開始日時 | 2021/05/14 10:09:44 | 終了日時 | 2021/05/14 14:42:39 |
水平距離 | 25.61km | 沿面距離 | 25.83km |
経過時間 | 4時間32分55秒 | 移動時間 | 2時間18分47秒 |
全体平均速度 | 5.68km/h | 移動平均速度 | 10.94km/h |
最高速度 | 40.01km/h | 昇降量合計 | 548m |
総上昇量 | 275m | 総下降量 | 273m |
最高高度 | 143m | 最低高度 | 24m |
【コース】
木津川開橋 ⇒ 上狛城陽線 ⇒ 橘諸兄公旧跡 ⇒ ふれあい公園・駒岩の左馬 ⇒ 小野小町之墓 ⇒ 玉津岡神社
⇒ 地蔵禅院 ⇒ 上井出地蔵尊 ⇒ 井手寺 跡 ⇒ 蟹満寺 ⇒ 綺原神社 ⇒ 和泉寺 ⇒ 萬盛 ⇒ 木津川開橋
【経歴】
橘諸兄(たちばな の もろえ)は、奈良時代の皇族・公卿。初名は葛城王(葛木王)[1]で、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。官位は正一位・左大臣。井手左大臣または西院大臣と号する。
天平9年(737年)4月から8月にかけて、天然痘の流行(この年の天然痘の流行は非常に大規模なもので、日本人口の25-35%あるいは30-50%が失われた。)によって藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)をはじめ、中納言・多治比県守ら議政官が次々に死去してしまい、朝廷では急遽、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に任命した。
翌天平10年(738年)には諸兄は正三位・右大臣に任ぜられ、一上として一躍太政官の中心的存在となる。これ以降、国政は橘諸兄が担当、遣唐使での渡唐経験がある下道真備(のち吉備真備)・玄昉をブレインとして抜擢して、聖武天皇を補佐することになった。
聖武天皇は伊勢国に行幸する。さらに藤原広嗣の乱平定後も天皇は平城京に戻らず、橘諸兄が自らの本拠地(山城国綴喜郡井手)にほど近い恭仁郷に整備した恭仁宮に入り、遷都が行われた。
天平15年(743年)従一位・左大臣に叙任され、天平感宝元年(749年)4月にはついに正一位に陞階(ショウカイ:地位が上がる)。
聖武上皇が病気で伏していた際に、酒の席で上皇について不敬の発言があり謀反の気配がある旨、側近から讒言を受けてしまう。
聖武上皇は取り合わなかったが、諸兄はこのことを知り天平勝宝8年(756年)2月に辞職を申し出て致仕した。
天平勝宝4年(752年)の大仏開眼には諸兄も参加して舞楽の鼓を打ったが、天平勝宝6年(754年)唐から渡ってきた鑑真を右大臣藤原豊成大納言藤原仲麻呂以下多数の官人が東大寺に拝礼したときに左大臣の諸兄は参加しておらず、隠居に近い状態にあったと思われる。
天平勝宝9年(757年)1月6日薨去。享年74。最終官位は前左大臣正一位。諸兄の没後間もない同年7月に、子息の奈良麻呂は橘奈良麻呂の乱を起こし獄死している。
【人物】
大伴家持と親交があり、『万葉集』の撰者の1人とする説もある。『万葉集』では8首の歌を残している。
母の県犬養三千代は最初美努王に嫁ぎ葛城王、佐為王、牟漏女王(藤原房前に嫁ぐ)を生んだ後美努王と別離し、藤原不比等と結婚して安宿媛(後の光明皇后)を生む。諸兄は不比等の娘の多比能(たひの)と結婚しており、諸兄たち兄弟と藤原氏の関係は良好であった。
【万葉集との関わり】
万葉集には宴席歌を中心に短歌が8首載せられている。8首全てが対人詠であって独詠歌は一首もない。また『万葉集』巻八に、738年10月「右大臣橘卿之旧宅」で大伴家持らが宴飲を行い秋の「黄葉」を読み込んだ歌を作ったとあるなど、諸兄の屋敷ではたびたび宴が催されたが、その時の参加者や諸兄自身の歌が多数万葉集に残っている。天平勝宝3年(751年)大伴家持が諸兄の長寿を寿ぐために作った次の歌が万葉集にあり親密な関係にあったことがわかる「古に君の三代経て仕へけり我が大主は七代申さね」。諸兄自身が歌の批評も行った記録があり、万葉集の編纂についても「おそらく元正上皇の意向を体した橘諸兄の命に依って」大伴家持が編纂したという説がある。
【橘氏関連遺跡】
井手左大臣と呼ばれた橘諸兄の邸宅や関係する社寺について確定した遺跡は無いが、京都府井手町にある奈良時代の寺院遺跡の井手寺跡が諸兄が創建したと伝えられ、大門、中島、石橋、泉水などの地名が残っている。この付近には聖武天皇が行幸したという記録のある相楽別業もあったという説が有力である。また井手町に近い木津川市の神雄寺跡が橘諸兄の造営に成るものとされている。他にも井手町内には「別業の井戸」と伝えられる六角井や、諸兄の墓とされる北大塚の古墳など彼に関する史跡や伝承が多く残っている。(Wikipedia)より
【神雄寺跡】 神雄寺跡(かみおでらあと)は、京都府木津川市にある奈良時代の山林寺院跡。当時の都である平城京の北側に広がる奈良山丘陵の一角で、一時的に都であった恭仁宮の右京に位置する。ただし、神雄寺の名は当時の文献には一切記載が無く、「謎の寺」である。現地の地名から馬場南遺跡とも呼ばれる。国の史跡に指定されている。 神雄寺という名前から、神仏習合の山林寺院であったとみなされている。出土した瓦が平城京の長屋王邸などで使われていたものと同じであったこと、歌木簡や当時貴重であった着色された陶器が出土するところから、神雄寺を建立・経営したのは天皇周辺の高位の人物と判断でき、光明皇后や、当時近くの井手に邸宅を構えていた橘諸兄の名が上がっている。 『万葉集』との関係 『万葉集』巻八に、738年10月「右大臣橘卿之旧宅」で大伴家持らが宴飲を行い秋の「黄葉」を読み込んだ歌を作ったとあるが、神雄寺跡からは「黄葉」と墨書された土器が複数発見されており、同地が橘諸兄の邸宅の一つであった可能性が指摘されている。また上記の歌木簡「阿支波支乃之多波毛美智」の裏面に「越中守」と墨書されており、『万葉集』の編纂を行った大伴家持が一時越中守であったことから、寺と『万葉集』編纂の関連性が指摘されている。 |
井手町南開の竹林に、奈良時代の橘諸兄の墳墓とされる地がある。かつて、北王塚と呼ばれていた。
1976年、井堤保勝会により、井手左大臣橘諸兄公墳の碑が立てられる。
2021/05/14 11:05:30
岩に大きさ約1メートル四方の馬が彫られており、駒岩と呼ばれていた。昭和28年(1953年)の南山城水害で、推定数百トン級の岩が玉川沿いの対岸から転がり落ちてきた。
岩に馬の絵が彫られたのは保延元年(1137年)、川の治水や水争いを防ぐためであった。
江戸時代頃には芸事上達の神として信仰されてきた。
転がり落ちた際に、左馬の彫刻は地面の底側になってしまったが、地元の人々の努力で左馬のある部分が掘り下げられて、今ではしゃがみ込むような体勢で見ることが出来る。
平安時代、小野小町は晩年を井提寺(円提寺)に住み、井手寺の別当の妻になり、69歳で井手寺で亡くなったという。『冷泉家記』
小町の墓と伝えられる塚は、玉津岡神社参道の右脇にあり、周囲を石垣で囲った土壇上の礎石の上に、ほぼ立方体をした自然石を5個積み重ねている。この塚石は、井提寺(円提寺)の礎石とも伝えられる。
「色も香もなつかしきかな蛙鳴く井手のわたりの山吹の花」
欽明天皇元年(540年)玉津岡の南に下照比賣命(しもてるひめのみこと)が降臨、そこでお祭りをした「玉岡の社」が玉津岡神社の起源。
創祀は天平3年(731年)9月であり、創祀者は橘諸兄公とされる。境内には橘諸兄とその一族の一人楠木正成公を合祭した
橘神社がある。また玉津岡神社の社紋は「流れ山吹」であるが、これは楠木正成の家紋「菊水」と同じものともされている。ちなみに主神の下照比賣命は「家内和合の神」である。江戸時代に春日造で建てられた本殿は京都府登録文化財、鎮守の森は文化財環境保全地区となっている。
橘神社
御祭神 正一位橘諸兄公
楠 木 正 成 公
橘公社ハ往昔同村美奴王ノ館ノ
南ニアリシヲ遷セシト云傅ウ
諸兄公社ハ旧里ニアリ
楠公ハ橘氏末流ノ一族 後世是
ニ合祭リシ所ト古老ノ口碑ナリ
玉津岡神社と隣接しており、同社の神宮寺であったとも伝える。井手の里を一望できる高台に建っています。
桜の名所として知られ樹齢約280年の「しだれ桜」は京都府の天然記念物に指定されており、京都・円山公園の「しだれ桜」はここから株分けされた兄弟木にあたります。
2021/05/14 12:32:06
石柱「井堤寺故址 是南二丁」 昭和3年11月禀京都三宅安兵衛遺志
井堤寺跡
井堤寺は、円堤寺(井手寺)とも称され、天平時代の左大臣・橘諸兄が、母・三千代の一周忌にちなみ創建した氏寺と伝えられています。
造営の折り諸兄公は、金堂の四面に山吹を植え、黄金色の花・山吹が水に映る風情を楽しめるように工夫されたとのことです。
現在は偲ぶよすがもありませんが、付近一帯には、通称名として薬師堂・ドウノウエ等の地名が残されており、奈良時代の井堤寺は七堂伽藍の壮大な威容を誇っていたと考えられます。
この他井堤寺には、小野小町が出家して当寺で余生を過ごしたことなど、小町ゆかりの伝説も伝わっています。
井堤寺跡からは、礎石の他、銅銭、海獣葡萄鏡、軒瓦等が出土しています。出土した蓮華文の丸瓦と唐草文の平瓦を復元し、この四阿(あずまや)の軒瓦として用いています。
古地図は、「山城国井堤郷旧地全図」と呼ばれ、原図は平安時代の康治2年(1143)に描かれたものです。
この絵図に見るように付近一円には、井堤寺の他、玉井頓宮、諸兄山荘等が描かれ、橘氏一族の別業地として栄えた往時が偲ばれます。いにしえの井手の町の姿を知る手掛かりとしてください。
橘諸兄が創建、京都・井手寺跡で「塔の基壇跡」初確認 |
天平勝宝7年(755)5月11日橘諸兄が72歳のとき、丹比真人国人邸で開かれた宴の折、真人が諸兄を寿いで次の歌を詠んだ。
「我がやどに 咲けるなでしこ まひはせむ ゆめ花散るな いやをちに咲け」 第20巻 4446番歌 丹比國人真人
それに応えた、橘諸兄の挨拶歌
「まひしつつ 君がおほせる なでしこが 花のみ訪はむ 君ならなくに」 第20巻 4447番歌 橘諸兄
今昔物語集等に記載がある「蟹の恩返し」の伝承で有名。
本尊の銅造釈迦如来坐像(国宝)の伝来については確かなことは不明ながら一説には、橘諸兄創建の井堤寺にあったものを移座された。
2021/05/14 13:04:10
【祭神】健伊那太比賣命。
かつて「かにはらにいますたけいなだひめじんじゃ」と呼ばれた。
伝承では、神に献ずる衣服を織る技術者集団・養蚕技術者を祀った社という。秦氏の機織の守護神を祀ったともいう。
1890年、蟹満寺の南西より現在地に遷された。
2021/05/14 13:29:45
毎年1月の成人の日には「開運炎祭り」が行われ
相楽講の行者たちが大護摩供養によって無病息災を祈念する。
2021/05/14 13:46:52
定食セット 700円
2021/05/14 14:22:39