開始日時 | 2019/11/09 10:26:54 | 終了日時 | 1970/01/01 15:30:08 |
水平距離 | 19.01km | 沿面距離 | 19.39km |
経過時間 | 5時間03分14秒 | 移動時間 | 4時間53分21秒 |
徒歩距離 | 19.1km | 徒歩合計 | 27,500歩 |
全体平均速度 | 3.86km/h | 移動平均速度 | 4.87km/h |
最高高度 | 162m | 最低高度 | 43m |
【コース】
近鉄上ノ太子駅 ⇒ 叡福寺聖徳太子御廟所(磯長墓) ⇒ 31代用明天皇河内磯長陵 ⇒ 小野妹子墓 ⇒ 道の駅近つ飛鳥の里太子 ⇒
36代孝徳天皇 大阪磯長陵 ⇒ 旧山本家住宅 ⇒ 二子塚古墳 ⇒ 33代推古天皇磯長山田陵 ⇒ 30代敏達天皇 河内磯長中尾陵 ⇒ 近鉄上ノ太子駅
※ デジカメを忘れて スマホでGPSログ記録と写真 ギリギリ最終予定地で電池容量がなくなってしまった。
帰りは近鉄貴志駅のつもりであったが、方角わからずウロウロして、結局元の近鉄上ノ太子駅にでてきた。
※ 古事記に関連ある場所では、その記載箇所を現代語訳で表示。 ([古事記]は、あおぞら文庫より武田祐吉訳を拝借して一部変更。又、竹田恒泰著:現代語古事記を参考) (第34代舒明天皇~41代持統天皇までの天皇は、日本書紀の現代語訳を「擅恣企画」のサイトを参考)
2019/11/09 10:28:04
2019/11/09 10:44:40
「和を以て貴しと為す」
聖徳太子が8世紀に制定したとされる「十七条憲法」の第一条の冒頭にある言葉です。
『一曰。以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨亦少達者、是以、或不順君父乍違于隣里。然、上和下睦諧於論事則事理自通、何事不成。』
2019/11/09 10:49:47
叡福寺北古墳(聖徳太子墓)
2019/11/09 10:54:15
聖徳太子御廟(聖徳太子と母・穴穂部間人皇女、そして妃・膳部菩岐々美郎女が眠っている「三骨一廟」)
二天門の像(多聞天と持国天) / 聖徳皇太子磯長御廟・南大門(正面奥が二天門)
2019/11/09 11:41:20
用明天皇は、日本の第31代天皇。欽明天皇の第四皇子。母は蘇我稲目の娘・堅塩媛。同母妹に推古天皇。また、高向王(寶女王(のちの皇極天皇)の最初の夫)の祖父とされる。
仏法を重んじ、王朝において仏教を公認、後の推古天皇以降の仏教隆盛につながった。
陵は、宮内庁により大阪府南河内郡太子町大字春日にある河内磯長原陵に治定されている。形式は方丘。遺跡名は「春日向山古墳」で、一辺約60mの方墳である。(ウィキペディアより)
古事記 下の巻-七、用明天皇 弟のタチバナノトヨヒの命(用明天皇)、大和の池の邊の宮においでになつて、三年天下をお治めなさいました。この天皇は蘇我そがの稻目の 大臣の女のオホギタシ姫と結婚してお生みになつた御子はタメの王お一方です。庶妹ハシヒトノアナホベの王と結婚してお生みになつた御子は 上の宮のウマヤドノトヨトミミの命・クメの王・ヱクリの王・ウマラタの王お四方です。また當麻の倉の首ヒロの女のイヒの子と結婚してお生 みになつた御子はタギマの王、スガシロコの郎女のお二方です。 この天皇は丁未の年の四月十五日にお隱れなさいました。御陵は初めは磐余の掖上にありましたが後に科長(しなが)の中の陵にお遷うつし申 し上げました。 |
2019/11/09 12:20:33
小野妹子は、飛鳥時代の官人。姓は臣。冠位は大徳。 |
妹子が聖徳太子の守り本尊の如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に花を供えたのが、華道家元 池坊の起こりになったとされることから、現在、塚は池坊によって管理されています。
2019/11/09 12:50:43
2019/11/09 13:05:56
孝徳天皇は、日本の第36代天皇。諱は軽(かる)。その在位中には難波宮に宮廷があったことから、後世その在位時期をその政策(後世でいうところの大化の改新)などを含めて難波朝という別称で称されることがあった。
敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子の王子、茅渟王の長男。母は欽明天皇の孫で桜井皇子の王女、吉備姫王。皇極天皇(斉明天皇)の同母弟。中大兄皇子(天智天皇)・間人皇女・大海人皇子(天武天皇)の叔父。姪・間人皇女を皇后にした。阿倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)の娘の小足媛を妃として、有間皇子を儲けた。蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘(ちのいらつめ)を妃とした。
(ウィキペディアより)
日本書紀巻25/孝徳天皇 皇極天皇即位4年6月 中大兄皇子・古市大兄と譲り合って、孝徳天皇が即位。大伴長徳連と犬上健部君が即位式で左右に立つ。中大兄が皇太子に。阿倍 内麻呂臣が左大臣。蘇我倉山田石川麻呂臣が右大臣。中臣鎌子が内臣に。大化元年に定める(最初の元号)。 孝徳天皇即位1年7月 舒明天皇の娘の間人皇女を皇后に。三韓も貢調を。 即位1年8月 東国の国司に詔「戸籍を作り、税を取る。司法権は中央に。中央に来るときの従者の人数を定める。訴えがあった場合は、よく調査してか ら中央に報告する。兵器を集めて保管しておく」訴えの文を櫃に入れる制度。男女の法。十師を任命して、寺に所属する僧尼・奴婢・田畑を調べて報告 させた。法頭を任命した。 即位1年9月 武器を集める。古人皇子が謀反。吉備笠臣垂が中大兄皇子に密告。中大兄皇子は征討させる。諸国に民の人数を記録させる。公地公民。 即位1年12月 難波長柄豊碕へ遷都。 即位2年1月 改新の詔 即位2年2月 蘇我山田石川麻呂に詔「中国の昔の賢帝に習って鐘匱の制を」。高麗・百済・任那・新羅が貢を。孝徳天皇が子代離宮から帰る。 即位2年3月 東国の国司に詔「8人を東国に送って2人が違反した」。朝廷で東国の使者に詔「役人だからって無茶苦茶しちゃいけない。例としては穂積 臣咋・富制臣・巨勢臣紫檀・巨勢徳禰臣・紀麻利耆?臣など」。中大兄皇子が入部の524口と屯倉181か所を献上。孝徳天皇の詔「葬式も古墳も質素 に。古墳の大きさを身分によって規定。嘘つくな。奴婢や夫婦の規定。家の前で死んだからって穢れを祓う費用を請求するな。溺れた人を見たからと言 って、知人に穢れを祓う費用を請求するな。家の前でご飯を炊いたからって穢れを祓う費用を請求するな。預けられた馬をパクるな。馬が子を産んでも パクるな。その他諸々」 即位2年8月 詔「家の名前が増えすぎた。祖先の名前で統一するように。田畑の分配方法について」 即位2年9月 新羅が人質を献上。任那の貢調をやめた。孝徳天皇は御蝦蟇行宮。越国のネズミが東に移動。 即位3年1月 朝廷で射の儀式。高麗と新羅が調賦を献上。 即位3年4月 詔「みんなが自分勝手に名前をつけて、増えすぎ」 即位3年 難波小郡を壊して宮を作る。礼法を定める。「午前4時に来て、日の出とともに仕事を。正午には帰る」。倭漢直荒田井比羅夫は水路を間違っ て掘って難波に引いた。労役した人が困ったので天皇が非を認めて使役をやめた。 即位3年10月 孝徳天皇は有馬温湯へ。 即位3年12月 大晦日に有馬温湯から帰り、武庫行宮に留まる。中大兄皇子の宮に火災。 即位3年 7色の13階の冠を制定。金春秋が来日。献上品を出し、金春秋が人質に。渟足柵を作る。 即位4年1月 賀正の儀式。その夕べは孝徳天皇は難波碕宮に居た。 即位4年2月 三韓に学問層を派遣。阿倍大臣が四天王寺に僧を集め、仏像を塔に設置。古い冠をやめるが左右大臣は古い冠を被る。磐舟柵を作る。 即位5年1月 賀正の儀式。冠十九階を制定。 即位5年3月 阿倍大臣が死亡。蘇我臣日向が蘇我倉山田麻呂が中大兄皇子を殺そうとしていたと讒言。蘇我倉山田麻呂を問い詰めるが答えず、孝徳天皇 の前で答えると返す。蘇我興志が自殺。蘇我倉山田麻呂は殺され、関係者も多く死んだ。蘇我倉山田麻呂の没収し中大兄皇子のものとした。蘇我倉山田 麻呂の潔白を知って後悔する。中大兄皇子の妻は蘇我倉山田麻呂の娘でショックのあまり死亡。讒言した蘇我日向は島流しに。 即位5年4月 巨勢徳陀古臣が左大臣。大伴長徳連が右大臣。 即位5年5月 三輪君色夫・掃部連角麻呂などを新羅へ派遣。 即位6年1月 味経宮で賀正の礼。 即位6年2月 穴戸国司の草壁連醜経が白い雉を献上。吉兆ととらえた。雉を神輿に乗せて儀式を行った。元号を白雉とする。穴戸の調役を三年免除。 即位6年4月 新羅が貢ぎ物を献上。 即位6年10月 朝廷が直轄地を得たことで墓を失った人に品を与え、荒田井直比羅夫に直轄地の標識を立てさせた。刺繍の仏を作る。漢山口直大口は千仏 を作る。倭漢直県・白髮部連鐙・難波吉士胡床に安芸で百済舶を2隻作らせた。 即位7年3月 刺繍の仏などが完成。皇極天皇が仏教儀式を行う。 即位7年6月 百済と新羅が貢ぎ物を献上。 即位7年12月 味経宮で僧尼に一切経を読ませる。孝徳天皇は難波長柄豊碕宮へ。 即位7年 新羅の使者の知万沙?が唐の服を着ていた。唐に従属した証。巨勢大臣は新羅を征伐するように請願する。 即位8年1月 元旦の儀式の後、大郡宮へ。班田が終わる。 即位8年3月 難波長柄豊碕宮に帰る。 即位8年4月 恵隠を内裏に読んで無量寿経を読ませる。9日間雨が降り、被害があった。この月に戸籍を作った。新羅と百済が貢ぎ物を献上した。 即位8年9月 難波長柄豊碕宮が完成。 即位8年12月 僧尼を内裏に読んで儀式をする。 即位9年5月 大唐に吉士長丹を大使とした121人が派遣される。旻法師の病気を孝徳天皇が見舞う。 即位9年6月 百済・新羅が貢ぎ物を献上。大道を作る。旻法師が死亡。川原寺に安置。 即位9年7月 高田根麻呂の船が鹿児島の近くで座礁、水没して多くが死亡。 即位9年 中大兄皇子が孝徳天皇に大和へ都を映すように提言するが、天皇は拒否。しかし、皇子は皇極天皇・間人皇后たちと倭の飛鳥河辺行宮に移動。 役人も従った。孝徳天皇は山碕に宮を作った。 即位10年1月 ネズミが大和の都へ向かった。中臣鎌足連に紫冠を授ける。 即位10年2月 高向史玄理たちが新羅経由で中国の莱州へ。高向玄理は唐で死亡。 即位10年4月 タイの吐火羅国から男2人女2人が日向に流れ着く。吉士長丹が帰国。 即位10年10月 孝徳天皇が病気になると中大兄皇子が皇極天皇・間人皇后と役人を連れて難波宮に行く。孝徳天皇が死亡。 即位10年12月 大坂磯長陵(オオサカノシナガノミサザキ)に葬りました。この日、皇太子は皇祖母尊(スメミオヤノミコト)を奉じて、倭河辺行宮 (ヤマトノカワラノカリミヤ)に移って居ました。老者(オイヒト=老人)は語って言いました。 「鼠(ネズミ)が倭の都に向かったのは遷都する兆しだったのか」 この年、高麗・百済・新羅は一緒に使者を派遣して弔いを奉じました。 |
2019/11/09 13:09:31
【旧山本家住宅】わが国最古の国道とも言われる竹内街道の沿道にたたずむ「かやぶきの古民家」で、大和棟の形態をよく残し、大和と堺を結ぶ街道沿いの歴史的景観を特徴づけるものとして「国登録有形文化財(建造物)」となっています。
【二子塚古墳】被葬者は明らかでないが、第33代推古天皇(628年崩御)・竹田皇子(薨去年不詳)の真の合葬陵墓とする説がある。
2019/11/09 13:36:52
推古天皇は日本で最初の女性天皇で、甥である聖徳太子が摂政を務めました。
2012年2月23日、用明天皇陵と共に学会の立入調査があり、石室の一部が確認された。
宮内庁により、磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)および竹田皇子墓として推古天皇・竹田皇子(敏達天皇皇子)の合葬陵墓に治定されている。
【構造】3段築成の墳丘のうち、1段目は東西59m・南北55mとほぼ正方形であるが、3段目は東西34m・南北25mと東西に長い長方形であり、かつ3段目は相当な急斜面をなす。墳丘全体の高さは11mを測る。
(ウィキペディアより)
古事記 下の巻-七、推古天皇 妹のトヨミケカシギヤ姫の命(推古天皇)、大和の小治田の宮においでになつて、三十七年天下をお治めなさいました。戊子つちのえねの年の三月十五日 癸丑みずのとうしの日にお隱れなさいました。御陵は初めは大野の岡の上にありましたが、後に科長の大陵にお遷し申し上げました。 |
2019/11/09 14:03:23
太子西山古墳(たいしにしやまこふん、奥城古墳<おくつきこふん>)は、大阪府南河内郡太子町太子にある古墳。形状は前方後円墳。磯長谷古墳群を構成する古墳の1つ。
宮内庁により「河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)」および「磯長原陵(しながのはらのみささぎ)」として第30代敏達天皇・石姫皇女(欽明天皇皇后)の合葬陵に治定されている。。
墳形は前方後円形で、前方部を北西方に向ける。墳丘は2段築成。墳丘周辺では埴輪片が採集されているほか、墳丘周囲には空壕が巡らされる。墳丘長:113m 後円部直径:58m 前方部幅:67m
天皇陵としては最後の前方後円墳に位置づけられるとともに、埴輪列を有する陵としても最後に位置づけられる。
(ウィキペディアより)
古事記 下の巻-七、敏達天皇 御子のヌナクラフトタマシキの命(敏達天皇)、大和の他田の宮においでになつて、十四年天下をお治めなさいました。この天皇は庶妹トヨミケカシギ ヤ姫の命と結婚してお生みになつた御子はシヅカヒの王、またの名はカヒダコの王・タケダの王、またの名はヲカヒの王・ヲハリダの王・カヅラキの王 ・ウモリの王・ヲハリの王・タメの王・サクラヰノユミハリの王のお八方です。また伊勢のオホカの首おびとの女のヲクマコの郎女と結婚してお生みに なつた御子はフト姫の命・タカラの王、またの名はヌカデ姫の王のお二方です。またオキナガノマテの王の女のヒロ姫の命と結婚してお生みになつた御 子はオサカノヒコヒトの太子、またの名はマロコの王・サカノボリの王・ウヂの王のお三方です。また春日のナカツワクゴの王の女のオミナコの郎女と 結婚してお生みになつた御子はナニハの王・クハタの王・カスガの王・オホマタの王のお四方です。 この天皇の御子たち合わせて十七王おいでになつた中に、ヒコヒトの太子は庶妹タムラの王、またの名はヌカデ姫の命と結婚してお生みになつた御子が 、岡本の宮においでになつて天下をお治めなさいました天皇(舒明天皇)・ナカツ王・タラの王のお三方です。またアヤの王の妹のオホマタの王と結婚 してお生みになつた御子は、チヌの王、クハタの女王お二方です。また庶妹ユミハリの王と結婚してお生みになつた御子はヤマシロの王・カサヌヒの王 のお二方です。合わせて七王です。天皇は甲辰きのえたつの年の四月六日にお隱れになりました。御陵は河内の科長(しなが)にあります。 |