開始日時 | 2022/03/28 11:22:38 | 終了日時 | 2022/03/28 13:40:52 |
水平距離 | 6.52km | 沿面距離 | 6.92km |
経過時間 | 2時間18分14秒 | 移動時間 | 1時間37分29秒 |
全体平均速度 | 3.01km/h | 移動平均速度 | 4.08km/h |
最高速度 | 18.89km/h | 昇降量合計 | 419m |
総上昇量 | 219m | 総下降量 | 200m |
最高高度 | 70m | 最低高度 | 0m |
【コース】
JR平野駅 ⇒ 大念仏寺 ⇒ 楯原神社(神寶十種之宮) ⇒ 専念寺 ⇒ JR平野駅 (2時間20分/徒歩6.5㎞ 18,500歩)
2022/03/28 11:23:27
融通念仏宗総本山
比叡山延暦寺の天台宗僧・良忍が、大治2年(1127年)に鳥羽上皇の勅願により開創した。
本堂(大阪市指定有形文化財)は大阪府下最大の木造建築物である。
奉安所(権現造)は後鳥羽上皇、後小松天皇、徳川家康を祀る。
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私費を投じて佐保川に石橋を架け、自身のアイデアによる夥しい石造物をお抱えの石工に彫らせる。維新前の奈良まちに生まれ、宇宙菴と称し三尺将軍と親しまれていた長慶は、珍しい石灯、如来像や大黒を近畿各地の社寺に奉納したほか、「如来道・宇宙教」を唱導し、僧籍に入って佐保山の麓に長慶寺を開基した。奈良県内はもちろん京都、大阪、高野山にまで、生涯に制作した二百を超える特異な刻文碑や石造作品が今も各地に遺されている。
質商を営み北浜で成功した相場師としての顔、長く奈良市会議員を務めた政治家としての顔、宇宙教を唱導し長慶寺を建立開基した宗教家としての顔など、地方の一奇人に納まらない視野の広い実践的知識人であった。
楯原神社 2022/03/28 12:14:23 |
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式内楯原神社 当社は、社伝では崇神天皇七年の鎮座とされる古社 で、延喜式内の神社である いにしえは、もとの字楯原(現在の喜連西一丁目、 近畿電波管理局敷地)にぁったが、兵火に遇って現在 の地に遷座し、桓武天皇のとき(西暦八00年頃)字 十五の龍王社を合祀し、境内別殿として奥の宮と称した さらに、元和年間(一六ニ〇年頃)付近の天神社を 合祀し、天神社と称するようになリ、楯原の社名は別 殿の奥の宮に移った(現在の奥の宮には、十種神宝 宮を摂社として遷座、日本最初の神宝で、十種の祓は 大正三年内務省選定) このため、明治五年、式内の楯原神社は社格を得ず、 併祀の天神社が村社となる状況であったが明洽四十 年、神社整理を機に現在の社名に改められた 当社には、萬葉集にも詠われている息長家の碑が祀 られている また、隣接の如願寺は、当社の宮寺であったが、明 維新後分離した 祭神 武甕槌大神 大国主大神 平野区役所 |
『神寶十種之宮略記』 配祀神 布留御魂大神( ふるのみたまのおおかみ、十種神宝:とくさのかみたから )は 天璽瑞宝十種( あまつしるしみづのかんだからとくさ ) に籠る霊妙 ( くしび )なる御霊威( みたま )れます。 『瑞宝十種』 ・沖津鏡( おきつかがみ )一つ、 ・辺都鏡( へつかがみ )一つ、 ・八握生剱( やつかのつるぎ )一つ、 ・生玉( いくたま )一つ、 ・死反玉( まかるかへしのたま )一つ、 ・足玉( たるたま )一つ、 ・道反玉( みちかへしのたま )一つ、 ・蛇比礼( おろちのひれ )一つ、 ・蜂比礼( はちのひれ )一つ、 ・品物比礼( くさぐさのもののひれ )一つ にして神代の昔、饒速日命が天降り給う時、天つ神の詔をもって 「若し痛む処あらば、この十種神宝をして 甲乙丙丁戌己庚辛壬癸一二三四五六七八九十 ( きのえさかとひのえにのとつちのえつちかどかのえかのとみづのえみづのとひふみよいもなやくとち ) と謂いて布留部由良止布瑠部( ふるべゆらゆらとふるべ )かくなさば、死人( まかれるひと )も生き反えらん」 と教え諭して授け給いし霊威( みいづ )高き神宝( かんだから )なり。 其の御子、宇摩志摩治命( うましまじのみこと )は神宝を天皇に奉り、布都霊( ふつのみたま )の御前に蔵めて、 永く宮中に奉斎せられたが、崇神天皇の御代に布都霊と共に石神布留の高庭に鎮り給うた。 『十種神宝の行方』 十種瑞津の宝の当地に鎮座ましますに至る由来は、其の昔永禄年間室町幕府の末期、足利義昭が織田信長に奉ぜられて入京、 そして永禄11年10月18日征夷大将軍に任ぜられ室町幕府第15代将軍となった。 然れどもすぐにその権力はなく信長の力にたよらねば何事も出来なかった。 しかし、義昭は将軍となるや大和の法隆寺、石神神宮、山城の大徳寺、紀州の根来寺、摂州の本願寺など畿内の主な社寺や有力な大名に呼びかけて 味方につけようとした為に、当然信長と衝突した。 かくするうちに天正元年義昭は公然と武田、浅井、朝倉、本願寺などと手を組み信長討伐にのりだした。しかし信長はたちまち反撃に出てそれをおさえた。 それ時、天正元年8月石上神宮も織田の武将達の焼打にあひ、財宝はうばわれ十種瑞津神宝は持ち去られた。 その後、天正10年信長は、本能寺に明智光秀に討れ、光秀又、豊臣秀吉の為、山崎合戦に破れ天正13年秀吉天下を取るに至る。 石上神宮の神宝、十種瑞津の神宝は心ある士に守られて保護されていた。 秀吉その士に十種瑞津神宝の話を聞き、餘りの有難さと現実の因果におどろき、十種瑞津の神宝を生魂の森深く永久に鎮まりませと納め奉った。 時は流れ徳川幕府も終わりの討幕運動が大詰にはいった慶應3年8月下旬、名古屋地方に伊勢神宮のお札が降ったとのうわさをきっかけに、老若男女が 気違いのように踊り狂い、乱舞は日に夜につづき、はじめは京都、大阪、大津など、近畿地方に行なわれ、次第に日本全国に及んだ。 鳴物入りで 「 ええじゃないか 」 のはやしをつけた卑俗な唄をうたいながら踊り歩いた。 これはかつての「 おかげまいり 」にみられた宗教的興奮が、倒幕直前の政情不安に乗じて形をかえた。「 世なほし 」騒動の要素も交っており、 気にくわぬ地主や富豪の家に踊り込み暴れ廻った。そして暴徒は社寺佛閣にまで押しかけて荒れ狂ひ、生魂の宮もおそれて暴徒のほしいままにされた。 其の時に、神宝瑞津の宝は、二度目の難を受け暴徒に持ち去られて、生魂の森よりお姿が消えた。 其の後、神宝は町の古道具やの店頭にさらされていたのを喜連に住む小林某なる人により発見され、買いもとめてこれを家にて祭れり。 後小林氏当地を去るにあたり浅井氏に預け、浅井氏又、この地の旧家増池氏に預けられしが、増池氏敬崇の志厚く永代御灯明料共に神宝を式内楯原神社に奉納と 社殿を建立し斎き祭るに至れり。 後に室戸台風にあひ、社殿はたおれ長らく拝殿に祭り居りしも、今里の庄司善雄氏( 石上神宮の守護職を歴代つとめている ) が返還を求めてきたが、 この尊き神宝を返さずにあたらしい社殿を建立してこれを末永く斎き祭るに至れり。 河内国河上の哮峯に天降座りしより幾千年、神宝はよき地を得て鎮まる処を得るなり。 「 之文歴史参照 庄司氏談話より 」
案内なし・何? |
標柱「息長真若中女」 |
十種神宝社の隣に「息長真若中女」と刻まれた標柱が立っている。これは明治37年に息長真若中比女の陵墓と伝わる広住塚の外濠から出土したものである。 息長真若中比売は応神天皇の妃。 |
2022/03/28 12:34:26