開始日時 | 2019/12/03 09:24:19 | 終了日時 | 2019/12/03 12:55:23 |
水平距離 | 15.07km | 沿面距離 | 15.10km |
経過時間 | 3時間31分04秒 | 移動時間 | 3時間12分40秒 |
徒歩距離 | 15.1km | 徒歩合計 | 23,100歩 |
全体平均速度 | 4.28km/h | 移動平均速度 | 4.48km/h |
最高高度 | 99m | 最低高度 | 36m |
【コース】
せいか大通り ⇒ 新殿神社門前 ⇒ 木津川台公園 ⇒ 荒神塚池 ⇒ 24号線(ガーデンモール木津川) ⇒ 五領池
⇒ 元正天皇 奈保山西陵 ⇒ 元明天皇 奈保山東陵 ⇒ 大仏鉄道黒髪山トンネル跡 ⇒ 聖武天皇佐保山南陵 ⇒ 奈良女子大学正門 ⇒ 近鉄奈良駅
※ 古事記、日本書紀、続日本紀に関連ある場所では、その記載箇所を現代語訳で表示。 第34代舒明天皇~第41代持統天皇までの天皇は、『日本書紀』の現代語訳を「擅恣企画」のサイトを参考。 第42代文武天皇~第50代桓武天皇までの天皇は、『続日本紀』の現代語訳要点を表示しています。
2019/12/03 09:41:19
2019/12/03 09:58:18
2019/12/03 10:47:32
2019/12/03 11:30:14
元正天皇は日本の第44代天皇。
父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高・日高、又は新家。和風諡号は日本根子高瑞浄足姫天皇である。漢風諡号の「元正天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって撰進されたとされる。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。
(ウィキペディアより)
元正天皇 続日本紀卷第七-卷第九 ・元明天皇譲位。氷高内親王(後の元正天皇)即位。 ・この年、光明子が皇太子妃になる。駿河など七国の高麗人千七百九十九人を武蔵国に移し、高麗郡を置く。 ・行基ら僧尼の活動を非難する詔がでる。この年、不比等ら養老律令を撰修した。 ・能登、安房、石城、石背四か国を置く。 ・大伴旅人、大将軍として隼人を討つことを命ぜられる。『日本書紀』完成。藤原不比等死去。 ・元明上皇崩。 ・三世一身法施行。太安万侶死去。
2019/12/03 11:38:46
元明天皇は、日本の第43代天皇。 天智天皇の皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃、文武天皇と元正天皇の母。 藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行う。 和風諡号は日本根子天津御代豊國成姫天皇である。(ウィキペディアより)
元明天皇 続日本紀卷第四-卷第六 ・文武天皇崩。 ・武蔵国が和銅を献ず。和銅と改元。和同開珎発行。 ・陸奥、越後の蝦夷。 ・平城京遷都。山階寺を平城に移し、興福寺と改称。 ・蓄銭叙位法を定める。 ・丹後、大隈、美作三国を置く。国、郡、郷名に好字を選ばせる。『風土記』の編纂を命ずる。 ・首皇子(後の聖武天皇)立太子。
2019/12/03 11:51:58
大仏鉄道黒髪山トンネル跡
2019/12/03 12:27:14
『聖武天皇』は、日本の第45代天皇。
諱は首(おびと)。 尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。
文武天皇の第一皇子として生まれたが、慶雲4年6月15日(707年7月18日)に7歳で父と死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会うことはなかった。物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のときであった。このため、同年7月17日(707年8月18日、文武天皇の母である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年6月25日(714年8月9日)には首皇子の元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったこと、皇親勢力と外戚である藤原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、翌霊亀元年9月2日(715年10月3日)に文武天皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。
聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:県犬養三千代)の立后を願っていた。しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していた。ところが神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自害、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された。長屋王の変は、長屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。
天平勝宝4年4月9日(752年5月30日)、東大寺大仏の開眼法要を行う。天平勝宝6年(754年)には唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会ったが、同時期に長く病気を患っていた母の宮子と死別する。天平勝宝8歳(756年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。宝算56。戒名は、勝満。
『光明皇后』は、日本の第45代天皇・聖武天皇の皇后。
諱は安宿媛(あすかべひめ)。正式な尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょうおうしんにんしょうこうたいごう)。通称に光明子(こうみょうし)、藤三娘(とうさんじょう)がある。
藤原不比等と県犬養橘三千代の女子で、聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉。皇族以外から立后する先例を開いた。
光明皇后は仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられる。また貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行った。夫聖武の七七忌に際し、光明皇后は東大寺盧舎那仏に聖武遺愛の品を追善供養のため奉献した。その宝物を収めるために正倉院が創設された。さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。
(ウィキペディアより)
聖武天皇 続日本紀巻第十-巻十六 ・ 元正天皇譲位。首皇子聖武天皇即位。蝦夷反乱し、藤原宇合討つ。 ・ 多賀城(奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。)なる。 ・ 光明子基王を生む。基王死去。 ・ 神亀6年(729年)2月長屋王の変。長屋王自殺。光明子、光明皇后となる。 ・ 橘三千代(光明の母)死去。大伴旅人死去。 ・ 吉備真備ら帰国。舎人親王(『日本書紀』編纂の主催者)死去。葛城王を橘諸兄と改名。 ・ 藤原四兄弟次々と死去。天然痘大流行。 ・ 安倍内親王立太子。橘諸兄右大臣なる。 ・ 聖武天皇、光明皇后が智識寺の盧舎那仏を拝する。大宰小弐、藤原広嗣が挙兵する。広嗣斬殺される。恭仁京遷都の詔。 ・ 国分寺建立の詔。大宰府を廃止する。紫香楽に離京を造る。 ・ 墾田永年私財法制定。聖武天皇、大仏建造を発願。恭仁京の造営中止。 ・ 難波宮を皇都とする。 ・ 天平十七年(745年)正月21日、 詔ありて、行基法師を大僧正としたまふ。 ・ 4月1日、市の西の山に火あり。 ・ 4月3日、(甲賀)寺の東の山に火あり。 ・ 4月8日、伊賀国真木山に火あり。三、四日不滅。延び焼くこと数百余町。即ち、山背・伊賀・近江等国に仰せてこれを撲ち滅たしむ。 ・ 4月11日、宮城の東の山に火あり。連日滅えず。是に、都下の男女、競ひ徃きて川に臨みて物を埋む。天皇、賀を備けて大丘野に幸したまはむとす。 ・ 4月13日、夜、微雨ふりて火乃ち滅え止む。 ・ 4月27日、・・是の日、通夜、地震。三日三夜なり。美濃国の櫓・舘・正倉、仏寺の堂塔、百姓の廬舍、触れる処に崩壊す。 ・ 5月2日、地震。京師の諸寺をして一七日を限りて最勝王経を転読せしむ。 ・ 5月5日、地震。日夜止まず。 ・ 5月6日、地震。車駕、恭仁京の泉橋に到りたまふ。時に百姓、遥に車駕を望みて、道の左に拝謁み、共に万歳を称ふ。是の日、恭仁宮に到りたまふ。 ・ 5月8日、地震。大安・薬師・元興・興福の四寺に、三七日を限りて、大集経を読ましむ。四月より雨ふらず。種芸を得ず。因て幣を諸国の神社に奉りて雨を祈ふ。 ・ 5月9日、地震。近江の国民一千人を発(いだ)して、甲賀宮の辺の山の火を滅(け)たしむ。 ・ 5月10日、地震。大般若経を平城宮に読ましむ。是の日、恭仁京の市人、平城に徙る。曉夜も争ひ行き、相接ぎて絶ゆることなし。 ・ 5月25日、是の月、地震、常に異なり。往々裂けて、水泉涌き出づ。 ・ 11月2日、玄昉(玄ぼう)法師を遣わして筑紫観世音寺を造らしむ。 ・ 11月17日、僧玄昉(玄ぼう)の封物を収む。 ・ 天平十八年(746年)正月29日、地震、夜もまた、地震。 ・ 6月18日、僧玄昉死ぬ。玄昉、俗姓は阿刀氏。716年、入唐、学問す。唐の天子、玄昉を尊み、三品に准へて紫の袈裟を着しめき。大使多治比真人広成に随って 帰還した。経論5千余巻と諸々の仏像とを持ち帰った。朝廷もまた紫の袈裟を施しこれを着す。尊みて僧正とし、内道場に安置した。是より後、栄耀日々に盛りに して、稍く沙門の行いに乖いた。時の人これを悪めり。是に至りて、徙所にして死ぬ。世に相伝えて曰く「藤原広嗣が霊の為に害はれぬ」と云う。 ・ 10月6日、天皇と太上天皇と皇后と、金鐘寺に行幸したまひて、盧舍那仏を燃灯供養したまふ。仏の前後の灯一万五千七百余坏。夜、一更に至りて数千の僧をし、 脂燭をささげ、讃歎供養して、仏を廻ること三匝せしむ。三更に至りて宮に還りたまふ。 行基没 ・ 天平勝宝元年(749年)2月2日、大僧正行基和尚、遷化す。和尚は薬師寺の僧なり。俗姓は高志氏、和泉国の人なり。和尚は真粋天挺にして徳範夙く彰る。 初めて出家したとき、瑜伽唯識論を読んで直ちにその意味を理解した。早くから都や田舎を廻り歩いて衆生を教化した。僧や俗人の多くが教化を慕って和尚につき従 い、その数はどうかすると千人単位で数えるほどであった。行く先々で和尚の来るのを知ると、巷にいる人がいなくなるほどで、争い集まって礼拝した。 天皇(聖武)は、和尚をたいへん敬い重んじられた。詔をして、和尚に大僧正の位を授け、併せて四百人を出家させた(745年)。 和尚は事ごとに不思議な異変や霊験を多くあらわしたので、時の人は行基菩薩と号した。和尚の滞在したところにはみな道場が建った。畿内にはそれが四十九ヶ所、ほ かの諸道にもまた方々にあった。弟子たちは皆和尚の遺した仏法を守り、今に至るまで往時している。薨じた時は八十歳であった(巻十七、天平勝宝元年二月)。 黄金産出 ・ (749年)2月22日、陸奧国、始めて黄金を貢る。是に幣を奉りて畿内・七道の諸社に告ぐ(巻十七、天平勝宝元年二月)。 ・ (749年)4月22日、陸奧守従三位・百済王敬福、黄金九百両を貢る(巻十七、天平勝宝元年四月)。 ・ (766年)6月28日、 刑部卿従三位百済王敬福薨。・・・時に聖武皇帝、盧舍那の銅像を造りたまふ。冶ち鋳すこと云に畢りて、塗金足らず。而るに陸奥国より 馳駅して、小田郡より出せる黄金九百両を貢る。我が国家の黄金、此より始めて出づ。聖武皇帝甚だ嘉し尚びて、従三位を授けたまふ(巻二十七、天平神護二年六月)。 大仏開眼 ・ (752年)4月9日、盧舍那大仏の像成りて、始めて開眼す。是の日、東大寺に行幸したまふ。天皇、親ら文武の百官を率いて、設斎大会したまふ。其の儀、一ら 元日に同じ。五位以上の者は礼服を着る。六位以下の者は当色。僧一万を請う。既にして雅楽寮と諸寺との種種の音楽、並びに咸く来り集まる。復、王臣諸氏の五節 ・久米舞・楯伏・踏歌・袍袴等の歌舞あり。東西より声を発し、庭を分けて奏る。作すことの奇しく偉きこと、勝げて記すべからず。仏法東に帰りてより、斎会の儀、 甞て此の如く盛なるは有らず。是の夕、天皇、大納言・藤原朝臣仲麻呂が田村の第に還御します。以て御在所としたまふ(巻十八、天平勝宝四年四月)。 (記述がないが、開眼導師はインドから渡来した菩提僊那僧正が務めた。) 橘諸兄 没 ・ (757年)正月6日、前左大臣正一位橘朝臣諸兄薨。遣従四位上紀朝臣飯麻呂。従五位下石川朝臣豊人等。監護葬事。所須官給。大臣贈従二位栗隈王之孫。 従四位下美努王之子也(巻二十、天平宝字元年正月)。
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近鉄奈良駅東口 待合わせの名所「行基菩薩像の噴水」