開始日時 | 2021/03/30 09:29:21 | 終了日時 | 2021/03/30 14:23:51 |
水平距離 | 17.62km | 沿面距離 | 18.04km |
経過時間 | 4時間54分30秒 | 移動時間 | 3時間46分21秒 |
全体平均速度 | 3.68km/h | 移動平均速度 | 4.71km/h |
最高速度 | 95.25km/h | 昇降量合計 | 1566m |
総上昇量 | 809m | 総下降量 | 757m |
最高高度 | 194m | 最低高度 | 85m |
【コース】
京阪御陵駅 ⇒ 天智天皇山科陵 ⇒ 琵琶湖疏水 ⇒ JR山科駅
⇒ JR大津京駅 ⇒ 近江神宮 ⇒ 皇子山古墳 ⇒ 法明院(フェノロサの墓) ⇒ 弘文天皇陵 ⇒ 新羅善神堂
⇒ 園城寺(三井寺) ⇒ 琵琶湖疏水の桜 ⇒ JR大津駅 (13㎞ 25,200歩)
※ 古事記、日本書紀、続日本紀に関連ある場所では、その記載箇所を現代語訳で表示。 第34代舒明天皇~第41代持統天皇までの天皇は、『日本書紀』の現代語訳を「擅恣企画」のサイトを参考。 第42代文武天皇~第50代桓武天皇までの天皇は、『続日本紀』の現代語訳要点を表示しています。
煉瓦製造所は、敷地13471坪(44.5㎡)、工場10棟、窯場3棟、登窯12カ所、煙突8基。
1886年7月-1889年10月末まで稼働した。東野森野町の土を採用する。原料の土は簡易鉄道、大八車などで製造所に運び込まれた。
1368万7000個の煉瓦を製造し、1073万600個が疏水工事に使用された。
天智天皇 『ウィキペディア(Wikipedia)』より
天智天皇(626年〈推古天皇34年〉- 672年1月7日〈天智天皇10年12月3日〉)は、日本の第38代天皇(在位:668年2月20日- 672年1月7日)
舒明天皇の第二皇子。母は皇極天皇(重祚して斉明天皇)。皇后は異母兄・古人大兄皇子の娘・倭姫王。
諱は葛城。中大兄皇子として知られる。中臣鎌足と共に大化の改新を行った事で知られる。
百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋を送り返し、百済復興を図って白村江の戦いを起こすも敗戦した。
663年8月28日に白村江の戦いで大敗を喫した後、唐に遣唐使を派遣する一方で、667年4月17日に近江大津宮へ遷都し、668年2月20日、即位した。
即位後(670年)には、日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制が導入されるための土台を築いていった。
中大兄皇子時代の660年(斉明天皇6年)に漏刻(水時計)を作り、671年(天智天皇10年)には大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始した。671年での日付(4月25日)に対応するグレゴリオ暦の6月10日は時の記念日として知られている。
弟・大海人皇子から額田王を奪ったので自分の皇女4人を大海人皇子に嫁がせた。
669年11月13日(天智天皇8年10月15日)、中臣鎌足が亡くなる前日に内大臣に任じ、藤原の姓を与えた。
672年1月7日(天智天皇10年12月3日)、近江大津宮で崩御
崩御後に起きた壬申の乱において大海人皇子が大友皇子(弘文天皇)に勝利して即位して天武天皇となる
以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続く。
称徳天皇崩御後に、天智の孫・白壁王(志貴皇子の子)が即位して光仁天皇となり、以降は天智系統が続く。
「日本書紀」要約 日本書紀巻27/天智天皇 第38代天智天皇 斉明天皇即位7年7月 唐の蘇定方と突厥の契{草冠+必}加力が高麗の城下に到着。中大兄皇子が長津宮に移る。 斉明天皇即位7年8月 阿曇比邏夫連などを派遣して百済を救援しようとした。 斉明天皇即位7年9月 長津宮で中大兄皇子が豊璋に冠を授ける。多臣蒋敷の妹を妻に。狹井連檳榔などを5000人をつけて百済に派遣。豊璋を鬼室福信が迎える。 斉明天皇即位7年12月 高麗が唐の侵略を退ける。 斉明天皇即位7年 播磨国司の岸田臣麻呂が宝の剣を献上。百済の加巴利浜で火を焚くと、灰が穴になり鳴鏑のように鳴った。これを高麗と百済が滅ぶ兆候だとした。 天智天皇即位1年1月 鬼室福信に援助。 天智天皇即位1年3月 百済に布を与えた。唐と新羅が高麗を征伐。高麗は大和朝廷に救援を要請。将軍を派遣してなんとか食い止める。 天智天皇即位1年4月 ネズミが馬の尾で子を産む。これを高麗が破れて日本に服属すると判断した。 即位1年5月 阿曇比邏夫連が豊璋を百済へ送る。百済を復興。 即位1年6月 百済は達率万智を派遣し献上した。 即位1年12月 百済の豊璋・福信が狹井連と合議。部下の進言を聞かず、都を移動させる。 即位2年2月 百済は達率金受を派遣して献上。新羅が百済に侵略し、結局都を元の州柔に戻す。 即位2年3月 日本が上毛野君稚子と27000人を派遣して新羅を討たせる。 即位2年5月 犬上君が高麗に行くと、そこで福信の罪を聞く。 即位2年6月 上毛野君稚子たちが新羅の城を取る。百済の豊璋は福信の手のひらに穴を開けて革で縛って捕らえて、結局処刑した。首は酢漬けにして保存。 即位2年8月 福信の死を受けて新羅が都を取ろうとする。日本から救援1万人が来ることになっていると豊璋が言う。新羅が百済の都を包囲。唐は170隻の船で 白村江に陣を張る。27日に日本と唐の船が出会って戦争になる。日本敗北。28日日本が乱れた兵で戦うが破れ続ける。百済の豊璋は高麗へと逃げる。 即位2年9月 百済の都の州柔城が降伏。百済の滅亡。百済の人々が日本に逃げる。 即位3年2月 天智天皇は大海人皇子に冠位を改めるように命じる。 即位3年3月 百済王の善光王が難波に。星が都の北に落ちる。地震。 即位3年5月 百済の劉仁願は郭務宗を派遣し献上した。蘇我連大臣が死亡。 即位3年6月 嶋皇祖母命(=天智天皇の祖母)が死亡。 即位3年10月 中臣鎌足が智祥を派遣して郭務宗に品物を与えた。郭務宗と宴会。高麗の大臣蓋金が死亡。 即位3年12月 郭務宗が帰国。淡海国の報告。 即位3年 対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国に防人を置く。筑紫に水城を設置。 即位4年2月 間人大后(孝徳天皇の后・天智天皇の妹)が死亡。百済の官位を調べて、日本の位を授ける。百済の百姓四百人が近江国の神前郡に移住。 即位4年3月 間人大后のために330人が出家。百済人に田を与えました。 即位4年8月 長門・筑紫に築く。済州島から使者が来る。 即位4年9月 唐が使者を日本に派遣。 即位4年10月 菟道で検閲。 即位4年11月 唐の使者の劉徳高と宴会。 即位4年12月 劉徳高に品物を与えた。劉徳高が帰国。この歳、小錦守君大石を唐に派遣。 即位5年1月 高麗が使者の前部能婁を派遣して調を献上。済州島が王子の姑如を派遣して貢ぎ物を献上。 即位5年3月 皇太子(天智天皇)が佐伯子麻呂連に病状を尋ねる。 即位5年6月 高麗の使者の前部能婁が帰国。 即位5年7月 洪水。 即位5年10月 高麗が乙相奄鄒を派遣して調を献上。 即位5年 この年に都のネズミが近江に向かって言った。百済の男女二千人を東国(関東)に移住させる。倭漢沙門智由は指南車を献上。 即位6年2月 斉明天皇(皇極天皇)と間人皇女を合葬する。大田皇女を近くの墓に埋葬する。皇太子(天智天皇)が言うには「斉明天皇の遺言で昔ながらの大きな墓 を作らなかった。永遠にそうしましょう」 即位6年3月 近江に遷都(近江大津宮)。ただし百姓は遷都を嫌がり、批判した。 即位6年6月 葛野郡が白いツバメを献上。 即位6年7月 済州島が使者を派遣して貢ぎ物を献上。 即位6年8月 皇太子が大和の都へ。 即位6年10月 高麗の長男の男生が中国へ亡命。 即位6年11月 百済の劉仁願が部下を筑紫都督府に送る。高安城・屋嶋城・金田城を築く。 即位6年閏11月 椽磨(済州島)に援助を行う。 即位7年1月 天智天皇が即位。内裏で宴会した。博徳が服命。 即位7年2月 倭姫王を皇后に。蘇我山田石川麻呂の娘の遠智娘も嫁いで大田皇女・鵜野皇女(持統天皇)・建皇子を産んだ。阿倍倉梯麻呂の娘も嫁いだ。蘇我赤兄の 娘も嫁いだ。伊賀采女宅子娘も嫁いで大友皇子を産んだ。 即位7年4月 百済が調を献上。 即位7年5月 天智天皇が蒲生野で猟りをした。大海人皇子やその他の家臣たちが従った。 即位7年6月 伊勢王とその弟が1日違いで死亡。 即位7年7月 高麗が調を献上。風と波が強くて帰国できなかった。近江国が武を習う。牧場を作り、馬を放つ。越国が燃える土と燃える水を献上。宴会会場で魚が 集まる。蝦夷と宴会した。舎人に命じて宴会をした。その時代の人は「天皇は天命を終わらせようとしているのか?」と言った。 即位7年9月 新羅が調を献上。中臣鎌足が新羅の使者に船を与えた。 即位7年10月 唐が高麗を滅ぼす。 即位7年11月 日本は新羅王に品を与え、部下を派遣する。道行が草薙剣を盗んで新羅に逃げるが、途中で迷う。 即位8年1月 蘇我赤兄を筑紫率に任命。 即位8年3月 耽羅は王子の久麻伎を派遣して貢ぎ物を献上。耽羅に五穀の種子を与える。 即位8年5月 天智天皇が山科野で猟りを。大海人皇子と臣下たちが従って行きました。 即位8年8月 天智天皇が高安嶺に城を作ろうとしたが、労役が厳しいから止めた。鎌足の家に落雷があった。 即位8年9月 新羅が使者を派遣して調を献上。 即位8年10月 天智天皇が病に伏せる中臣鎌足に見舞いに行く。藤原姓を与える。鎌足が死亡。 即位8年12月 大蔵が火災に。この冬に高安城を作ったことで田税を徴収した。斑鳩寺が火災にあった。この年、河内直鯨を唐に使者として送る。余自信・鬼室集斯 を近江国蒲生郡に移住させた。唐が郭務宗と2000人を派遣した。 即位9年1月 宮で大射の儀式をした。マナーを規定し、妄言などを禁じた。 即位9年2月 戸籍を作る。長門城1つ、筑紫城2つを築いた。 即位9年3月 山御井で御幣を捧げた。中臣金連が祝詞をあげた。 即位9年4月 法隆寺に火災。 即位9年5月 奇妙な童謡が歌われる。 即位9年6月 村で「申」の字が記してある亀が見つかる。 即位9年9月 阿曇連頬垂を新羅に派遣。 即位9年 この年、水碓を作って治鉄をする。 即位10年1月 賀正の儀式。大友皇子が太政大臣に。蘇我赤兄が左大臣。太皇弟が詔して、冠位・法度を施行。大赦する。高麗が貢調する。百済が表を献上する。 百済の臣たちに冠位を授ける。また動揺を歌う。 即位10年2月 百済が貢調する。 即位10年3月 黄書造本実が水秤(みずばかり)を献上する。常陸国は中臣部若子を献上する。 即位10年4月 漏剋が新しい台に置かれ、鐘鼓が鳴った。筑紫で8つ足の鹿が生まれて死んだ。 即位10年5月 天智天皇が皇太子と臣と宴会をする。 即位10年6月 百済の使者が軍の要請をする。百済は貢調をする。栗隈王を筑紫率に。新羅は貢調する。 即位10年7月 唐の李守真が百済の使者と帰る。 即位10年8月 高麗の可婁たちが帰国。蝦夷と宴会。 即位10年9月 天智天皇が病気に。 即位10年10月 新羅が貢調する。内裏で仏の開眼式。法興寺の仏に宝が奉られる。 即位10年10月 天皇の病気が悪化。皇太弟(のちの天武天皇)を呼び出して、即位を求めるが皇太弟は固辞。皇太弟は皇后か大友皇子に譲って欲しいと言い、 出家する。皇太弟は吉野へ。 即位10年11月 対馬から筑紫に郭務宗ら2000人が74隻の船に乗って朝鮮の比智嶋に来て、来日しようとしているが、通告していないと驚いて襲うだろう考え、 あらかじめ朝廷に使者を派遣しようとしている、と情報が来る。大友皇子は内裏で蘇我赤兄たちと泣いて誓いを立てる。近江宮に火災。大蔵省から出火。 天智天皇の前で蘇我赤兄たちが誓う。新羅が貢物を持って来る。 即位10年12月 天智天皇が崩御。殯をする。動揺が歌われる。新羅の使者が帰国。讃岐の山田郡で四つ足の雛が生まれる。8つの鼎が鳴いた。
2021/03/30 10:02:26
2021/03/30 10:32:47
2021/03/30 10:50:13
第38代天智天皇をまつる近江神宮は、天智天皇の古都、近江大津宮(大津京)跡に鎮座する神社です。
滋賀県西部の大津市中心部にほど近い、琵琶湖西岸の山裾にあります。旧官幣大社・勅祭社で、社殿は近江造り・昭和造りといわれ、近代神社建築の代表として登録文化財となっています。
開運へのみちびきの神、産業文化学問の神として崇敬が深く、また漏刻(水時計)・百人一首かるた・流鏑馬(やぶさめ)で知られ、境内に時計館宝物館があり、漏刻・日時計なども設けられています。また、神前結婚式のほか、初宮詣(お宮参り)・七五三・車のおはらいや各種祈願なども申し受けています。
(「近江神宮公式ホームページ」より)
2021/03/30 11:50:11
概要 『ウィキペディア(Wikipedia)』より
滋賀県南部、琵琶湖西岸の「皇子山」と称される独立丘陵(標高164メートル)に築造された古墳群である。
前方後方墳1基(1号墳)・円墳1基(2号墳)の計2基から構成されるが、これら前期古墳とは別に、一帯では後期古墳の営造もあったと推測される。
これまで1964・1970年(昭和39・45年)に発掘調査が実施されたほか、現在は公園として整備・公開されている。
2基の古墳域は、1974年(昭和49年)に「皇子山古墳」の名称で国の史跡に指定された。なお古墳群の東南では、後世に近江大津宮(錦織遺跡)が営まれている。
「法明院」
フェノロサの墓がある法明院は 園城寺(三井寺)の伽藍の中で最も北に位置している律院で江戸時代に義瑞和尚性慶が開基の天台寺門宗
「アーネスト・フランシスコ・フェノロサ」 『ウィキペディア(Wikipedia)』より
アメリカ合衆国の東洋美術史家、哲学者で、明治時代に来日したお雇い外国人。日本美術を評価し、紹介に努めたことで知られる。
動物学者エドワード・シルヴェスター・モースの紹介で1878年(明治11年、当時25歳)に来日し東京大学で講義、助手の岡倉天心とともに古寺の美術品を訪ね、天心とともに東京美術学校の設立に尽力した。
明治11年(1878)に日本政府の要請で来日。古社寺の調査員として宝物調査を行いました。当時の仏像の多くは、廃仏毀釈によって壊滅的な被害を受けていましたが、フェノロサは日本古来の文化財の価値を高く評価し、保護に努めました。
・「法隆寺夢殿 救世観音像開扉の瞬間」
聖徳太子の怒りを恐れて、封印を解くことをかたくなに拒んでいた住職たちは、フェノロサのあらゆる議論を展開して説得を試みた結果、長く硬直状態が続いたが、最後にはフェノロサの要求が聞き入れられた。救世観音をその目で見た時のフェノロサの興奮は、『東亜美術史綱』に以下のように記されている。
『・・・二百年間用ひざりし鍵が錆びたる鎖鑰内に鳴りたるときの余の快感は今に於いて忘れ難し。厨子の内には木綿を以て鄭重に巻きたる高き物顕はれ、其の上に幾世の塵埃堆積したり。木綿を取り除くこと容易に非ず。飛散する塵埃に窒息する危険を冒しつつ、凡そ500ヤードの木綿を取り除きたりと思ふとき、最終の包皮落下し、此の驚嘆すべき無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現はれたり。』
・「聖林寺 国宝 十一面観音」 (聖林寺ホームページより)
明治20年(1887)、アメリカの哲学者フェノロサによって秘仏の禁が解かれ、人々の前にその美しい姿を初めて現しました。
フェノロサはその美しさにたいそう驚き、門前から大和盆地を指して、「この界隈にどれ程の素封家がいるか知らないが、この仏さま一体にとうてい及ぶものでない」と述べたと伝えられています。
本堂脇の厨子は、十一面観音のためにフェノロサらが寄進したもの。内部に滑車を付け、火事などいざというときに外に運び出せるよう可動式になっており、文化財保護施設の魅とも言うべき工夫がなされています。
1890年に帰国し、ボストン美術館東洋部長として、日本美術の紹介を行った。その後、1896年、1898年、1901年にも来日した。1908年、ロンドンの大英博物館で調査をしているときに心臓発作で逝去。英国国教会の手でハイゲート墓地に埋葬されたが、フェノロサの遺志により、火葬ののち分骨されて日本に送られ、法明院に改めて葬られた。
「奈良淨教寺本堂でフェノロサ講演」
明治21年(1888年)6月5日淨教寺の本堂にて、アーノルド・F・フェノロサ氏の講演が岡倉天心(覚三)の通訳により開催されました。
フェノロサの講演(要旨抜粋) 約500 人の聴衆に向かい「日本の美術は西洋と比較して、少しも劣るものではありません」と勇気づけ、「奈良の文化財は、奈良という一地方だけでなく、世界の宝。その保存の大任は、みなさんが尽くすべき義務であり、栄誉です」と語りかけました。 「奈良の諸君に告ぐ」 わたくしは昨年、欧州の国々に遊び、とくにイタリアの都、ローマにおいて古物を調べてまいりました。この度は日本のローマである奈良にまいりまして、こうしてみなさんにお目にかかりましたこと、まことに奇遇、光栄、と喜んでいる次第であります。 さて、美術と宗教に関しまして、奈良とローマは大変よく似ております。 徳川時代、人々は、奈良にいかなるものがあるのか知らないまま、三百年を経過してきたのでありますが、昔の人の思想がいかなるものであったかも知らず、古物の価値も知られなかったありさまは、あたかもローマの古物が土中に埋もれたままであった時代と変わりありません。近来となって、古物が探求され、奈良というところも知られるようになりましたが、もしもあの正倉院の御物がなかったならば、日本の古代文化がいかなるものであったか、ほとんど知られないままだったのではないでしょうか。 それら日本の美術は、ヨーロッパのものとすこしも劣るものではありません。つまりアジアの仏教美術は、この奈良において、完全なるものに仕上がったのだと、わたくしは信じて疑わないのであります。 奈良は、宗教や美術のみならず、ほかにも多くのことで大陸と関係をもってきました。しかし、多くの国は滅亡し、あるいは戦乱を経て、もはや昔の面目を残していないのであります。当時の文物は、日本に存在するのみでありへます。 奈良は、じつにじつに中央アジアの博物館と称してよいのであります。 ですから、願わくば、ヨーロッパ人の真似ばかりせずに、精神を高潔にし、日本人たることを嫌うような風潮が愚弄であることを世に知らせ、日本人として誇れる高い文化の創造を切望してやまないのであります。 美術について申しますと、ただ器用さや精巧さのみを競わず、昔の人の高尚なる精神をとらえるよう努めるべきであります。 美術の本義とはいかなるものか。大意を申しますと、人の心にあるものを外に表すものであります。もし人間世界に美術がなければ、人間は機械的となり、人情は野卑におち、蒸気機関と同じありさまとなりますことは、歴史に明らかであります。美術は、いついかなるときも文化世界にけっして欠かせないもの、文化の要であります。 しからば日本人は、特有な高尚の思想を研磨し、もって世界に勝ちを制するべきだと思うのでありますが、しかし、完全に達するは、一朝一夕にしてなるものではありません。その機会を得るには、美術の教育にあります。しかし美術は機械ではありません。心の感得物であります。 美術の妙味は、規則をもって教えられるものでなく、名作を多く見て、自然と感得するところにあります。それには、名人の遺作を多く蒐集する博物館を設ける必要があります。 それには、模範なる古物が散逸しないよう、一か所に集めなくてはなりません。 最後にわたくしが奈良のみなさまに望みますところは、ここでみなさまが奮発し、率先して、日本美術復古の唱導者となってほしいことであります。 この奈良の古物は、ひとり奈良という一地方の宝であるのみならず、じつに日本の宝でもあります。いや、世界においても、もはや得ることのできない貴重な宝なのであります。ゆえにわたくしは、この古物の保護保存の大任は、すなわち奈良のみなさんが尽くすべき義務であり、その義務はみなさまの大いなる栄誉でもあると思うのであります。この古物の保護保存を考えずして、いたずらに目の前の小利に惑わされてしまっていては、まことにまことに惜しいことであり、それではこの奈良の価値をまったく理解していないのと同じになってしまうのではないかと、わたくしはそう考えるのであります。 |
「大友皇子即位説」
671年、天智天皇の死後に朝廷を主宰した大友皇子は、翌672年の壬申の乱で、大海人皇子(後の天武天皇)に敗死した。この間に大友皇子が即位式を行って天皇になったのか、それとも行わないうちに死去したのかが争点である。大友皇子が実際に天皇としての行為を行っていたことへの異議は少ない。
大友皇子は明治に入った明治3年(1870年)に諡号を贈られて弘文天皇と呼ばれたため、弘文天皇即位説(こうぶんてんのうそくいせつ)とも呼ばれる。
大友皇子即位(第38代弘文天皇)説 『ウィキペディア(Wikipedia)』より 日本書紀』の編纂方針 壬申の乱について、今に伝わるもっとも詳しく時代も古い史料は『日本書紀』である。この史料では、天智天皇の次の天皇は天武天皇となっており、大友皇子の即位は 記されていない。大友皇子即位説とは、『日本書紀』の編者が曲筆して大友即位の事実を抹殺したという説でもある。 『日本書紀』の巻27は天智天皇の時代、巻28と29は天武天皇の時代、最終の巻30は持統天皇の時代を扱う。このうち、巻28は天武天皇元年だけにあてられ、巻29が残り の14年間を扱う。『日本書紀』こと『書紀』がいう天武天皇元年は、壬申の乱が起きた年であり、この年の6月から7月に戦いが起こった。一年に一巻をあてた箇所は他 にない。編纂において、壬申の乱が特別に重要な事件とみなされていたことは明らかである。 これには、この内戦が大化改新とともに編纂当時の「現代」を作り出した重要な事件であるという認識が働いていたと思われる。その際には、現天皇の系譜を正統化 しようという動機もあったであろう。 『書紀』の編者を率いたのは舎人親王で天武の子、完成時の元正天皇は天武の孫で、編纂期間中を通じて皇位は天武系が占めていた。そのため、天武天皇を咎めるような 事実を記さなかった可能性が高い。政権が望まない事実を削除したことは後続の『続日本紀』に例があり、まったくの嘘を創作することと比べれば抵抗が少なかったと思 われる。 壬申の乱で死んだ皇族は大友皇子と山部王の二人だけであり、他の天智系皇族は大友の子葛野王をも含めて全員が生き残って朝廷を構成した。その他中・下級の官人まで 含め、存命のものは多かった。彼ら皇族・臣下は『日本書紀』の想定読者でもあるので、よく知られた事実を否定するような操作は難しかったのではないかという指摘も ある。 『書紀』の内容が信頼できないことからは、真偽不明という結論は導けても、そこから直ちに『書紀』の記述の反対が真実だとか、論者の想像が真実だとかいう結論は導け ない。書紀の記述に信をおかず、同時に大友皇子の即位を認めない説も可能である。即位説を積極的に主張するためには、別の判断材料が必要となる。
園城寺の五社鎮守の一つに数えられる。源頼朝を初め、源氏守護神として篤く信仰された。社頭での藤原俊成の歌合以来、歌道神としても崇敬された。
園城寺鎮守神の本尊・新羅明神坐像を祀る。
2021/03/30 13:11:59
滋賀県大津市、琵琶湖南西の長等山中腹に広大な敷地を有する三井寺は、正式名称を「長等山園城寺(おんじょうじ)」といい、天台寺門宗の総本山です。平安時代、第五代天台座主・智証大師円珍和尚の卓越した個性により、天台別院として中興されました。以来今日まで続く千二百年以上の歴史の中で、源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の法難に遭遇しましたが、智証大師への信仰に支えられた人々によって支えられつつ、苦難を乗り越えてきた様から、「不死鳥の寺」としても知られています。(三井寺ホームページより)
概要 ウィキペディア(Wikipedia)』より
琵琶湖疏水は、第1疏水(1890年に完成)と第2疏水(1912年に完成)を総称したものである。
両疏水を合わせ、23.65m3/sを滋賀県大津市三保ヶ崎で取水する。その内訳は、水道用水12.96m3/s、それ以外に水力発電、灌漑、下水の掃流、工業用水などに使われる。また、疏水を利用した水運も行われた。
水力発電は通水の翌年に運転が開始され、営業用として日本初のものである。その電力は日本初の電車(京都電気鉄道、のち買収されて京都市電)を走らせるために利用され、さらに工業用動力としても使われて京都の近代化に貢献した。
疏水を利用した水運は、琵琶湖と京都、さらに京都と伏見、宇治川を結んだ。落差の大きい蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理のインクラインが設置され、船は線路上の台車に載せて移動された。水運の消滅に伴いインクラインはいずれも廃止されたが、蹴上インクラインは一部の設備が静態保存されている。
無鄰菴や平安神宮神苑、瓢亭、菊水、何有荘、円山公園をはじめとする東山の庭園に、また京都御所や東本願寺の防火用水としても利用されている。一部の区間は国の史跡に指定されている。また、疏水百選の1つである。
第1トンネル東口洞門には石額が掲げられています。
『気象萬千』(伊藤博文揮毫)
長等神社(ながらじんじゃ)は、かつては新日吉社・新宮社と呼ばれた園城寺(三井寺)の鎮守社
大津大神宮(おおつだいじんぐう)
御祭神:天照皇大神宮、豊受大神宮
滋賀県神社庁(神社庁会館)に隣接して鎮座している大津大神宮は昭和21年まで神宮奉斎会滋賀県地方本部奉斎所として県内への神宮奉斎にかかる啓発運動の中心拠点としてその役に担ってきた。
明治11年10月20日、久邇宮朝彦親王の御令旨により、神宮奉斎会滋賀県地方本部奉斎所として、大津市下栄町に初めて社殿を設立し、天照皇大神宮を奉斎したのが創始である。
明治31年10月20日には、豊受大神宮を合祀し、大津市甚七町に社殿を新築した。
昭和4年5月、現在の滋賀県神社庁のある、長等公園内の清祥景勝の地を大津市より無償借地、甚七町から社殿を移築し、社務所斎館を新築。祭祀を厳修し、神宮崇敬心の向上に努めた。
2021/03/30 14:24:04