開始日時 | 2021/10/22 17:14:51 | 終了日時 | 2021/10/22 17:21:41 |
水平距離 | 27.33km | 沿面距離 | 27.35km |
経過時間 | 3時間20分50秒 | 移動時間 | 1時間39分50秒 |
全体平均速度 | 8.17km/h | 移動平均速度 | 16.29km/h |
最高速度 | 98.70km/h | 昇降量合計 | 499m |
総上昇量 | 249m | 総下降量 | 250m |
最高高度 | 119m | 最低高度 | 34m |
【コース】
ならやま大通り ⇒ 東大寺学園方面 ⇒ 佐紀古墳(成務天皇陵・日葉酢媛命陵) ⇒ 平城宮南門 ⇒ 朱雀門 ⇒ ミ・ナーラ ⇒ 佐保川
⇒ 大仏鉄道記念公園 ⇒ 奈良公園・東大寺 ⇒ 転害門 ⇒ 旧奈良監獄 ⇒ 般若寺 ⇒ 木津横田線
『日本書紀』での名は稚足彦天皇。日本で初めて行政区画を定めたとされている。
実在説もあるが、通説では実在性の低い天皇の一人に挙げられる。(Wikipedia)
第11代垂仁天皇の2番目の皇后。父は丹波道主王、母は丹波之河上之麻須郎女。垂仁天皇との間に景行天皇のほか2皇子・2皇女を産む。
『日本書紀』によれば、垂仁天皇の皇后狭穂姫命が同天皇5年に薨じた後、その遺志により、同15年2月甲子(10日)に丹波から妹たちとともに後宮に迎えられ、同年8月壬午(1日)に皇后に立てられた。
垂仁天皇32年7月己卯(6日)に薨じた。その葬儀に際して、それまで行われていた殉死を悪習と嘆じていた天皇が群卿に葬儀の方法を問うと、野見宿禰が生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言したため、その陵墓に初めて人や馬に見立てた埴輪が埋納され、以後も踏襲されるようになったという。
『古事記』では天皇崩御後も生きており、田道間守から時じくの香の木の実の半分を受け取ったとされる。(Wikipedia)
2021/10/22 11:32:39
総重量665トンある素屋根が東へ移動され、南門建物全体が現れる。
2021/10/22 13:19:08
2021/10/22 13:26:44
私費を投じて佐保川に石橋を架け、自身のアイデアによる夥しい石造物をお抱えの石工に彫らせた吉村長慶。
維新前の奈良まちに生まれ、宇宙菴と称し三尺将軍と親しまれていた長慶は、珍しい石灯、如来像や大黒を近畿各地の社寺に奉納したほか、「如来道・宇宙教」を唱導し、僧籍に入って佐保山の麓に長慶寺を開基した。
生涯に制作した二百を超える特異な刻文碑や石造作品が今も各地に遺されている。
天平創建時の門は平安時代に大風で倒壊した。現在の門は鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人が再建したもので、今はない鎌倉再建の大仏殿の威容を偲ばせる貴重な遺構である。正治元年(1199)に上棟し、建仁3年(1203)には門内に安置する仁王像とともに竣工した。入母屋造、五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造となっている。また屋根裏まで達する大円柱18本は、21mにも及び、門の高さは基壇上25.46mもある。大仏殿にふさわしいわが国最大の山門である。
仁王像二体は、昭和63年から5年間にわたって全面解体修理が行われ、天平創建期から向かい会って立っていたことや、山口県で伐採された木材が、約1年程で搬送され、古文書の記述通り、ほぼ70日間で二体同時進行で、造像されたことも証明された。
大仏を開眼した法親王
門跡寺院であった興福寺一乗院が廃仏毀釈で今はなく、法親王の墓地を残すのみである。
奈良市雑司町の東大寺に「尊覚親王以下二基 一乗院宮墓地」がある。
石柱には「後陽成院天皇皇子 尊覚法親王御墓」「後水尾院天皇皇子 真敬法親王」と刻まれている。
慶安二-宝永三(一六四九-一七〇六)後水尾天皇の皇子で、はじめ登美宮と称した。明暦四年(一六五八)六月九日に親王となり、常賢と称されたが、万治二年(一六五九)四月六日尊覚法親王について得度し、寛文五年(一六六五)三月二十六日に二品に序せられた。
真敬法親王は寛文五年興福寺一乗院に入り、興福寺別当となった。
貞享三年(一六八七)十八日の後光明院の三三年忌追善御八講が清涼殿で行われたとき惣證義として参じている。また貞享四年二月一六日に東大寺大仏殿前の大香炉を寄進され、また元禄五年(一六九二)三月八日より四月八日までの大仏開眼供養にあたっては、勧修寺済深法親王とともに供養導師をつとめている。宝永三年七月七日五八歳で入滅され、三菩提院と称され、東大寺真言院の西に葬むられた。
東大寺の大仏は三度開眼している。752年、1185年、1692年である。
聖武天皇や行基の尽力で大仏が造立された。源平合戦期には平重衡の南都焼討により大仏は焼け落ちたが、ほどなくして重源の尽力で再建された。さらに、室町末期には三好三人衆と松永弾正との戦いにより再び焼け落ちた。頭部は木像に銅板を張って応急処置されたが、長く露座のまま放置された。それを嘆いた公慶上人の諸国勧進によって現在の大仏が再建された。松永弾正の戦いは1567年だから、再建までに随分と時間がかかっている。
元禄五年の大仏開眼供養会は、期間が一カ月。公慶さんは勧進に応えてくれた人々に全国から参詣してもらうため、当初は半年くらいと思っていたようだが、受け入れ態勢を考えると、それは無理ということで、一カ月に落ち着いた。
この間、奈良を訪れた人は約二十二万人。当時の奈良の人口が二万から三万人というから、その約十倍である。東大寺では、参詣途中で行き倒れた人を治療するために、お医者さん六十人を待機させ、迷子センターを設置するという配慮もした。
1カ月にわたって大いに賑わう中で、真敬法親王は供養導師という主要な役割を果たした。
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