開始日時 | 2019/10/22 09:57:36 | 終了日時 | 2019/10/22 13:43:08 |
水平距離 | 13.29km | 沿面距離 | 13.41km |
経過時間 | 3時間45分32秒 | 移動時間 | 3時間23分08秒 |
徒歩距離 | 13.1km | 徒歩合計 | 22,400歩 |
全体平均速度 | 3.57km/h | 移動平均速度 | 3.92km/h |
最高高度 | 182m | 最低高度 | 83m |
【コース】
近鉄大和朝倉駅 ⇒ 玉津島明神 ⇒ 舒明天皇陵 ⇒ 鏡女王忍阪墓 ⇒ 神籠石 ⇒ 倉橋溜池 ⇒ 崇峻天皇陵
⇒ 聖林寺 ⇒ 等彌神社・神武天皇聖跡顕彰碑 ⇒ JR桜井駅
※ 古事記に関連ある場所では、その記載箇所を現代語訳で表示。 ([古事記]は、あおぞら文庫より武田祐吉訳を拝借して一部変更。又、竹田恒泰著:現代語古事記を参考) (第34代舒明天皇~41代持統天皇までの天皇は、日本書紀の現代語訳を「擅恣企画」のサイトを参考)
2019/10/22 09:58:29
2019/10/22 10:37:32
2019/10/22 10:43:53
この地は忍阪字生谷(いくだに)の地名で、衣通姫(そとおりひめ)の誕生地という伝承が残っています。祠の横には衣通姫が産湯を使ったという、産湯の井戸の石枠組が残されています。
衣通姫は、記紀に伝承される女性。衣通郎姫・衣通郎女・衣通王とも。大変に美しい女性であり、その美しさが衣を通して輝くことからこの名の由来となっている。小野小町・藤原道綱母と並んで、本朝三美人に数えられる。
『古事記』では允恭天皇と皇后で当地ゆかりの忍坂大中姫の第五皇女で、同母を持つ木梨軽皇子と情を通じたことで、兄は失脚して伊予に流され、衣通姫も兄の後を追い共に命を絶ってしまうという、悲しい物語が残されています。
和歌に優れていたとされ、和歌三神(住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂)の一柱としても数えられる。
万葉集には衣通王(そとおりのおおきみ)とあり、兄が伊予に流された時、恋慕に堪へず、追い往く時に歌った衣通王の歌が一首残されています。
君が行き 日長くなりぬ やまたづの 迎へに 行かむ 待つには待たじ
和歌山県和歌山市にある玉津島神社に稚日女尊、神功皇后と共に合祀されている。(一部ウィキペディアより)
2019/10/22 10:45:40
2019/10/22 10:50:05
日本書紀(大きな事件を要約) 日本書紀巻23/舒明天皇 息長足日広額天皇(舒明天皇)は渟中倉太珠敷天皇(敏達天皇)の孫で、彦人大兄皇子の子です。母は糠手姫皇女といいます。豊御食炊屋姫天皇(推古天皇) の即位29年。皇太子の豊聡耳尊(聖徳太子)が亡くなりました。しかし、未だに皇太子を立てていませんでした。 即位36年の3月に推古天皇は崩御しました。 即位以前 秦大津父を探せと夢にお告げがあるので探すと、山背国の紀郡の深草里で見つかる。秦大津父が言うには「山で狼が噛みつき血で濡れているのを洗 ってやった。すると狼に襲われなかった」と答えた。秦大津父は大蔵省に任命された。 宣化天皇即位4年10月 宣化天皇が崩御。春日山田皇女(安閑天皇の皇后)に執務を譲るが、さらに譲られた。 宣化天皇即位4年12月 結局、欽明天皇が即位。 欽明天皇即位1年1月 役人に皇后を立ててくれと請願される。石姫(=宣化天皇の娘)を皇后に。 即位12年春2月7日。星が月に入りました。 即位15年1月 渟中倉太珠敷尊(のちの敏達天皇)を皇太子に。 夏4月16日。天皇は伊予から帰りました。廐坂宮に居ます。 5月5日。大いに設斎しました。恵隠僧に請願して、無量寿経を説かせました。 冬10月11日。大唐の学問僧の清安、学生の高向漢人玄理、新羅を通じて到着しました。なお、百済・新羅の朝貢の使者も従ってきました。それぞれに爵を1級 与えました。 この月に百済宮に移りました。 即位32年4月 欽明天皇が病気になり、「新羅の征伐」と「任那の再建」を遺言として残した。天皇は百済宮で崩御しました。18日。宮の北で殯をしました。 これを百済の大殯と言います。この時、東宮開別皇子(のちの天智天皇)は年齢16歳で誄をしました。 |
2019/10/22 10:55:12
2019/10/22 10:55:55
鏡女王墓(かがみのひめみこのはか) 平安時代に出来た「延喜諸陵式」によると『鏡女王・押坂墓』と記載され、大和国城上郡 押坂陵域内東南にあるとなつていますが、いまひとつ押坂陵である舒明天皇との関係が明 確でなく埋葬施設も未調査で築造年代を特定する村料がないのです。 しかし、この場所は忍坂山(外鎌山)の南斜面の小さな支尾根の突端に作られており風水 思想に基づいた終末期古墳の特徴をそなえています。また、この忍坂の地は古くから王権 とのつながりが深く鏡女王の墓があつてもなんら違和感のないところであり' この古墳の 雰囲気がつつましやかな鏡女王に相応しく今日も静かにここ「奥の谷」に眠っておられま す。 鏡女王は、近江国野洲郡鏡里の豪族・鏡王の娘で、万葉歌人として有名な額田王の姉にあ たるとされ、二人とも天智天皇に召されていましたが、鏡王女は、のちに藤原嫌足の正室 となられました。奈良・興福寺の起源となる山階寺(やましなじ)は、藤原嫌足が病気の とき、鏡女王によって建立されたと伝えられています。 鏡王女の記録が少ない中で、「日本書紀」によれば、天武12年(683年)7月4日、天武天 皇は鏡王女の宮へ行き、見舞ったが、彼女はその翌日に亡くなったと記されています。 墓は、かつて幹を高く伸ばした松の木が十数本植わっていて、写真家・入江泰吉氏もこの 風景を「写真集・やまと余情」などに残されています。今は、杉と檜の木立の中に八重桜 が春の日を浴びて明るい雰囲気を演出しています。 宮内庁管理でなく談山神社の関係者によって維持されていた記録もあり今も、談山神社の 管理下で忍阪区の生根会(老人会)が、下草刈りの奉仕作業を行っています。 ------------------- 鏡王女は、はじめ天武天皇の妃で、後に藤原鎌足の正室となった関係で、談山神社とのつ ながりが強く、かって談山会(消滅)の建てた看板がありますが、今は民有地で忍阪区の 老人会が中心となって維持管理されています。古墳としての詳細は不明ですが奈良県教育 委員会発行の「奈良県遺跡地図」には鏡皇女陵円墳、径15mとだけ記されています。平安 時代前期に編纂された「延喜諸陵式」に舒明天皇の領域内にあると記録されていますが舒 明天皇との関係は明確ではありません。
2019/10/22 11:07:21
通称:ちご石
『天照大御神の子孫の神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が九州の高千穂から安芸、吉備を経て、大坂に着きここで長髄彦に大苦戦をし、熊野から宇陀を経て忍坂に攻めて、この地にいた八十梟師を討つとき、石垣をめぐらし神籠石に匿れ楯とし勝利した』との伝説の大石です。 『神籠石』の横に、まだ火の見櫓が置かれていなかったとき、この辺りでは、むかし男の子が素手で正面からこの巨石に登り、一畳敷きの石の上で大の字になれば一人前の男子の証といわれました。登りはよいが降りるにはかなりの勇気がいったようです。 火の見やぐらと半鐘は、1960年頃に生根神社境内より移設されたものです。今では打ち鳴らすこともなく、モニュメントの一つになっています。
2019/10/22 11:20:47
2019/10/22 11:45:55
奈良県内では最大の灌漑面積のため池
2019/10/22 12:11:55
諱は泊瀬部(はつせべ)。『古事記』には長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)とある。漢風諡号の「崇峻天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる。
大臣の蘇我馬子によって推薦され即位した。一方大連の物部守屋は、同母兄の穴穂部皇子を即位させようとはかるが、穴穂部皇子は蘇我馬子によって殺害されてしまう。その後、蘇我馬子は、物部守屋を滅ぼし、これ以降物部氏は没落してしまう。
物部氏の没落によって欽明天皇以来の崇仏廃仏論争に決着が付き、法興寺(飛鳥寺)の造寺事業が行われた。しかし、即位したあとでも政治の実権は常に馬子が握っており、次第に不満を感じるようになった。
蘇我馬子は「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。そして東国の調を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢駒に暗殺をさせた。臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である。
【系譜】
欽明天皇の第12皇子。母は蘇我稲目の女・小姉君で、敏達天皇、用明天皇、推古天皇の異母弟にあたる。(ウィキペディアより)
古事記 下の巻-七 崇峻天皇 弟のハツセベノワカサザキの天皇(崇峻天皇)、大和の倉椅の柴垣の宮においでになつて、四年天下をお治めなさいました。 壬子の年の十一月十三日にお隱れなさいました。御陵は倉椅の岡の上にあります。 |
2019/10/22 12:37:55
国宝木心乾漆十一面観音立像。アーネスト・フェノロサが激賞したことで知られるようになった。
2019/10/22 13:17:08
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
神武天皇聖蹟鳥見山中霊畤顕彰碑 等彌神社境内に有ります。 【令和の大嘗祭】 ![]() ![]() |
2019/10/22 13:42:58