴨川を遡って京の三条まで
運び込んだ。この時、鴨川を遡る事が難しいことを知った了以は、京と伏見の間に運河を造る事を考え、高瀬川の開削計画を立
てたと言われる。工事は三次に分けて行われた。第一次は慶長16年(1611)から開始され、慶長19年に完成した。水がいつ
も濁らぬよう、樋門や汚水抜きの溝なども配置してあり、この計画が非常に優秀なものであった事がわかる。了以は商人として
も偉大だったが、土木技師としても優れていたのだ。高瀬川開発には、了以の息子素庵(そあん)も協力した。
開発には7万5千両(150億円)を費やしたとされるが、了以は運河航行には通行料を徴収しており、当時の通行料は、・幕府
納入金1貫文、・舟の維持費250文、角倉家手間賃1貫250文となっていて、一回の船賃が合計2貫500文となり、こ
れから計算すると、角倉家に年々納められる金額は1万両を超えたと思われ、その経済的利益は莫大であったことがわかる。勿
論通航費を支払っても、人馬で物資を運ぶより採算性がすぐれていたから、江戸年間を通じて利用された続けた事は言うまでも
ない。
了以は、高瀬川の完成を見届けたかのように、竣工した慶長19年7月17日、61才の生涯を閉じている。京都洛西の「二尊
院」に角倉了以の墓がある。
現在の大悲閣は、保津川の開削を計画した角倉了以や、その一族(外祖父)で塵劫記の著者の吉田光由に因み、
そろばんや数学・理学向上の寺とされる。
【 常寂光寺 塵劫記の碑 】
塵劫記(じんこうき)は、江戸時代前期の寛永4年(1627年)に吉田光由(よしだ みつよし)によって記された数学書(算術書)
です。命数法や単位、掛け算九九などの基礎的な知識のほか、面積の求め方などの算術を身近な話題をもとに解説し、これ一冊で
当時の日常生活に必要な算術全般をほぼ網羅できる内容となっており、日本における算学の草分け的な書物で、以後に作られた
珠算書や算学書のベースとなりました。
吉田光由は、常寂光寺創建時に土地を寄進した京都嵯峨の角倉家の一員で、塵劫記刊行350年を記念して角倉家ゆかりの常寂光寺
境内に顕彰碑が1977年(昭和52年)に建立されました。
「 仮本堂 」 「角倉了以木像」
「 観音堂 」 「 そろばん玉で作られた三重塔 」
「 観音堂からの絶景 」
「 周恩来の詩碑 」
昼食していると 保津川下りの船や遊覧の船 それにしても渡月橋から約1kmの距離を手漕ぎボートまでが
平安時代から多くの和歌に詠まれ、鎌倉時代の
中期には、藤原定家の息子の為家が「雲かかる山
の高根の夕立に戸無瀬の瀧の音まさるなり」と
この滝の様子を歌に詠んでいる。
室町時代の初期には、天龍寺の開山である夢窓
疎石が天龍寺十境の一つとして戸無瀬の滝を三級
巌と名付け、三段になって流れ落ちる様子は、江戸
時代の「都名所図会(卷四『嵐山・法輪寺・渡月
橋』)」や「都林泉名勝図会(卷五『法輪寺十三
参・渡月橋』)」,歌川(安藤)広重の筆による「六十
余州名所図会」などに描かれている。「戸難瀬」
「戸灘瀬」とも書かれる。.
櫟谷社と宗像社の2社が1殿に祀られており、櫟谷社は式内社で、現在は両社合わせて松尾大社の摂社である。
社殿は渡月橋の南橋詰近くに鎮座する。櫟谷社と宗像社はそれぞれ「松尾七社」の一社に数えられ、特に櫟谷社は松尾社・月読社とともに「松尾三社」に数えられる。
【 祭神 】
・櫟谷神社:奥津島姫命 (おきつしまひめのみこと、田心姫命)
・宗像神社:市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと)
すぐ横に嵐山モンキーパークがある
回収された船はトラックに積んで国道9号線を亀岡まで輸送。船頭たちはJRで嵯峨野駅から亀岡へ戻る
保津川下りが観光として始まったのは1885年(明治18年)、それ以来1948年(昭和23年)ごろまで60数年間、
船頭たちは嵐山から亀岡まで綱で船を引っ張りながら川岸を歩き、4~5時間かけて戻っていた。
2022/10/04 14:05:32
JR京都駅に戻る
昼食は駅地下街ポルタの神座ラーメンに入る