開始日時 | 2021/04/15 09:02:24 | 終了日時 | 2021/04/15 15:21:35 |
水平距離 | 15.51km | 沿面距離 | 16.11km |
経過時間 | 6時間19分11秒 | 移動時間 | 4時間30分27秒 |
全体平均速度 | 2.55km/h | 移動平均速度 | 3.49km/h |
最高速度 | 37.98km/h | 昇降量合計 | 818m |
総上昇量 | 414m | 総下降量 | 404m |
最高高度 | 196m | 最低高度 | 61m |
【コース】
大和八木駅 ⇒ 耳成山 ⇒ 藤原京 ⇒ 香久山 ⇒ 本薬師寺跡 ⇒ 畝傍山 ⇒ 安寧天皇陵 ⇒ 橿原神宮西口駅 (16㎞ 30,200歩)
2021/04/15 15:21:39
この山は中新世に噴出した火山岩が侵食されてその一部のみが残存した侵食地形である。瀬戸内火山帯に属する独立峰であり流紋岩より形成される。 登山途中、木々の合間から眺望ができる箇所がいくつかあり、同じく大和三山である畝傍山を傍観できる箇所もあるが、山頂は特別な整備はされていないので眺望は全くない。山頂よりやや低い所に耳成山口神社がある。 ウィキペディア(Wikipedia)より
耳成山の中腹にあり、延喜式内社に比定されている古社。
大和国の山口社六社(飛鳥・石村・畝火・忍坂・長谷・耳成)のうちの1社で、皇室の舎殿用材を切り出す山の神として祀られていた。
境内には金刀比羅神社・稲荷神社・白龍大神も祀られている。
安産に御利益があるとされる。
【御祭神】
高皇産霊神(高御産巣日神、たかみむすびのかみ) 大山祗神(おおやまつみのかみ) ウィキペディア(Wikipedia)より
左から「耳成山」「香久山」「畝傍山」
藤原京
『日本書紀』の天武天皇5年(676年)に天武天皇が「新城」の選定に着手し、その後も「京師」に巡行したという記述がある。これらの地が何処を指すのかは明確な結論は出ていないが、発掘調査で発見された規格の異なる条坊などから、藤原京の造営は天武天皇の時代から段階的に進められたという説が有力である。
天武天皇の死後に一旦頓挫した造営工事は、持統天皇4年(690年)を境に再開され、4年後の694年に飛鳥浄御原宮(倭京)から宮を遷し藤原京は成立した。 以来、宮には持統・文武・元明の三代にわたって居住した。
日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもある。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた。
『日本書紀』などの正史には「新たに増した京」という意味の新益京(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)などの名で表記されている。藤原京という名は、大正2年(1913年)に藤原京研究の先駆となった喜田貞吉が『藤原京考証』という論文において使った仮称が、その後の論文などで多用され定着したもので、当時の皇居が『日本書紀』で藤原宮と呼ばれていることから飛鳥京と同様に名づけられた学術用語である。 ウィキペディア(Wikipedia)より
40mほど登ったら下りになってこれは可怪しいと思ってるうちに「天香山神社」に出た。ここからが正規の登山口。
【御祭神】櫛眞知命(くしまちのみこと)
【天香山坐櫛眞命神社】
延喜式神名帳に『大和国十市郡 天香山坐櫛眞命神社大月次神嘗』とあり、天香山坐櫛眞命神社が天香山神社に比定する説が一般的である。
しかし、天香久山の山頂に鎮座する国常立神社に比定する説もあり、論争になっている。
【波波迦の木】
境内にある波波迦の木は、昔、占いに用いられたと言われている。御祭神の櫛眞知命は、神意を伺う占いの神であり、国家の大事を判断する亀卜や、大嘗祭に行われる神饌田卜定に関わる神として重んじられていた。
古事記の天岩戸神話に『天児屋命と布刀玉命を召して、天の香山の真男鹿の肩を全抜きて、天の香山のははかを取りて、占合ひまかなはしめて...』とあり天香久山の雄鹿の骨を抜きとって「朱桜」の木の皮で焼き、吉凶を占ったとある。 ウィキペディア(Wikipedia)より
國常立神社
祭神は國常立命(天地開開とともに現ゎれた国土形成の神)、右には俗に雨の竜王と称され境内社として高淤加美神(竜王神)を祀る。
竜王神の前に壺が埋められており、古来干天の時この神に雨乞いして壺の水をかえたが、まだ降雨のない節はこの社の灯明の火で松明をつくり、村中を火振りして歩いたといぅ。
末社に伊弉諾神社(祭神伊弉諾命)、伊弉冊神社(祭神伊弉冊命)があり、天香久山の東山麓に鎮座する。
右奥に二上山が見える
2021/04/15 12:43:20
壬申の乱に勝利した大海人皇子は、天武2年(673)に即位し天武天皇となる。しかし、その8年後の天武天皇9年(680)、壬申の乱をともに闘った?野讚良皇后(うののさらら・後の持統天皇)が病に倒れた。天武帝は皇后の病気平癒を祈願して薬師寺建立を発願し、その2年後に建立に着手した。そしてまもなく皇后は病気も平癒する。ところが発願から6年後の朱鳥元年(686)天武天皇自身が病を得て崩御されてしまう。この後、持統天皇として即位した?野讚良皇后が夫の意志を継ぎ建立を続け、持統11年(697)開眼仏会を、そして着工からおよそ16年の月日を要して文武2年(698)に、ほぼ完成させた。建立地は藤原宮の右京八条三坊(現在の橿原市城殿町)である。 なお、平城京遷都後は、新たに平城京西の京に建立された薬師寺と区別するために、本薬師寺と呼ばれるようになった。(古寺巡訪ホームページより転載)
東大谷日女命神社
【御祭神】
媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)
ヒメタタライスズヒメは、三輪のオオモノヌシと三嶋溝咋の娘セヤタタラヒメとの間の娘で(丹塗矢神話)、神武天皇の皇后。
【由緒】
社頭の案内によれば、「当社の創造は不明であるが、徳川時代に於いては、氏神・熊野神社として明治11年(1878)頃まで熊野権現をお祀りされていた。その祭神は伊弉冉尊(イザナミ)でした。
明治20年(1887)頃から当社を式内・東太谷日女命神社とし、祭神を神功皇后へ変えたが、その後、姫蹈鞴五十鈴媛命に変更、明治35年(1902)社名を東大谷日女命神社に変更した」という。
三等三角点 / 畝火山口神社社殿跡の石柱 / 時計と温度計(午後2時25分・18℃)
耳成山 / 二上山
2021/04/15 14:59:46
【御祭神】菅原道真
畝傍山下山道を迷って別のところへ出たために偶然出会えた。2年半前にも参拝していた。
2021/04/15 15:21:39