開始日時 | 2021/12/03 10:15:12 | 終了日時 | 2021/12/03 14:16:11 |
水平距離 | 24.41km | 沿面距離 | 24.65km |
経過時間 | 4時間00分59秒 | 移動時間 | 2時間03分27秒 |
全体平均速度 | 1.16km/h | 移動平均速度 | 11.73km/h |
最高速度 | 66.20km/h | 昇降量合計 | 1128m |
総上昇量 | 567m | 総下降量 | 561m |
最高高度 | 286m | 最低高度 | 93m |
【コース】
奈良精華線 ⇒ ならやま大通り ⇒ 生駒市道4号線 ⇒ 神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑 ⇒ 生駒市道4号線 ⇒ 生駒市総合公園 ⇒ 饒速日命墳墓
⇒ 生駒市道4号線 ⇒ 枚方大和郡山線 ⇒ 長弓寺 (4時間/25㎞)
神武天皇聖蹟顕彰碑
「紀元二千六百年奉祝記念事業」の1つとして、1940年に「神武天皇聖跡顕彰碑」が神武東征ルート上に合計19ヶ所建立された。
顕彰碑名 推考地、伝説地(旧名)
1 菟狭(うさ)顕彰碑 大分県宇佐郡
2 崗水門(をかのみなと)顕彰碑 福岡県遠賀郡蘆屋町
3 埃宮(えのみや)・多祁理宮(たけりのみや)顕彰碑 広島県安芸郡府中町
4 高嶋宮(たかしまのみや)顕彰碑 岡山県児島郡甲浦村
5 難波之碕(なにはのみさき)顕彰碑 大阪府大阪市
6 盾津(たてつ)顕彰碑 大阪府中河内郡孔舍衙村
7 孔舍衛坂(くさえのさか)顕彰碑 大阪府中河内郡孔舍衙村
8 雄水門(をのみなと)顕彰碑 大阪府泉南郡樽井町・雄信達村
9 男水門(をのみなと)顕彰碑 和歌山県和歌山市
10 名草邑(なくさのむら)顕彰碑 和歌山県海草郡・和歌山市
11 狭野(さぬ)顕彰碑 和歌山県新宮市
12 熊野神邑(くまぬのかみのむら)顕彰碑 和歌山県新宮市
13 菟田穿邑(うだのうかちのむら)顕彰碑 奈良県宇陀郡宇賀志村
14 菟田高倉山(うだのたかくらやま)顕彰碑 奈良県宇陀郡政始村・神戸村
15 丹生川上(にぶのかはかみ)顕彰碑 奈良県吉野郡小川村
16 鵄邑(とびのむら)顕彰碑 奈良県生駒郡
17 磐余邑(いわれのむら)顕彰碑 奈良県磯城郡桜井村・安倍村・香具山村
18 鳥見山中霊畤(とみのやまのなかのまつりのには)顕彰碑 奈良県磯城郡城島村・桜井町
19 狭井河之上(さいがはのほとり)顕彰碑 奈良県磯城郡三輪町・織田村
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神武東征における最後の決戦地
【碑文】
『神武天皇戊午年十二月皇軍ヲ率ヰテ長髄彦ノ軍ヲ御討伐アラセラレタリ時ニ金鵄ヲ得サセ給ヒシニ因リ
時人其ノ邑ヲ鵄邑ト號セリ聖蹟ハ此ノ地方ナルヘシ』
『神武天皇率いる皇軍は戊午年十二月長髄彦を討伐しにやって来ましたが、苦戦し闘いがなかなか終わらない。
すると急に黒雲が空を覆い、暗くなり、叩きつけるように雹が降ってきました。
そして一筋の光が差したかと思うと金色の霊鵄が現れ彦火火出見尊の弓の先に止まり稲光のような瑞光を発しました。
長髄彦の軍は眩しくて目も開けられず、ついに降参しました。』
目指す墳墓はあの赤白の鉄塔の傍に・・・テニスコートの裏に回るとすぐに下り階段があった
道なき道を進む
道がないのは可怪しい 間違ったか!
迷って迷って引き返す(途中3mほど転げ落ちて泥塗れ幸いに怪我なし)/饒速日命墳墓(到達できず、NETの写真拝借)
【饒速日命】
十種神宝(とくさのかんだから)饒速日(ニギハヤヒ)とは『記紀神話』の「神武東征」に登場する神であり、神日本磐余彦尊(後の神武天皇)が大和へ東遷する前に大和地方を治めていたとされています。そして、その子孫は物部氏(もののべし)となって天皇に仕え、朝廷で軍事と祭祀を司ったとされます。
しかし、『記紀』はあくまでも天皇側の史観に基づく内容になっているため、ニギハヤヒについては詳しく記されません。一方、物部氏側の史観に基づいて記された『先代旧事本紀(旧事紀)』では、饒速日尊および物部氏にまつわる神々について詳しく記されており、なかなか興味深い内容となっています。
そのほか、風土記や古史古伝、および神社伝承などにも独自の説話が残されているようです。
その結果、多くの神々と習合するような説やヤマト王権以前の日本の天皇だったなどの説が語られるようになり、近年の古代史において密かに人気を集めている謎の多い神となっています。
『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族である那賀須泥毘古が奉じる神として饒速日が登場する。那賀須泥毘古の妹の登美夜毘売(『日本書紀』では三炊屋媛という)を妻とし、との間に宇摩志麻遅命をもうけた。宇摩志麻遅命は、物部連、穂積臣、采女臣の祖としている。神倭伊波礼毘古(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗した那賀須泥毘古が敗れた後、神倭伊波礼毘古が天照大御神の子孫であることを知り、神倭伊波礼毘古のもとに下った。
『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。これらは、瓊瓊杵尊の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、饒速日命の存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。
『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」といい天忍穂耳尊の子で瓊瓊杵尊の兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神であるとしている。また物部氏、穂積氏、尾張氏、海部氏、熊野国造らの祖神と伝える。
『新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照大神の系)とし両者を別とする。
神武天皇と饒速日命の関係
神武天皇(イワレビコ)は塩土老翁から「東方に美しい土地があり、天磐船で先に降りたものがいる」と聞く。そして彼の地へ赴いて都を造ろうと、一族を引き連れ南九州から瀬戸内海を経て東へ向かい、難波碕(現代の大阪)へたどり着く。その後河内国草香邑から生駒山を目指す。そこに土着の長髄彦(ナガスネヒコ)が現れたため戦うが苦戦する。神武は「日(東)に向って敵を討つのは天の道に反す」として、熊野(紀伊半島南端部)へ迂回して北上することにした。
菟田(奈良)に到達し高倉山に登ってあたりを見渡すと、八十梟帥が軍陣を構えているのが見えた。その晩神武の夢に天神が現れ「天神地祇を敬い祀れ」と告げる。その通りにすると敵陣を退治でき、続いて長髄彦を攻める。
すると長髄彦は「我らは天磐船で天より降りた天神の御子饒速日命(ニギハヤヒ)に仕えてきた。あなたは天神を名乗り土地を取ろうとされているのか?」と問うたところ、神武は「天神の子は多い。あなたの君が天神の子であるならそれを証明してみよ」と返す。長髄彦は、饒速日命の天羽々矢(あめのはばや)と歩靫(かちゆき)を見せる。すると神武も同じものを見せた。長髄彦はそれでも戦いを止めなかった。饒速日命(ニギハヤヒ)は天神と人は違うのだと長髄彦を諌めたが、長髄彦の性格がひねくれたため殺し、神武天皇に帰順して忠誠を誓った。
天磐船を操船した者
・船長:天津羽原(あまつはばら)、跡部首(あとべのおびと)らの祖
・梶取:天津麻良(あまつまら)、阿刀造(あとのみやつこ)らの祖
・船子:天津真浦(あまつまうら)、倭鍛師(やまとのかぬち)らの祖
・船子:天津麻占(あまつまうら)、笠縫らの祖
・船子:天津赤麻良(あまつあかまら)、曽曽笠縫(そそのかさぬい)らの祖
・船子:天津赤星(あまつあかぼし)、為奈部(いなべ)らの祖
饒速日命の墳墓は、奈良県生駒市白庭台にある白庭山である
神名
ニギハヤヒには数多くの別名が存在しています。その種類は以下の通りです。
・邇芸速日命(ニギハヤヒ):『古事記』
・饒速日命(ニギハヤヒ):『日本書紀』『先代旧事本紀』など
・櫛玉饒速日命(クシタマニギヤハヒ):『日本書紀』
・饒速日尊(ニギハヤヒ):『先代旧事本紀』
・天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアマノホアカリクシタマニギハヤヒ):『先代旧事本紀』
・天照国照彦天火明尊(アマテルクニテルヒコアマノホアカリ):『先代旧事本紀』
・天火明命(アメノホアカリ):『先代旧事本紀』
・胆杵磯丹杵穂命(イキイソニキホ):『先代旧事本紀』
・国照(クニテル):『秀真伝(ホツマツタヱ)』
・火明(ホアケ):『上記(ウエツフミ)』
父母兄弟
・父・アメノオシホミミ:『日本書紀』異伝、『先代旧事本紀』など
→ 『播磨国風土記』における「火明命」の父は大汝命(オオナムチ)とされる
→ 『日本書紀』本文における「火明命」の父はニニギとされる
・母・タクハタチヂヒメ:『日本書紀』異伝、『先代旧事本紀』など
→ 別名:ヨロヅハタトヨアキツシヒメ
・弟・ニニギ:『日本書紀』異伝、『先代旧事本紀』など
妻子
・妃・天道日女命(アメミチヒメ):『先代旧事本紀』など
→ 大己貴命(大国主)の娘
⇒ 元伊勢籠神社でも彦火明命の妃として紹介されている
・子・天香語山命(アメノカゴヤマ):(『先代旧事本紀』など)
→ 尾張氏の祖先であり、「神武東征」における高倉下(タカクラジ)に当たる
⇒ 神武天皇即位後に東日本を平定し、新潟県の彌彦神社に鎮座したとされる
・妃・御炊屋姫(ミカシキヤヒメ):『先代旧事本紀』など
→ 登美の首長・長髄彦(ナガスネヒコ)の妹
⇒ 『古事記』では登美夜毘売(トミヤビメ)とされる
・子・宇摩志麻遅命(ウマシマジ):(『記紀』『先代旧事本紀』など)
→ 物部氏の祖先であり、可美真手命(ウマシマデ)、味間見命(ウマシマミ)とも
⇒ 神武天皇即位後に西日本を平定し、島根県の物部神社に鎮座したとされる
・妃・市杵嶋姫命(イチキシマヒメ):『籠神社伝承』
→ 素戔嗚尊(スサノオ)の娘で宗像三女神の筆頭
⇒ 彦火明命の妻とされる(一応、饒速日尊と彦火明命は同神としている)
・子・穂屋姫命(ホヤヒメ)
→ 天香語山命と結婚し、海部氏三代目・天村雲命(アメノムラクモ)を儲ける
饒速日尊が始祖となる後裔
・物部氏:宇摩志麻遅命(ウマシマジ)を初代とする
・尾張氏:天香語山命(アメノカゴヤマ)を初代とする
・海部氏:彦火明命(ヒコホアカリ)を始祖とする
【十種神宝】【神宝十種之宮】
大阪市平野区喜連に鎮座する「式内楯原神社」の「神宝十種之宮」には『十種神宝』の現物が祀られている。
その十種神宝は、崇神天皇の御代に石上布留の高庭(石上神宮)に鎮め祀られた。
時は流れて室町幕府末期のこと。時の征夷大将軍「足利義昭公」は、織田信長に反旗を翻すべく、各地の大名や、石上神宮をはじめとする畿内の有力社勢力と手を結ぶ。
当然ながらの信長の反撃に遭うのは必定。信長の前には、石上神宮も例外でななかった。この時の焼き討ちで、十種神宝をはじめとする財宝が持ち去られたのである。
その後信長は、明智光秀の謀反によって暗殺され、その後、秀吉が天下を取ることになる。
一方、十種神宝はというと、心ある士によって保護されていたらしい。
十種神宝が現存することを知った秀吉は驚き畏れ、十種神宝を「生魂の森」の地中深くに鎮め斎き奉った。
さらに時は流れて、徳川幕府末期。討幕運動が盛んなころ、名古屋地方に伊勢神宮のお札が降ったという噂をきっかけに、「ええじゃないか」が大流行。やがては暴徒化し、各地の地主や富豪の屋敷が荒らされた。
「生魂の森」も暴徒に荒らされ、またもや地中深くに埋めていた十種神宝は持ち去られてしまった。
そんな十種神宝が、なんと古道具屋の店頭に陳列されていた。喜連に住む小林さんが買い求めて自宅で祀ることにした。
その後、喜連を離れることになった小林さんは浅井さんに譲り、さらに地元の名家「増池さん」に渡り、増池さんが「楯原神社」に奉納。社殿を建立するに至る。
なお、石上神宮が『十種神宝』の返却を要望したが、楯原神社は断った。
石上神宮では、「布留御魂大神」として神格化、次の祓詞で祭神としてお祀りしている。 「十種祓詞」 (ルビを含む) 高天原たかまのはらに神留かむづまり坐ます、 皇親すめむつ神漏岐かむろぎ神漏美かむろみの命みこと以もちて、 皇神等すめかみたちの鋳顕いあらはし給たまふ十種とくさの瑞寶みずのたからを、 饒速日尊にぎはやひのみことに授さずけ給たまひ、 天津御祖神あまつみおやのかみは言誨ことおしへ詔のり給たまはく、 「汝命いましみこと、この瑞寶みずのたからを以ちて、 豊葦原とよあしはらの中國なかつくにに天降あまくだり坐まして、 御倉棚みくらだなに鎮しづめ置おきて、 蒼生あおひとくさの疾病やまいの事ことあらば、 この十種とくさの瑞寶みずのたからを以もちて、 一二三四五六七八九十ひとふたみよいつむゆななやここのたりやと唱となへつつ、 布瑠部ふるべ、由良由良ゆらゆらと布瑠部ふるべ。 かく為なしては死人まかりしひとも生返いきかえらむ」 と言誨ことおしへ詔のり給たまひし随まにまに、 饒速日尊にぎはやひのみことは天磐船あめのいわふねに乗のりて、 河内國かわちのくにの河上かわかみの哮峯たけるがみねに 天降あまくだり坐まし給たまひしを、 その後、大和國やまとのくに山辺郡やまべのこおり布瑠ふるの高庭たかにわなる 石上神宮いそのかみのかみのみやに遷うつし鎮しづめ斎いつき奉まつり、 代代よよ、其そが瑞寶みずのたからの御教言みおしえことを 蒼生あおひとくさの為ために布瑠部ふるべの神辞かみことと仕つかへ奉まつれり。 故かれこの瑞寶みずのたからとは、 瀛津鏡おきつかがみ、辺津鏡へつかがみ、八握剣やつかのつるぎ、 生玉いくたま、足玉たるたま、死返玉まかるがえしのたま、道返玉ちがえしのたま、 蛇比礼へみのひれ、蜂比礼はちのひれ、品品物比礼くさぐさのもののひれの十種とくさを、 布瑠御魂神ふふのみたまのかみと尊とうとみ敬うやまひ斎いつき奉まつる事ことの由よしを、 平たひらけく安やすららけく聞きこし食めして、 蒼生あおひとくさの上うえに罹かかれる災害わざわい及諸諸またものものの疾病やまいをも、 布瑠比除ふるいのけ祓はらひ却やり給たまひ、 寿命いのち長ながく五十橿いかし八桑枝やぐはえの如ごとく立栄たちさかへしめ、 常磐ときはに堅磐かきはに守まもり幸さきはへ給たまへと、 恐かしこみ恐かしこみみも白まおす 「布留の言(ふるのこと)」 ひふみよ いむなや こと ふるべ ゆらゆらと ふるべ 「ひふみ祓詞」 ひふみよ いむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑに さりへて のます あせえほれけ
伊弉諾神社 伊弉諾(登彌)神社
【由緒】
生駒山の北の饒速日山は太陽信仰の対象としての神体山であった。そこには社殿もなかったが天照御魂神社の原型の祭りの庭であった。後に、饒速日命を祀る「上ノ社」がこの頂上に設けられた。 これに対する東の「下の社」がこの登弥神社(現伊弉諾神社)、西の「下ノ社」が石切劔箭神社である。式内登弥神社の論社は奈良市石木町の登弥神社がある。
後に物部氏が滅ぼされると、山上の饒速日の神霊はそれぞれ「下ノ社」に遷された。
長弓寺は聖武天皇御宇に創建され、その守護神として伊弉諾神社が建立されたとの寺院側の説明であるが、統括する鳥居の存在は、もともとこの地は大宮であって、そこに神宮寺を置いた。大宮は式内社の登弥神社であり饒速日命と御炊屋姫を祀っていた。二神の廟社であり「天羽羽弓」を納めた真弓塚が東側にある。旧事本紀には天羽羽矢を白庭山に納め饒速日命の墓としたとあるのが、ここの真弓塚である。 また長弓寺は長髄彦の旧跡でもある。
鳥居傍の石柱は「伊弉諾神社」