開始日時 | 2021/06/09 09:35:11 | 終了日時 | 2021/06/09 11:54:55 |
水平距離 | 25.78km | 沿面距離 | 25.86km |
経過時間 | 2時間19分44秒 | 移動時間 | 1時間51分45秒 |
全体平均速度 | 11.11km/h | 移動平均速度 | 13.79km/h |
最高速度 | 49.29km/h | 昇降量合計 | 361m |
総上昇量 | 181m | 総下降量 | 180m |
最高高度 | 100m | 最低高度 | 30m |
【コース】
銀行通帳の繰越発行で近鉄奈良駅近くの店舗に出かける。もともと西大寺にあったが今は店舗撤退してATMのみ。不便!
(もどり道) ⇒ 平城宮跡・平城天皇陵 ⇒ 添御県坐神社
2021/06/09 11:07:31
キク科エゾコウゾリナ属の多年草。ヨーロッパ原産で、日本では外来種(帰化植物)として各地に分布する。
開花時期は6?9月頃。外観はタンポポに似るが、ブタナは30?60cm程度の花茎が途中で数本に枝分かれし、それぞれの頭に直径3cmほどの黄色い花をつけるのが特徴。また花茎に葉は付いていない。葉はロゼット状で裏にびっしりと毛が生えており、根は深い。たくさんのブタナが隙間なく群生し、さながら黄色い絨毯を広げたような光景は美しいが、群生した地域では芝生が枯れてしまうなどの被害も発生するため、害草として駆除されてしまうことも多い。
食用として葉と茎が最も利用される。成長しすぎた葉は硬くなるが、若葉はクセが少なく、サラダ、茹で野菜、揚げものなどで食される。タンポポよりも苦味が少ないことが多い。根はタンポポと同様に、コーヒーの代替品として炒ってハーブティーとして飲まれる。ギリシャのクレタ島などでは葉をボイルにし、普通に食されている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』
2021/06/09 11:09:30
宮内庁により「楊梅陵(やまもものみささぎ)」として第51代平城天皇の陵に治定されている。
佐紀盾列古墳群の東群に属し、その中でも西端に位置する。
平城宮大極殿跡のすぐ北に隣接しており、かつては直径100メートル超の最大級の円墳と思われていた。しかしその後の発掘調査で前方部が平城宮建設のさいに削平されており、本来は墳丘の全長253メートル 前方部の幅164メートル 後円部の直径147メートルの前方部を南に向けた前方後円墳であることが判明した。葺石、くびれ部分両側の造り出し、二重濠の一部分なども確認されている。
同古墳と同様に平城宮建設の際に破壊された古墳としては、第2次大極殿跡の下に位置する神明野古墳(全長117m)がある。
『ウィキペディア(Wikipedia)』
世界遺産に登録されている奈良市の平城宮跡で、復元整備工事中の第一次大極殿院南門を覆っていた素屋根側面のシートが一部撤去され、鉄骨の間から復元された建物が姿を見せ始めた。
南門は即位の礼や朝賀の儀など国家的な儀式が行われた第一次大極殿院の正門。国土交通省が令和4年春の完成を目指して復元整備工事を進めている。
復元される南門建物は入母屋造り二重門で、高さ約20㍍、幅約22.1㍍、奥行き約8.8㍍。建物本体の工事はほぼ終えており、今月1日、素屋根の北側と南側のシートが外された。9月ごろ、総重量665㌧ある素屋根が東へ移動され、建物全体が現れる予定。
【三代格式(さんだいきゃくしき)】 弘仁格式・・・嵯峨天皇の命令で820年に完成。藤原冬嗣らが編纂。 貞観格式・・・清和天皇の命令で格が869年、式が871年に完成。藤原氏宗らが編纂。 延喜格式・・・醍醐天皇の命令で格が907年、式が927年に完成。格は藤原時平、式は藤原忠平が編纂。 律→刑法 令→行政法 格→修正、補足 式→施行細則 【延喜格】 869年(貞観11年)から907年(延喜7年)の間の詔勅官符集。 908年(延喜8年)に施行。全12巻。現存せず。 【延喜式】 905年(延喜5年)から編纂され、927年(延長5年)に完成。 967年(康保4年)に施行。全50巻。 ◎ 延喜式 【成立】 905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たった。 『弘仁式』『貞観式』とその後の式を取捨編集し、927年(延長5年)に完成した。 その後改訂を重ね、967年(康保4年)より施行された。 全50巻、約3300条からなる。律令官制に従い、以下のような構成。 巻1 - 巻10 神祇官関係の式。この部分を神祇式という。 巻9・10は神名帳(神社の一覧表)となっていて、祈年祭で奉幣を受ける2861社の神社が記載されている。 延喜式神名帳に記載があるのは当時朝廷から重要視された神社であり、一般に式内社と言って社格の一つとされた。 【巻ごとの記載内容】 巻1と巻2 - 定例祭 (通称:四時祭、四時祭式など) 巻3 - 臨時祭 (通称:四角祭・四角祭式、四境祭・四境祭式、四角四堺祭など) 巻4 - 大神宮 巻5 - 斎宮 巻6 - 斎院 巻7 - 踐祚大嘗祭 巻8 - 祝詞(27編の祝詞がある) 巻9と巻10 - 神名帳 (通称:延喜式神名帳) 巻11 - 巻40 太政官八省関係の式 巻41 - 巻49 その他の官司関係の式 巻50 雑式 延喜式の祝詞・祈年祭(きねんさい または としごひのまつり) (春に耕作を始めるにあたって、秋の豊作をお祈りした祭です。) 集侍はれる神主・祝部等、諸聞食せと宣る。〔神主・祝部等、共に唯と称せ。餘の宣るといふも、此に准へ。〕 高天原に神留り坐す皇睦神漏伎命・神漏弥命以て、天社国社と称辞竟へ奉る皇神等の前に白さく、今年二月に御年初め賜はむと為て、皇御孫命の宇豆の幣帛を、 朝日の豊逆登に称辞竟へ奉らくと宣る。御年皇神等の前に白さく、皇神等の依さし奉らむ奥津御年を、手肱に水沫画き垂り、向股に泥画き寄せて、取作らむ奥津 御年を、八束穂の伊加志穂に、皇神等の依さし奉らば、初穂をば千穎八百穎に奉り置きて、甅の閇高知り、甅の腹満て雙べて、汁にも穎にも称辞竟へ奉らむ。 大野原に生ふる物は甘菜・辛菜、青海原に住む物は、鰭の広物・鰭の狭物、奥津藻菜・辺津藻菜に至るまでに、御服は明妙・照妙・和妙・荒妙に称辞竟へ奉らむ。 御年皇神の前に、白馬・白猪・白鶏、種種の色物を備へ奉りて、皇御孫命の宇豆の幣帛を、称辞竟へ奉らくと宣る。 大御巫の辞竟へ奉る皇神等の前に白さく、神魂・高御魂・生魂・足魂・玉留魂・大宮乃売・大御膳都神・辞代主と御名は白して、辞竟へ奉らくは、皇御孫命の御 世を手長の御世と、堅磐に常磐に斎ひ奉り、茂御世に幸へ奉るが故に、皇吾睦神漏伎命・神漏弥命と、皇御孫命の宇豆の幣帛を、称辞竟へ奉らくと宣る。 座摩の御巫の称辞竟へ奉る皇神等の前に白さく、生井・栄井・津長井・阿須波・婆比支と御名は白して、辞竟へ奉らくは、皇神の敷き坐す下都磐根に宮柱太知り 立て、高天原に千木高知りて、皇御孫命の瑞の御舎を仕へ奉りて、天御蔭・日御蔭と隠り坐して、四方の国を安国と平けく知食すが故に、皇御孫命の宇豆の幣帛を 称辞竟へ奉らくと宣る。御門の御巫の称辞竟へ奉る皇神等の前に白さく、櫛磐間門命・豊磐間門命と御名は白して、辞竟へ奉らくは、四方の御門に、湯都磐村の如 く塞り坐して、朝には御門を開き奉り、夕には御門を閉て奉りて、疎夫留物の下より往かば下を守り、上より往かば上を守り、夜の守・日の守に守り奉るが故に、 皇御孫命の宇豆の幣帛を、称辞竟へ奉らくと宣る。生嶋の御巫の辞竟へ奉る皇神等の前に白さく、生国・足国と御名は白して辞竟へ奉らくは、皇神の敷き坐す嶋の 八十嶋は、谷蝮の狭度る極、塩沫の留る限、狭き国は広く、峻しき国は平けく、嶋の八十嶋堕つる事無く、皇神等の依さし奉るが故に、皇御孫命の宇豆の幣帛を、 称辞竟へ奉らくと宣る。辞別きて、伊勢に坐す天照大御神の大前に白さく、皇神の見霽かし坐す四方の国は、天の壁立つ極、国の退立つ限、青雲の靄く極、白雲の 墜り坐向伏す限、青海原は棹柁干さず、舟の艫の至り留る極、大海原に舟満ち都都気て、陸より往く道は荷の緒縛ひ堅めて、磐根木根履み佐久弥て、馬の爪の至り 留る限、長道間無く立ち都都気て、狭き国は広く、峻しき国は平けく、遠き国は八十綱打挂けて引き寄する事の如く、皇大御神の寄さし奉らば、荷前は皇大御神の 大前に、横山の如く打積み置きて、残をば平けく聞看さむ。又、皇御孫命の御世を、手長の御世と、堅磐に常磐に斎ひ奉り、茂御世に幸へ奉るが故に、皇吾睦神漏 伎・神漏弥命と、宇事物頚根衝き抜きて、皇御孫命の宇豆の幣帛を、称辞竟へ奉らくと宣る。 御県に坐す皇神等の前に白さく、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曾布と御名は白して、此の六御県に生り出づる甘菜・辛菜を持ち参来て、皇御孫命の長御膳の遠 御膳と聞食すが故に、皇御孫命の宇豆の幣帛を、称辞竟へ奉らくと宣る。 山口に坐す皇神等の前に白さく、飛鳥・石村・忍坂・長谷・畝火・耳無と御名は白して、遠山近山に生ひ立てる大木小木を、本末打切りて持ち参来て、皇御孫命の 瑞の御舎仕へ奉りて、天御蔭・日御蔭と隠り坐して、四方の国を安国と平けく知食すが故に、皇御孫命の宇豆の幣帛を、称辞竟へ奉らくと宣る。 水分に坐す皇神等の前に白さく、吉野・宇陀・都祁・葛木と御名は白して辞竟へ奉らくは、皇神等の寄さし奉らむ奥都御年を、八束穂の伊加志穂に寄さし奉らば、 皇神等に、初穂は穎にも汁にも、甅の閇高知り、甅の腹満て雙べて、称辞竟へ奉りて、遺をば皇御孫命の朝御食・夕御食の加牟加比に、長御食の遠御食と、赤丹穂 に聞食すが故に、皇御孫命の宇豆の幣帛を称辞竟へ奉らくを、諸聞食せと宣る。 辞別きて、忌部の弱肩に太多須支取挂けて、持由麻波利仕へ奉れる幣帛を、神主・祝部等受け賜りて、事過たず捧げ持ちて奉れと宣る。 1.大和にある特徴的な神社に、御県坐神社、山口神社、水分神社の3種類がある。 (1)御県坐神社(みあがたにいますじんじゃ)--- 高市・葛木・十市・志貴・山辺・曾布 大王(天皇)に献上するための野菜を栽培する神聖な菜園の霊を祀る神社。 平野部の穀倉地帯・田園地帯にあり、周囲には集落が形成されている。 (2)山口神社(やまぐちじんじゃ)--- 飛鳥・石村・忍坂・長谷・畝火・耳無 その地の山の神を祀る神社のことで、山裾や山の中腹にある。 (3)水分神社(みくまりじんじゃ)--- 吉野・宇陀・都祁・葛木 水分神(流水の分配を司る神)を祀った神社で、雨乞いの対象となることもあった。高原地帯にある。 2.県主(あがたぬし)は司祭者的性格 県(懸=あがた)は、3世紀末~4世紀頃にあった大王(天皇)家の領地である。 県を治めていたのが「県主(あがたぬし)」である。 3.大和の六御県坐(むつのみあがたにます)神社 大化前代に,奈良盆地に置かれていた宮廷直轄領。倭六県 (やまとのむつのあがた)ともいう。 添 (そふ),山辺 (やまのべ),磯城 (しき),十市 (とおち), 高市 (たけち),損城 (かつらぎ) の六つの県は, 特に,六御県と称された。それぞれの御県神社が,式内社として存在している 『延喜式祝詞・祈年祭』の「御県に坐す皇神等の前に曰さく、高市、葛木、十市、志貴、山辺、曽布(添)と 御名は曰して、この六つの御県に生り出づる、甘菜・辛菜を持ち参ゐり来て、皇御孫の命の長御膳の遠御膳と 聞こしめすが故に、皇御孫の命のうづの幣帛を称辞竟へまつらく」とあるように大和には六つの御県があって 朝廷への菜を調進し、御県神が祀られていた。 6社のうち2社には1社ずつ異説地があり、それを加えると計8社。 そこに、延喜式「神名帳」にのみ記載のある久米御県神社を加えると、計9社になる。 ① 高市御県神社(四条・橿原市)【祭神】天津彦根命(高市県主の祖) 高皇産霊神 ② 葛木御県神社(葛木・葛城市)【祭神】劔根命 (合祀)天津日高日子番能瓊瓊杵命 ③ 十市御県坐神社(十市・橿原市)【祭神】豊受大神 (配祀)市杵嶋姫命 ④ 志貴御県坐神社(金屋・桜井市)【祭神】大己貴命 ⑤-1 山辺御県坐神社(別所・天理市)【祭神】建麻利尼命(たけまりにのみこと) ⑤-2 山辺御県坐神社(西井戸堂・天理市)【祭神】建麻利根命(たけまりねのみこと) ⑥-1 添御県坐神社(歌姫・奈良市)【祭神】速須佐之男命 配祀 櫛稻田姫命、武乳速命 ⑥-2 添御県坐神社(三碓・奈良市)【祭神】速須佐之男命 配祀 櫛稻田姫命、武乳速命 ⑦ 久米御県神社(久米・橿原市)【祭神】高皇産霊命、大来目命、天櫛根命 |
式内社で同名の添御県坐神社が奈良歌姫と富雄三碓にあるのに興味があった。5/6に霊山寺に行ったついでに三碓の添御県坐神社を参拝した。その折は両神社の関係は不明。図書館で借りた「平城京の風景」千田稔著をキッカケとしてnet検索で、延喜式の祈年祭の祝詞に出てくる六御県に関係があることが知れた。詳細を上記「三代格式(さんだいきゃくしき)」と「延喜格式」にまとめた。
参道を進んでより本殿に近くに建てられている。
以前の鳥居と鳥居のあった場所には鳥居跡の石碑が建っていた。
境内にある歌碑
「菅原道真歌碑」(左)
「このたびは、幣も取りあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」
「長屋王歌碑」(右)
「佐保過ぎて奈良の手向に置く幣は 妹を目離れず相見しめとそ」