開始日時 | 2021/11/26 10:38:37 | 終了日時 | 2021/11/26 13:32:57 |
水平距離 | 3.97km | 沿面距離 | 4.16km |
経過時間 | 2時間54分20秒 | 移動時間 | 1時間10分03秒 |
全体平均速度 | 1.43km/h | 移動平均速度 | 3.29km/h |
最高速度 | 27.17km/h | 昇降量合計 | 232m |
総上昇量 | 115m | 総下降量 | 117m |
最高高度 | 144m | 最低高度 | 57m |
好天秋日和 参加者:30人(ほとんど70代以上)、スタッフ:7人
【コース】
新祝園駅(9時集合 9:37発乗車) ⇒ 地下鉄烏丸御池駅 ⇒ 地下鉄蹴上駅 ⇒ 蹴上義経地蔵前広場で点呼、体操
⇒ 日向大神宮 ⇒ 田辺朔郎銅像前(各自昼食) ⇒ 南禅寺 ⇒ 青蓮院 ⇒ 知恩院 ⇒ 円山公園(15:00 解散 行程約7㎞)
予定は上のコースのはずだったが、コロナの関係で団体での昼食が広場・公園など出来ないという。
円山公園まで行って解散後そこで個人で食べてと。そんなこと事前に分かってたはずなのに”今頃”という感じ。
南禅寺でトイレ休憩まではコース通り。そして南禅寺は見学せず即円山公園に向かうというので、
せっかくの紅葉なので私はここで別れて”見学します”と、申し出て、みんなの意見を聞いたら、一先ずここで解散することとなった。
南禅寺の紅葉を十分に満喫、本堂裏側で一人昼食(事前に分かってたら要らなかったかも)、地下鉄蹴上駅から帰宅 (11,500歩)
2021/11/26 10:38:02
2021/11/26 10:40:00
この地蔵堂の前の広場で、点呼と準備体操。傍に、インクライン・びわ湖疏水船蹴上乗下船場がある。
(立札より)
平安時代末期、義経(遮那王・牛若丸)は鞍馬山を離れ、平家打倒を胸に秘め金売吉次とともに奥州へ向かう途中、日ノ岡峠に差し掛かりました。行く手から馬に乗った平家の関原与一ら九人の一団とすれ違った時、一団の一人が誤って泥水を蹴り上げ義経の衣服を汚してしまいました。謝ることなく通り過ぎた一団の無礼に怒った義経は、九人を切り殺したと伝えられます(異本義経紀より)。
斬り殺された九人の菩提を弔うために村人が九体石仏を安置しました。また異説では、九人を切り殺した後、我にかえった義経が自分の行為を悔やみ、村人に菩提を弔うよう頼んで旅を続けたとも伝えられます。九体の内、一体がここに祀られています。
この地はもと九体町と呼ばれていて、花入れには義経大日如来と刻まれています。
蹴上の地名は、この馬の蹴り上げか、力を入れて蹴り上げる「蹴り上げ」が由来と伝えられています。京都市
案内掲示板/びわ湖疏水船蹴上乗下船場/インクライン
日向大神宮(外宮/内宮)
天岩戸
日本の土木技術者・工学者。琵琶湖疏水や日本初の水力発電所の建設、関門海底トンネルの提言を行うなど、日本の近代土木工学の礎を築いた。北海道官設鉄道敷設部長として北海道の幹線鉄道開発に着手し、狩勝峠の名づけを行った。
【石碑文より】
田辺朔朗は文久元年(1861)江戸に生まれる。明治15年(1882)工部大学校学生であった田辺は 京都の衰微を回復するため琵琶湖疏水の実現に奔走する京都府知事北垣国道に会い請われて翌年 京都府に着任し 財政と技術を案ずる反対派の説得に知事を助け、明治18年(1885)起工後は設計、施工の総責任者となる。当時はほとんど機械 資材とてなく、いわば人力のみに頼る長さ2436mの長等山トンネルの工事は困難を極めたが 卓抜な技術と強い信念 不屈の精神力によりこれを克服した。また優れた先見性により世界で2番目の水力発電をこの蹴上の地に実現し、産業動力源とするとともに わが国初の路面電車を京都に走らせた 明治23年(1890)4月 晴れの通水式を迎えた田邉朔朗は28歳であった。
わが国土木技術の黎明期を開拓した偉大な先覚者であると同時に 近代都市京都の基礎をつくった恩人田辺朔朗の像を建て
ここに顕彰する 京都市
南禅寺水路閣
鎌倉時代の高僧 駒道智大僧正は摂関 九条道家の出身で、比叡山で修行した後に三井寺(滋賀県)の管長、禅林寺(永観堂)の住持を務め、駒ヶ滝の地で入滅した。
最勝院は、駒道智大僧正を祀るために同地に創建された寺院であり、名前は僧正の院号に由来する。
文永元年(1264)亀山天皇が離宮禅林寺殿を造営すると最勝院は鎮守となり、離宮が南禅寺に改められると寺院の護法神として崇敬された。
以来、南禅寺一派はもとより市井の人々からも信仰が篤く、とくに勝運の神として名高い。
実際の駒ヶ滝は現在地から少し山を登ったところにあり、今は奥の院となっている。
また明治時代頃の本堂は今の南禅寺寺務所あたりに存在し最勝院般若殿と呼ばれていたと伝わるが、大正六年に現在地へ移転した。
琵琶湖疏水が流れる煉瓦建築の水路閣のさらに奥に位置し、紅葉シーズンにも訪れるほとが少ない穴場の寺になっています。
「ねじりまんぽ(煉瓦斜架拱)」とは、明治時代、田んぼや水路・通路があったところに鉄道を横断させたので、水路や通路が分断された。そこで、マンポ(正確には鉄道の橋)を造って通れるようにした。現在、全国に30箇所程残っている。
■路線/インクライン(琵琶湖疎水)
■開業/明治21年(1888)
■場所/京都市東山区東小物座町
■銘板/東側「雄観奇想」、西側「陽気発処」
2021/11/26 13:33:45