開始日時 | 2021/04/22 09:50:51 | 終了日時 | 2021/04/22 11:18:16 |
水平距離 | 19.88km | 沿面距離 | 19.98km |
経過時間 | 1時間27分25秒 | 移動時間 | 1時間14分00秒 |
全体平均速度 | 13.71km/h | 移動平均速度 | 16.16km/h |
最高速度 | 114.43km/h | 昇降量合計 | 775m |
総上昇量 | 393m | 総下降量 | 382m |
最高高度 | 225m | 最低高度 | 69m |
開始日時 | 2021/04/27 09:57:38 | 終了日時 | 2021/04/27 13:13:50 |
水平距離 | 18.90km | 沿面距離 | 19.29km |
経過時間 | 3時間16分12秒 | 移動時間 | 1時間45分11秒 |
全体平均速度 | 5.90km/h | 移動平均速度 | 10.78km/h |
最高速度 | 45.44km/h | 昇降量合計 | 970m |
総上昇量 | 479m | 総下降量 | 491m |
最高高度 | 288m | 最低高度 | 30m |
【コース】
京奈和自動車道側道 ⇒ 枚方山城線 ⇒ 生駒井手線 ⇒ 天王集落の急坂 ⇒ 朱智神社 ⇒ 急坂を下る ⇒ 普賢寺川に沿って
⇒ 昼食「ちきんはうす」 ⇒ 同志社南交差点右折 ⇒ 山手幹線 (20km 4時間30分)
朱智神社の平均斜度を計算してみた。標高差は244mある。電動自転車は役立たず。1.5kmを押して上がった。
当然ここで暮らしてる人たち自転車見かけない。バイクか、軽自動車。
朱智神社 =平均斜度8.0度 標高差244m
ちなみに近畿の他の山と比較すると
金剛山 =平均斜度8.0度 標高差664m
愛宕山 =平均斜度5.4度 標高差915m
六甲山 =平均斜度5.3度 標高差1150m
葛城山 =平均斜度5.1度 標高差800m
生駒山 =平均斜度4.4度 標高差611m
2021/04/27 11:02:04
【祭神】
主神:迦爾米雷王(カニメイカヅチノミコ)
配神:建速須佐之男命(タケハヤスサノヲ)
配神:天照国照彦火明命(アマテルクニテル ヒコホアカリ)
【由緒】
京都府京田辺市天王高ケ峰に鎮座する式内社です。
社伝によれば、仁徳天皇の御代に現在地の西方の西峯の頂上に社殿を建て、当地付近を勢力とした息長氏の祖である「迦爾米雷王(かにめいかづちのみこ)命」を祀って「朱智天王」と号したと伝えられています。その後桓武天皇の御代に「建速須佐之男命」を相殿に祀って「大宝天王」と号したと言われ、清和天皇の御代には当社の大宝天王(建速須佐之男命)を京都の八坂神社へ勧請し、かつては毎年「榊遷し」の行事が行われていたと伝えられています。
「迦爾米雷王」
『古事記』には、父は山代之大筒木真若王で、母は伊理泥王の女・丹波能阿治佐波毘売(たにわのあじさわびめ)。
また、開化天皇の曾孫に当たる。外祖父の伊理泥王は山代之大筒木真若王の同母弟ゆえ、父と母は伯父・姪の続柄になる。
迦邇米雷王は丹波之遠津臣の女・高材比売(たかきひめ)を妃とし、息長宿禰王(気長宿禰王)を儲けた。息長宿禰王は神功皇后(息長帯毘売命)の父である他、2人の王子は近淡海国造・吉備品治国造・但馬国造の祖と伝えられる。迦爾米雷王の父は山代大筒木真若王という人物で、その名から当地付近、山城国(山代)の綴喜郡(筒木)を拠点としていたことが推測されます。また、木津川の対岸の相楽郡に蟹幡郷があったこと、白鳳時代の釈迦如来坐像(国宝)を今に伝える蟹満寺があることなど、近隣に「カニ」に関する地名が多い点から、迦爾米雷王の名もこれに関係するものである可能性があります。
近隣の普賢寺地区に八世紀の作である十一面観音坐像(国宝)を安置する観音寺があり、この山号を「息長山」と称します。この寺の前身である普賢寺の頃から息長山と称したようで、これもまた当地に息長氏の居住したことを思わせるものです。
朱智神社
(裏面)昭和三年春 京都 三宅安兵衛依遺志建之
(左側面)八坂神社宮司 高原美忠謹書
「三宅安兵衛」は
幕末・明治時代の商人。晩年、京都のために資産を使えと言い残し、長男・三宅清治郎がその遺志に基づいて京都府内におよそ400基の史跡・名所の案内碑を建立した。
精華町では、七基が確認されている。
・神武帝舊跡 祝園神社 是十町・崇神帝十年役 武埴安彦破斬旧蹟
・お千代半兵衛墓 来迎寺・薬師如来尊像常念寺・北稲八間故址
・伝 野見宿稱塚・南稲八間故址
平安時代、869年、大宝天王は、感神院(現在の八坂神社)そばの荒町に遷座され、876年、再び感神院に遷座された。以後、祇園祭の際には、当社の榊が祇園社に移される神事「榊遷(さかきうつし)」が、朱智家、息長家、三国家により年番により執り行われていたという。その後、他家も加わり、その後廃絶した。
近世には普賢寺郷に二座が置かれた。特別祭祀「榊遷行事」(7月13日)では、当座の座人が神社に奉じた真榊を、相楽の若衆が駕ぎ、京都の祇園社(八坂神社)に遷した。祇園祭の山鉾はこの榊を受けて初めて出御していたという。
その後、神事は廃れた。現在、当社でも「祇園祭」(7月14日)が行われている。
【末 社】 | (3番目写真右より)天津神社、皇大神宮、春日神社、鎮火神社、祈雨神社、金神社 (右端写真左より)住吉神社、大高神社、三社大神社、朝日神社、大土神社、白山神社、稲生神社 |
「本殿」(京都府登録文化財)は、江戸時代、1612年の再建による。向拝木鼻の表に牡丹、裏に狐の彫り出し、正面蟇股に唐獅子、牡丹など安土・桃山時代様式の彫刻が施されている。昇高欄の擬宝珠に「慶長十七年(1612年)」の銘がある。1938年に歴史上重要建築物に指定された。一間社流造、檜皮葺、 本殿への一石段耳石には、室町時代、1507年、1541年の銘が残されている。
宗派:真言宗智山派
本尊:十一面観音(国宝)
創建:天平16年(744年)
天武天皇の勅願により義淵僧正が創建した。その後、聖武天皇の御願により良弁僧正が伽藍を増築し、息長山普賢教法寺と号し、十一面観音立像を安置した。 法相・三論・華厳の三宗を兼ね、七堂伽藍は壮麗を極めて「筒城の大寺」と呼ばれた大寺院であったと伝えられている。 幾度となく火災に見舞われ、永享9(1437)年の火事では、諸堂13、僧坊20余りを数えた建物のほとんどが失われ、大御堂だけが再建され現在に至っている。
古代、この地綴喜郡は、近江国坂田郡を根拠地とする豪族・息長氏(おきながうじ)の勢力地になっていた。
奈良時代、744年、息長氏と関わりある、息長山普賢寺(現在の大御堂観音寺の前身)が建立されている。
朱智神社の祭神・迦爾米雷王命(朱智王)は、弥生時代の第9代・開花天皇の孫、弥生時代、第14代・仲哀天皇の神功皇后(息長帯比売)の祖父に当る。弥生時代の第11代・垂仁天皇(BC29-紀元後62)在位中に、この地を治め、子孫は朱智(すち)姓を名乗った。
朝引きの地鶏専門レストラン
平飼いの普賢寺コーチンや京赤地鶏など、8~11カ月かけて飼育された鶏のみを使用。滋賀、京都の契約養鶏場から毎朝仕入れる新鮮な鶏肉を、焼き鳥やフライ、ステーキ、鍋、丼などさまざまな料理で味わえる。
ランチタイムの定食の他、味噌鍋やすき焼き、水炊きなどの鍋も人気。