開始日時 | 2019/10/28 10:00:53 | 終了日時 | 2019/10/28 13:20:18 |
水平距離 | 7.95km | 沿面距離 | 7.96km |
経過時間 | 3時間19分25秒 | 移動時間 | 2時間44分05秒 |
徒歩距離 | 8.0km | 徒歩合計 | 17,300歩 |
全体平均速度 | 2.41km/h | 移動平均速度 | 2.93km/h |
最高高度 | 96m | 最低高度 | 70m |
【コース】
JR柳本駅 ⇒ 天理市立黒塚古墳/展示館 ⇒ 10代崇神天皇山邊道勾岡上陵(行燈山古墳) ⇒ 12代景行天皇 山邊道上陵(渋谷向山古墳)
⇒ ホケノ山古墳 ⇒ 箸墓古墳 ⇒ 三輪明神大神神社 ⇒ JR三輪駅
※ 古事記に関連ある場所では、その記載箇所を現代語訳で表示。 ([古事記]は、あおぞら文庫より武田祐吉訳を拝借して一部変更。又、竹田恒泰著:現代語古事記を参考) (第34代舒明天皇~41代持統天皇までの天皇は、日本書紀の現代語訳を「擅恣企画」のサイトを参考)
2019/10/28 10:05:17
2019/10/28 10:12:59
黒塚古墳は、奈良県天理市柳本町にある前方後円墳。
1997年(平成9年)から翌年にかけて奈良県立橿原考古学研究所が行った第3次発掘調査で、三角縁神獣鏡33面とそれよりも少し古い画文帯神獣鏡1面が、副葬当時に近い状態で発見された。
(ウィキペディアより)
2019/10/28 10:19:32
崇神天皇は、日本の第10代天皇。実在した可能性のある最初の天皇である。
開化天皇の第二皇子。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)で後の物部氏の系譜に連なる。異父兄に彦太忍信命(磐之媛の祖)。異母弟に彦坐王(神功皇后の祖)。19才で皇太子となる。
父帝が崩御した翌年の1月13日に即位。2月16日に従妹の御間城姫を皇后とし、活目命(後の垂仁天皇)や倭彦命らを得た。即位5年から7年にかけて疫病が流行したが、大物主神を祀ることで治めた。即位10年、武埴安彦(孝元天皇の皇子)の反乱を鎮め、四道将軍を各地に派遣した。即位12年に戸口を調査して初めて課役を科したことで御肇国天皇と称えられている。即位65年、任那から朝貢があった。即位68年、崩御。
【四道将軍】
即位9年、天皇は神が夢に現れたと称し大和国の東口に座す墨坂神と西口に座す大坂神を盾と矛をもって祀った。そして即位10年、四道将軍を派遣して全国を教化すると宣言した。大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし従わないものを討伐させることとなった。しかし北陸へ出発した大彦命は和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)で現れた不思議な童女から不吉な歌を聴くことになる。
御真木入日子はや 己が命を 殺せむと 竊まく知らに 姫遊すも
大城戸より 窺ひて 殺さむと すらくを知らに 姫遊すも
引き返して報告したところ、倭迹迹日百襲姫命がさらに詳細な予言を行った。その結果、武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)が謀反を起こそうとしていることがわかった。叛乱が露見した武埴安彦は山背から、妻の吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとした。天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の武埴安彦勢には大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせて打ち破った。叛乱終息後に四道将軍は再出発し、翌年に帰還して戎夷を従わせたことを報告した。また北陸道を進んだ大彦命と東海道を進んだ武渟川別の親子が合流した土地を相津(会津)という。
(ウィキペディアより)
古事記 中の巻-三、崇神天皇 后妃と皇子女 イマキイリ彦イニヱの命(崇神天皇)、大和の師木しきの水垣の宮においでになつて天下をお治めなさいました。 この天皇は、木の國の造のアラカハトベの女のトホツアユメマクハシ姫と結婚してお生みになつた御子はトヨキイリ彦の命とトヨスキイリ姫の 命お二方です。また尾張の連の祖先のオホアマ姫と結婚してお生みになつた御子は、オホイリキの命・ヤサカノイリ彦の命・ヌナキノイリ姫の 命・トホチノイリ姫の命のお四方です。また大彦おおびこの命の女のミマツ姫の命と結婚してお生みになつた御子はイクメイリ彦イサチの命・ イザノマワカの命・クニカタ姫の命・チヂツクヤマト姫の命・イガ姫の命・ヤマト彦の命のお六方です。この天皇の御子たちは合わせて十二王 おいでになりました。男王七人女王五人です。そのうちイクメイリ彦イサチの命は天下をお治めなさいました。次にトヨキイリ彦の命は、上毛 野かみつけの・下毛野の君等の祖先です。妹のトヨスキ姫の命は伊勢の大神宮をお祭りになりました。次にオホイリキの命は能登の臣の祖先で す。次にヤマト彦の命は、この王の時に始めて陵墓に人の垣を立てました。 美和の大物主 ――三輪山説話として神婚説話の典型的な一つで神みわ氏、鴨氏等の祖先の物語。―― この天皇の御世に、流行病が盛んに起つて、人民がほとんど盡きようとしました。ここに天皇は、御憂慮遊ばされて、神を祭つてお寢やすみに なつた晩に、オホモノヌシの大神が御夢に顯れて仰せになるには、「かように病氣がはやるのはわたしの心である。これはオホタタネコをもつ てわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起らずに國も平和になるだろう」と仰せられました。そこで急使を四方に出してオホタタネコとい う人を求めた時に、河内の國のミノの村でその人を探し出して奉りました。そこで天皇は「お前は誰の子であるか」とお尋ねになりましたから 答えて言いますには「オホモノヌシの神がスヱツミミの命の女のイクタマヨリ姫と結婚して生んだ子はクシミカタの命です。その子がイヒカタ スミの命、その子がタケミカヅチの命、その子がわたくしオホタタネコでございます」と申しました。そこで天皇が非常にお歡よろこびになつ て仰せられるには、「天下が平ぎ人民が榮えるであろう」と仰せられて、このオホタタネコを神主かんぬしとしてミモロ山でオホモノヌシの神 をお祭り申し上げました。イカガシコヲの命に命じて祭に使う皿を澤山作り、天地の神々の社をお定め申しました。また宇陀うだの墨坂すみさ かの神に赤い色の楯たて矛ほこを獻り、大坂の神に墨の色の楯矛を獻り、また坂の上の神や河の瀬の神に至るまでに悉く殘るところなく幣帛へ いはくを獻りました。これによつて疫病えきびようが止んで國家が平安になりました。 このオホタタネコを神の子と知つた次第は、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿かたち威儀いぎ竝ならびなき 一人の男が夜中にたちまち來ました。そこで互に愛めでて結婚して住んでいるうちに、何程もないのにその孃子おとめが姙はらみました。そこ で父母が姙娠にんしんしたことを怪しんで、その女に、「お前は自然しぜんに姙娠にんしんした。夫が無いのにどうして姙娠したのか」と尋ね ましたから、答えて言うには「名も知らないりつぱな男が夜毎に來て住むほどに、自然しぜんに姙はらみました」と言いました。そこでその父 母が、その人を知りたいと思つて、その女に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻絲を針に貫いてその着物きものの裾に刺せ」と教 えました。依つて教えた通りにして、朝になつて見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴かぎあなから貫け通つて、殘つた麻はただ三輪だけでした。 そこで鉤穴から出たことを知つて絲をたよりに尋ねて行きましたら、三輪山に行つて神の社に留まりました。そこで神の御子であるとは知つた のです。その麻の三輪殘つたのによつて其處を三輪と言うのです。このオホタタネコの命は、神みわの君・鴨の君の祖先です。 四道將軍の派遣 またこの御世に大彦の命をば越こしの道に遣し、その子のタケヌナカハワケの命を東方の諸國に遣して從わない人々を平定せしめ、またヒコイ マスの王を丹波の國に遣してクガミミのミカサという人を討たしめました。その大彦の命が越の國においでになる時に、裳もを穿はいた女が山 城やましろのヘラ坂に立つて歌つて言うには、 御眞木入日子さまは、 御自分の命を人知れず殺そうと、 背後うしろの入口から行き違ちがい 前の入口から行き違い 窺のぞいているのも知らないで、 御眞木入日子さまは。 と歌いました。そこで大彦の命が怪しいことを言うと思つて、馬を返してその孃子に、「あなたの言うことはどういうことですか」と尋ねまし たら、「わたくしは何も申しません。ただ歌を歌つただけです」と答えて、行く方も見せずに消えてしまいました。依つて大彦の命は更に還つ て天皇に申し上げた時に、仰せられるには、「これは思うに、山城の國に赴任した武埴安彦命(タケハニヤス)の王が惡い心を起したしるしで ありましよう。伯父上、軍を興して行つていらつしやい」と仰せになつて、丸邇わにの臣の祖先のヒコクニブクの命を副えてお遣しになりまし た、その時に丸邇坂わにさかに清淨な瓶を据えてお祭をして行きました。 さて山城のワカラ河に行きました時に、果してタケハニヤスの王が軍を興して待つており互に河を挾んで對むかい立つて挑いどみ合いました。 それで其處の名をイドミというのです。今ではイヅミと言つております。ここにヒコクニブクの命が「まず、そちらから清め矢を放て」と言い ますと、タケハニヤスの王が射ましたけれども、中あてることができませんでした。しかるにヒコクニブクの命の放つた矢はタケハニヤスの王 に射中いあてて死にましたので、その軍が悉く破れて逃げ散りました。依つて逃げる軍を追い攻めて、クスバの渡しに行きました時に、皆攻め 苦しめられたので屎くそが出て褌はかまにかかりました。そこで其處の名をクソバカマというのですが、今はクスバと言つております。またそ の逃げる軍を待ち受けて斬りましたから、鵜うのように河に浮きました。依つてその河を鵜河うがわといいます。またその兵士を斬り屠ほおり ましたから、其處の名をハフリゾノといいます。かように平定し終つて、朝廷に參つて御返事申し上げました。 かくて大彦の命は前の命令通りに越の國にまいりました。ここに東の方から遣わされたタケヌナカハワケの命は、その父の大彦の命と會津あい ずで行き遇いましたから、其處を會津あいずというのです。ここにおいて、それぞれに遣わされた國の政を終えて御返事申し上げました。かく して天下が平かになり、人民は富み榮えました。ここにはじめて男の弓矢で得た獲物や女の手藝の品々を貢たてまつらしめました。そこでその 御世を讚たたえて初めての國をお治めになつたミマキの天皇と申し上げます。またこの御世に依網よさみの池を作り、また輕かるの酒折さかお りの池を作りました。天皇は御年百六十八歳、戊寅つちのえとらの年の十二月にお隱れになりました。御陵は山の邊の道の勾まがりの岡の上に あります。 |
2019/10/28 10:38:33
景行天皇は、日本の第12代天皇。日本武尊の父。垂仁天皇の第3皇子、母は日葉酢媛命。垂仁天皇37年1月1日に21歳で立太子。父帝が崩御した翌年に即位。
即位2年、3月3日に播磨稲日大郎姫を皇后とした。皇后との間には大碓皇子、小碓尊らを得ている。
即位4年、美濃国に行幸。八坂入媛命を妃として稚足彦尊(成務天皇)、五百城入彦皇子らを得た。
即位12年、九州に親征して熊襲・土蜘蛛を征伐。
即位27年、熊襲が再叛すると小碓尊を遣わして川上梟帥を討たせた。
即位40年、前もって武内宿禰に視察させた東国の蝦夷平定を小碓尊改め日本武尊に命じた。3年後、日本武尊が帰国中に伊勢国能褒野で逝去。
即位51年、8月4日に稚足彦尊を立太子。
即位52年、5月4日の播磨稲日大郎姫の崩御に伴い7月7日に八坂入媛命を立后。
即位53年から54年にかけて日本武尊の事績を確認するため東国巡幸。
即位58年、近江国に行幸し高穴穂宮に滞在すること3年。
即位60年、同地で崩御。
(ウィキペディアより)
古事記 中の巻-五、景行天皇 景行天皇の后妃と皇子女 オホタラシ彦オシロワケの天皇(景行天皇)、大和の纏向の日代の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、吉備きびの臣等 の祖先のワカタケキビツ彦の女の播磨はりまのイナビの大郎女と結婚してお生みになつた御子は、クシツノワケの王・オホウスの命・ヲウスの 命またの名はヤマトヲグナの命・ヤマトネコの命・カムクシの王の五王です。ヤサカノイリ彦の命の女むすめヤサカノイリ姫の命と結婚してお 生みになつた御子は、ワカタラシ彦の命・イホキノイリ彦の命・オシワケの命・イホキノイリ姫の命です。またの妾の御子は、トヨトワケの王 ・ヌナシロの郎女、またの妾の御子は、ヌナキの郎女・カグヨリ姫の命・ワカキノイリ彦の王・キビノエ彦の王・タカギ姫の命・オト姫の命で す。また日向のミハカシ姫と結婚してお生みになつた御子は、トヨクニワケの王です。またイナビの大郎女の妹、イナビの若郎女と結婚してお 生みになつた御子は、マワカの王・ヒコヒトノオホエの王です。またヤマトタケルの命の曾孫のスメイロオホナカツ彦の王の女のカグロ姫と結 婚してお生みになつた御子は、オホエの王です。すべて天皇の御子たちは、記したのは二十一王、記さないのは五十九王、合わせて八十の御子 がおいでになりました中に、ワカタラシ彦の命とヤマトタケルの命とイホキノイリ彦の命と、このお三方は、皇太子と申す御名を負われ、他の 七十七王は悉く諸國の國の造・別・稻置・縣主等としてお分け遊ばされました。そこでワカタラシ彦の命は天下をお治めなさいました。ヲウス の命は東西の亂暴な神、また服從しない人たちを平定遊ばされました。次にクシツノワケの王は、茨田の下の連等の祖先です。次にオホウスの 命は、守の君・太田の君・島田の君の祖先です。次にカムクシの王は木の國の酒部の阿比古・宇陀の酒部の祖先です。次にトヨクニワケの王は 日向の國の造の祖先です。 ここに天皇は、三野の國の造の祖先のオホネの王の女の兄姫、弟姫の二人の孃子が美しいということをお聞きになつて、その御子のオホウスの 命を遣わして、お召しになりました。しかるにその遣わされたオホウスの命が召しあげないで、自分がその二人の孃子と結婚して、更に別の女 を求めて、その孃子だと僞つて獻りました。そこで天皇は、それが別の女であることをお知りになつて、いつも見守らせるだけで、結婚をしな いで苦しめられました。それでそのオホウスの命が兄姫と結婚して生んだ子がオシクロのエ彦の王で、これは三野の宇泥須うねすの別の祖先で す。また弟姫と結婚して生んだ子は、オシクロのオト彦の王で、これは牟宜都むげつの君等の祖先です。この御世に田部をお定めになり、また 東國の安房の水門をお定めになり、また膳(かしわで)の大伴部をお定めになり、また大和の役所をお定めになり、また坂手の池を作つてその 堤に竹を植えさせなさいました。 ヤマトタケルの命の西征 ――英雄ヤマトタケルの命の物語ははじまる。―― 天皇がヲウスの命に仰せられるには「お前の兄はどうして朝夕の御食事に出て來ないのだ。お前が引き受けて教え申せ」と仰せられました。 かように仰せられて五日たつてもやはり出て來ませんでした。そこで、天皇がヲウスの命にお尋ねになるには「どうしてお前の兄が永い間出て 來ないのだ。もしやまだ教えないのか」とお尋ねになつたので、お答えしていうには「もう教えました」と申しました。また「どのように教え たのか」と仰せられましたので、お答えして「朝早く厠におはいりになつた時に、待つていてつかまえてつかみひしいで、手足を折つて薦につ つんで投げすてました」と申しました。 そこで天皇は、その御子の亂暴な心を恐れて仰せられるには「西の方にクマソタケル二人がある。これが服從しない無禮の人たちだ。だからそ の人たちを殺せ」と仰せられました。この時に、その御髮を額で結つておいでになりました。そこでヲウスの命は、叔母樣のヤマト姫の命のお 衣裳をいただき、劒を懷にいれておいでになりました。そこでクマソタケルの家に行つて御覽になりますと、その家のあたりに、軍隊が三重に 圍んで守り、室を作つて居ました。そこで新築の祝をしようと言い騷いで、食物を準備しました。依つてその近所を歩いて宴會をする日を待つ ておいでになりました。いよいよ宴會の日になつて、結つておいでになる髮を孃子の髮のようにけずり下げ、叔母樣のお衣裳をお著つけになつ て孃子の姿になつて女どもの中にまじり立つて、その室の中におはいりになりました。ここにクマソタケルの兄弟二人が、その孃子を見て感心 して、自分たちの中にいさせて盛んに遊んでおりました。その宴の盛んになつた時に、命は懷から劒を出し、クマソタケルの衣の襟を取つて劒 をもつてその胸からお刺し通し遊ばされる時に、その弟のタケルが見て畏れて逃げ出しました。そこでその室の階段のもとに追つて行つて、背 の皮をつかんでうしろから劒で刺し通しました。ここにそのクマソタケルが申しますには、「そのお刀をお動かし遊ばしますな。申し上げるこ とがございます」と言いました。そこでしばらく押し伏せておいでになりました。「あなた樣さまはどなたでいらつしやいますか」と申しまし たから、「わたしは纏向の日代の宮においで遊ばされて天下をお治めなされるオホタラシ彦オシロワケの天皇の御子のヤマトヲグナの王という 者だ。お前たちクマソタケル二人が服從しないで無禮だとお聞きなされて、征伐せよと仰せになつて、お遣わしになつたのだ」と仰せられまし た。そこでそのクマソタケルが、「ほんとうにそうでございましよう。西の方に我々二人を除いては武勇の人間はありません。しかるに大和の 國には我々にまさつた強い方がおいでになつたのです。それではお名前を獻上致しましよう。今からはヤマトタケルの御子と申されるがよい」 と申しました。かように申し終つて、熟した瓜を裂くように裂き殺しておしまいになりました。その時からお名前をヤマトタケルの命と申し上 げるのです。そうして還つておいでになつた時に、山の神・河の神、また海峽の神を皆平定して都にお上りになりました。 イヅモタケル そこで出雲の國におはいりになつて、そのイヅモタケルを撃うとうとお思いになつて、おいでになつて、交りをお結びになりました。まずひそ かに赤檮(いちい)のきで刀の形を作つてこれをお佩びになり、イヅモタケルとともに肥ひの河に水浴をなさいました。そこでヤマトタケルの 命が河からまずお上りになつて、イヅモタケルが解いておいた大刀をお佩きになつて、「大刀を換かえよう」と仰せられました。そこで後から イヅモタケルが河から上つて、ヤマトタケルの命の大刀を佩きました。ここでヤマトタケルの命が、「さあ大刀を合わせよう」と挑まれました ので、おのおの大刀を拔く時に、イヅモタケルは大刀を拔き得ず、ヤマトタケルの命は大刀を拔いてイヅモタケルを打ち殺されました。 そこでお詠みになつた歌、 雲の叢らがり立つ出雲のタケルが腰にした大刀は、 蔓を澤山卷いて刀の身が無くて、きのどくだ。 かように平定して、朝廷に還つて御返事申し上げました。 ヤマトタケルの命の東征 ここに天皇は、また續いてヤマトタケルの命に、「東の方の諸國の惡い神や從わない人たちを平定せよ」と仰せになつて、吉備の臣等の祖先の ミスキトモミミタケ彦という人を副えてお遣わしになつた時に、柊の長い矛を賜わりました。依つて御命令を受けておいでになつた時に、伊勢 の神宮に參拜して、其處に奉仕しておいでになつた叔母樣のヤマト姫の命に申されるには、「父上はわたくしを死ねと思つていらつしやるので しようか、どうして西の方の從わない人たちを征伐にお遣わしになつて、還つてまいりましてまだ間も無いのに、軍卒も下さらないで、更に東 方諸國の惡い人たちを征伐するためにお遣わしになるのでしよう。こういうことによつて思えば、やはりわたくしを早く死ねと思つておいでに なるのです」と申して、心憂く思つて泣いてお出ましになる時に、ヤマト姫の命が、草薙の劒をお授けになり、また嚢をお授けになつて、 「もし急の事があつたなら、この嚢の口をおあけなさい」と仰せられました。 かくて尾張の國においでになつて、尾張の國の造の祖先のミヤズ姫の家へおはいりになりました。そこで結婚なされようとお思いになりました けれども、また還つて來た時にしようとお思いになつて、約束をなさつて東の國においでになつて、山や河の亂暴な神たちまたは從わない人た ちを悉く平定遊ばされました。ここに相摸の國においで遊ばされた時に、その國の造が詐つて言いますには、「この野の中に大きな沼がありま す。その沼の中に住んでいる神はひどく亂暴な神です」と申しました。依つてその神を御覽になりに、その野においでになりましたら、國の造 が野に火をつけました。そこで欺かれたとお知りになつて、叔母樣のヤマト姫の命のお授けになつた嚢の口を解いてあけて御覽になりましたと ころ、その中に火打がありました。そこでまず御刀をもつて草を苅り撥い、その火打をもつて火を打ち出して、こちらからも火をつけて燒き退 けて還つておいでになる時に、その國の造どもを皆切り滅し、火をつけてお燒きなさいました。そこで今でも燒津やいずといつております。 其處からおいでになつて、走水の海をお渡りになつた時にその渡りの神が波を立てて御船がただよつて進むことができませんでした。その時に お妃のオトタチバナ姫の命が申されますには、「わたくしが御子に代つて海にはいりましよう。御子は命ぜられた任務をはたして御返事を申し 上げ遊ばせ」と申して海におはいりになろうとする時に、スゲの疊八枚、皮の疊八枚、絹の疊八枚を波の上に敷いて、その上におおり遊ばされ ました。そこでその荒い波が自然に凪で、御船が進むことができました。そこでその妃のお歌いになつた歌は、 高い山の立つ相摸さがみの國の野原で、 燃え立つ火の、その火の中に立つて わたくしをお尋ねになつたわが君。 かくして七日過ぎての後に、そのお妃のお櫛が海濱に寄りました。その櫛を取つて、御墓を作つて收めておきました。 それからはいつておいでになつて、悉く惡い蝦夷どもを平らげ、また山河の惡い神たちを平定して、還つてお上りになる時に、足柄の坂本に到 つて食物をおあがりになる時に、その坂の神が白い鹿になつて參りました。そこで召し上り殘りのヒルの片端をもつてお打ちになりましたとこ ろ、その目にあたつて打ち殺されました。かくてその坂にお登りになつて非常にお歎きになつて、「わたしの妻はなあ」と仰せられました。 それからこの國を吾妻とはいうのです。 その國から越えて甲斐に出て、酒折の宮においでになつた時に、お歌いなされるには、 常陸の新治にいはり・筑波つくばを過すぎて幾夜いくよ寢ねたか。 ここにその火ひを燒たいている老人が續いて、 日數ひかず重かさねて、夜よは九夜ここのよで日ひは十日とおかでございます。 と歌いました。そこでその老人を譽めて、吾妻あずまの國の造になさいました。 かくてその國から信濃の國にお越えになつて、そこで信濃の坂の神を平らげ、尾張の國に還つておいでになつて、先に約束しておかれたミヤズ 姫のもとにおはいりになりました。ここで御馳走を獻る時に、ミヤズ姫がお酒盃を捧げて獻りました。しかるにミヤズ姫の打掛の裾に月の物が ついておりました。それを御覽になつてお詠み遊ばされた歌は、 仰あおぎ見る天あめの香具山かぐやま 鋭するどい鎌のように横ぎる白鳥はくちよう。 そのようなたおやかな弱腕よわうでを 抱だこうとはわたしはするが、 寢ねようとはわたしは思うが、 あなたの著きている打掛うちかけの裾に 月つきが出ているよ。 そこでミヤズ姫が、お歌にお答えしてお歌いなさいました。 照り輝く日のような御子みこ樣 御威光すぐれたわたしの大君樣。 新しい年が來て過ぎて行けば、 新しい月は來て過ぎて行きます。 ほんとうにまああなた樣をお待ちいたしかねて わたくしのきております打掛の裾に 月も出るでございましようよ。 そこで御結婚遊ばされて、その佩びておいでになつた草薙の劒をミヤズ姫のもとに置いて、イブキの山の神を撃ちにおいでになりました。 望郷の歌 ――クニシノヒ歌の歌曲を中心として、英雄の悲壯な最後を語る。―― そこで「この山の神は空手で取つて見せる」と仰せになつて、その山にお登りになつた時に、山のほとりで白い猪に逢あいました。その大きさ は牛ほどもありました。そこで大言して、「この白い猪になつたものは神の從者だろう。今殺さないでも還る時に殺して還ろう」と仰せられて お登りになりました。そこで山の神が大氷雨を降らしてヤマトタケルの命を打ち惑わしました。この白い猪に化けたものは、この神の從者では なくして、正體であつたのですが、命が大言されたので惑わされたのです。かくて還つておいでになつて、玉倉部の清水に到つてお休みになつ た時に、御心がややすこしお寤さめになりました。そこでその清水を居寤いさめの清水と言うのです。 其處からお立ちになつて當藝の野の上においでになつた時に仰せられますには、「わたしの心はいつも空を飛んで行くと思つていたが、今は歩 くことができなくなつて、足がぎくぎくする」と仰せられました。依つて其處を當藝といいます。其處からなお少しおいでになりますのに、非 常にお疲れなさいましたので、杖をおつきになつてゆるゆるとお歩きになりました。そこでその地を杖衝坂といいます。尾津の埼の一本松のも とにおいでになりましたところ、先に食事をなさつた時に其處にお忘れになつた大刀が無くならないでありました。 そこでお詠み遊ばされたお歌、 尾張の國に眞直まつすぐに向かつている 尾津の埼の 一本松よ。お前。 一本松が人だつたら 大刀を佩はかせようもの、着物を著せようもの、 一本松よ。お前。 其處からおいでになつて、三重の村においでになつた時に、また「わたしの足は、三重に曲つた餅のようになつて非常に疲れた」と仰せられま した。そこでその地を三重といいます。 其處からおいでになつて、能煩野(のぼの)に行かれました時に、故郷をお思いになつてお歌いになりましたお歌、 大和は國の中の國だ。 重かさなり合つている青い垣、 山に圍まれている大和は美しいなあ。 命が無事だつた人は、 大和の國の平群の山の りつぱなカシの木の葉を 頭插(かんざし)にお插しなさい。お前たち。 とお歌いになりました。この歌は思國歌(くにしのびうた)という名の歌です。またお歌い遊ばされました。 なつかしのわが家やの方ほうから雲が立ち昇つて來るわい。 これは片歌でございます。この時に、御病氣が非常に重くなりました。そこで、御歌を、 孃子おとめの床とこのほとりに わたしの置いて來た良よく切れる大刀たち、 あの大刀たちはなあ。 と歌い終つて、お隱れになりました。そこで急使を上せて朝廷に申し上げました。 白鳥の陵 ――大葬に歌われる歌曲を中心としている。白鳥には、神靈を感じている。―― ここに大和においでになるお妃たちまた御子たちが皆下つておいでになつて、御墓を作つてそのほとりを廻つてお泣きになつてお歌いになりま した。 周まわりの田の稻の莖くきに、 稻の莖に、 這い繞めぐつているツルイモの蔓つるです。 しかるに其處から大きな白鳥になつて天に飛んで、濱に向いて飛んでおいでになりましたから、そのお妃たちや御子たちは、其處の篠竹の苅株 に御足が切り破れるけれども、痛いのも忘れて泣く泣く追つておいでになりました。その時の御歌は、 小篠こざさが原を行き惱なやむ、 空中からは行かずに、歩あるいて行くのです。 また、海水にはいつて、海水の中を骨を折つておいでになつた時の御歌、 海うみの方ほうから行ゆけば行き惱なやむ。 大河原おおかはらの草のように、 海や河かわをさまよい行く。 また飛んで、其處の磯においで遊ばされた時の御歌、 濱の千鳥、濱からは行かずに磯傳いをする。 この四首の歌は皆そのお葬式に歌いました。それで今でもその歌は天皇の御葬式に歌うのです。そこでその國から飛び翔たつておいでになつて 河内の志幾にお留まりなさいました。そこで其處に御墓を作つて、お鎭まり遊ばされました。しかしながら、また其處から更に空を飛んでおい でになりました。すべてこのヤマトタケルの命が諸國を平定するために廻つておいでになつた時に、久米の直の祖先のナナツカハギという者が いつもお料理人としてお仕え申しました。 ヤマトタケルの命の系譜 このヤマトタケルの命が、垂仁天皇の女、フタヂノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、タラシナカツ彦の命お一方です。またかの海 におはいりになつたオトタチバナ姫の命と結婚してお生みになつた御子はワカタケルの王お一方です。また近江のヤスの國の造の祖先のオホタ ムワケの女のフタヂ姫と結婚してお生みになつた御子はイナヨリワケの王お一方です。また吉備の臣タケ彦の妹の大吉備のタケ姫と結婚してお 生みになつた御子は、タケカヒコの王お一方です。また山代のククマモリ姫と結婚してお生みになつた御子はアシカガミワケの王お一方です。 またある妻の子は、オキナガタワケの王です。すべてこのヤマトタケルの命の御子たちは合わせて六人ありました。 それでタラシナカツ彦の命(仲哀天皇)は天下をお治めなさいました。次にイナヨリワケの王は、犬上の君・建部の君等の祖先です。次にタケ カヒコの王は、讚岐の綾の君・伊勢の別・登袁の別・麻佐の首おびと・宮の首の別等の祖先です。アシカガミワケの王は、鎌倉の別・小津の石 代の別・漁田(すなきだ)の別の祖先です。次にオキナガタワケの王の子、クヒマタナガ彦の王、この王の子、イヒノノマクロ姫の命・オキナ ガマワカナカツ姫・弟姫のお三方です。そこで上に出たワカタケルの王が、イヒノノマクロ姫と結婚して生んだ子はスメイロオホナカツ彦の王 、この王が、近江のシバノイリキの女のシバノ姫と結婚して生んだ子はカグロ姫の命です。オホタラシ彦の天皇がこのカグロ姫の命と結婚して お生みになつた御子はオホエの王のお一方です。この王が庶妹シロガネの王と結婚して生んだ子はオホナガタの王とオホナカツ姫のお二方です。 そこでこのオホナカツ姫の命は、カゴサカの王・オシクマの王の母君です。 このオホタラシ彦の天皇の御年百三十七歳、御陵は山の邊の道の上にあります。 |
2019/10/28 10:40:24
2019/10/28 11:10:00
古墳時代前期初頭の纒向型前方後円墳ともいわれるホタテ貝型の前方後円墳である。全長約80m、後円部径約55m 3段築成。前方部長約25m、後円部高さ約8.5m、前方部高さ約m。周濠幅約10.5~17m。 2006年(平成14年)1月26日、纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定された。
2019/10/28 11:11:44
ぜひこれを撮って行って… と話しかけられた
100年前 母親がこの籠に乗って嫁いできたとのこと
ホケノ山古墳発掘にも立ち会った 昔区長をしていた元気な90歳
2019/10/28 11:30:05
宮内庁により「大市墓」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されている。
現状での規模は墳長およそ278m、後円部は径約150m、高さ約30mで、前方部は前面幅約130m、高さ約16mを測る。周辺地域の調査結果から、本来はもう一回り大きかった可能性もある。
纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられている前方後円墳。
この古墳を、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王、「卑弥呼」の墓とする説もある。(ウィキペディアより)
2019/10/28 11:39:11
2019/10/28 12:12:57
大神神社は纒向・磐余一帯に勢力を持った出雲ノ神の一族が崇敬し、磐座祭祀が営まれたとされる日本でも古い神社の一つで、神奈備信仰様式をとった神聖な信仰の場であったと考えられる。大穴持命が国譲りの時に、己の和魂を八咫鏡に取り付けて、倭ノ大物主櫛甕玉命と名を称えて大御和の神奈備に鎮座した。これが三輪神社の創始である。
大神神社は三輪山を神体山としているため本殿をもたない。(ウィキペディアより)
2019/10/28 12:44:31