開始日時 | 2021/05/25 10:11:20 | 終了日時 | 2021/05/25 13:18:57 |
水平距離 | 24.27km | 沿面距離 | 24.54km |
経過時間 | 3時間07分37秒 | 移動時間 | 2時間13分39秒 |
全体平均速度 | 7.18km/h | 移動平均速度 | 11.01km/h |
最高速度 | 35.87km/h | 昇降量合計 | 304m |
総上昇量 | 166m | 総下降量 | 138m |
最高高度 | 108m | 最低高度 | 60m |
【コース】
秋篠寺 ⇒ 八幡神社 ⇒ 菅原遺跡 ⇒ 菅原天満宮 ⇒ 喜光寺 ⇒ 菅原東遺跡・埴輪窯跡群 ⇒ 昼食(河童ラーメン本舗 押熊店)
東大寺大仏造立に携わった行基(668~749年)が畿内に建立した「四十九院」の一つ「長岡院」の有力候補地、菅原遺跡で、柱穴が円形に並ぶ異例の建物跡(8世紀中ごろ)が見つかり、4月20日、元興寺文化財研究所が発表した。円形建物は故人を供養するために建てられるといい、大仏建立に奔走した行基は大仏の完成前に亡くなった。弟子らが行基を弔うため、この場所(菅原寺や平城京を見渡し、真東に東大寺を望む高台)に供養堂を建てたとする見方が出ている。
四十九院で現存している寺は10カ所もない。円形建物跡は類例が見当たらず極めて珍しく、多宝塔(ストゥーパ)だった可能性はあるとしている。
円形建物跡は方形区画の中心にあり、区画は1辺約36~38メートル。区画西側は幅3メートルの回廊で、東側は塀とみられる。柱穴は30カ所以上見つかった。柱の直径は約30センチで、約3メートル間隔で並んでいた。
円形建物部分では、中心から半径4.7メートルの範囲に土台の石材を抜き取った跡と、同7.3メートルの範囲で15カ所の柱穴が、同心円状に確認された。年代は出土した土器の形態などから判定した。
行基は一時、布教を弾圧されたが許され、聖武天皇から東大寺大仏造立のため重用された。しかし、大仏完成前の749年に、四十九院の一つで、菅原遺跡のすぐそばにある菅原寺(喜光寺)で没した。
行基の業績をまとめた平安時代の「行基年譜」によると、行基が建立した長岡院は「菅原寺の西の丘にある」と記されており、菅原遺跡が長岡院であることと符合するという。遺跡の南側約50メートルの場所でも1981年に奈良大が寺跡とみられる基壇跡を発見しており、付近を長岡院とみる説が有力視されていた。
現場一帯は宅地造成が進んでおり、奈良県などは公有地化も視野に開発業者側と交渉を重ねたが折り合わず、遺跡は住宅地となる見通し。
GoogleMapではまだ樹々に覆われた緑の小山が、現在は住宅開発が進んですっかり丸裸の状態になっている。
(5月20日 毎日新聞) |
東大寺を望む高台の「長岡院(菅原遺跡)」に、大仏の完成前に亡くなった行基を偲んで弟子たちが供養堂(多宝塔)を建てた。 |
菅原遺跡(標高117m)から真東に東大寺大仏殿が、 |
『行基菩薩と喜光寺』 (喜光寺ホームページから転載)
この地域は、古くから菅原の里とよばれ、和歌にもよまれた景勝地でした。
養老5年(721)行基菩薩は、この地に住んでいた寺史乙丸という人物から平城京右京三条三坊の土地の寄進を受けられ、翌年にお寺を建てました。これが喜光寺です。行基菩薩は土地の名前から「菅原寺」と名づけられました。菅原寺(喜光寺)は、行基菩薩の建立されたお寺のなかで唯一平城京内にあり、行基菩薩の布教活動・社会事業の重要な拠点寺院となっていったのです。
行基菩薩は聖武天皇に認められ、布教活動・社会事業にご尽力なさいました。そして人生最後の大仕事として取りかかられたのが東大寺大仏造立です。聖武天皇が行基菩薩に協力を求められた時には齢76歳になっておられました。
天平20年(748)行基菩薩が勧進と大仏造立に尽力するなか、聖武天皇が菅原寺に行幸されました。聖武天皇がご本尊をおまいりされたところ、ご本尊から不思議な光が放たれました。聖武天皇は大いに喜ばれ、「歓喜の光の寺である」として「喜光寺」の名を賜りました。
天平21年(749)、行基菩薩は病の床につかれ、2月2日に喜光寺東南院にて入寂されました。82歳のご生涯でした。行基菩薩の略伝『大僧上舎利瓶記』によると「右脇をして臥し、正念すること常の如し。奄(にわか)に右京菅原寺にて終る」と記されており、安らかな最後であられました。行基菩薩は生駒山東陵で2月8日に荼毘に付され、埋葬されました。現在も竹林寺(生駒市有里)には行基菩薩の墓所がのこされています。
『神仏分離と荒廃』
明治元年(1868)、明治政府から出された「神仏判然令」は仏教に大きな影響を与え、一部では「廃仏毀釈」と呼ばれる排斥運動も起きました。残念ながら喜光寺も、僧侶が還俗して神職になったことをきっかけに、喜光寺と天満宮は分離され、喜光寺の文化財は売られてしまうという憂き目に遭いました。その後、修理復興もかなわず、明治・大正・昭和の時代は荒れ果てて廃寺寸前のありさまになってしまったのです。
大正10年に喜光寺を訪れた歌人 会津八一は荒廃した寺の様子を「ひとりきて 悲しむ寺の 白壁に 汽車のひびきの ゆきかへりつつ」と詠んでいます。
『平成の復興』
平成2年(1990)、山田法胤住職が就任し、行基菩薩の遺徳顕彰と伽藍復興を目標にかかげて「平成の復興」がはじまりました。平成4年(1992)からは「いろは歌」を書写する「いろは写経」の勧進を発願して、元亀年間に失われた南大門の再建をめざして各地をめぐって結縁をつのりました。行基菩薩はすべての人に開かれ、親しまれる寺院を造ることを志されました。その行基菩薩の精神にしたがい、復興を続けています。全国のお写経結縁の方々のお力添えで平成22年(2010)に南大門を復興することができました。また行基菩薩入寂の寺として平成26年(2014)に行基堂を建立し、多くの方の参詣を賜っております。
「菅原東遺跡埴輪窯跡群」は、平成2年度に発掘調査によって発見された古墳時代後期の埴輪生産遺跡で、6基の埴輪窯で構成されています。
その歴史的価値の高さから平成12年に奈良市が史跡として指定しています。
かつてこの地には、乗仁天皇に仕えた野見宿禰が祖の「土師」と称する豪族が住んでおり、古墳造りに関わる仕事をしていたと考えられています。土師氏は、後に地名にちなんで姓を「菅原」と改めています。
この菅原で古墳に立てる埴輪を焼いた窯跡が見つかったことは、こうした歴史を裏付ける証拠となります。
南へ約250メートルに位置する宝来山古墳(乗仁天皇陵)でも近年、同様の特徴を持つ埴輪片が採取されていることから、同遺跡で焼かれた埴輪が古墳に供給されたと考えられる。
菅原東遺跡の丘陵は、丘陵全体が古墳時代前期の集落遺跡であり、丘陵両端を溝で区切って区画しており、さらに中央に溝で区切った方形区画を配しています。
埴輪窯は、その丘陵端と区画溝を利用して築かれています。窯の天井部分は奈良時代に削り取られ残っていませんでしたが、窯の中に堆積している土の様子から、何度も床面をならして補修しながら、繰り返し使われていたことがわかります。
窯の周囲に捨てられていた埴輪は、いずれも焼くのに失敗したもので、大部分は円筒埴輪ですが、馬、鳥、家、武器等を象った形象埴輪もあります。
また、埴輪の胎土分析から、秋篠川を利用して、天理市域などの古墳に運ばれたと想定されています。(奈良県歴史文化資源データベース)
2021/05/25 12:28:20