開始日時 | 2019/07/12 09:51:56 | 終了日時 | 2019/07/12 14:27:22 |
水平距離 | 13.47km | 沿面距離 | 13.59km |
経過時間 | 4時間35分26秒 | 移動時間 | 3時間51分41秒 |
徒歩距離 | 18.99km | 徒歩合計 | 26,700歩 |
全体平均速度 | 2.96km/h | 移動平均速度 | 3.46km/h |
最高高度 | 156m | 最低高度 | 70m |
※ 古事記に関連ある場所では、その記載箇所を現代語訳で表示。 ([古事記]は、あおぞら文庫より武田祐吉訳を拝借して一部変更。又、竹田恒泰著:現代語古事記を参考) (第34代~40代までの天皇は、日本書紀の現代語訳を「擅恣企画」のサイトを参考)
2019/07/12 09:57:52
2019/07/12 10:05:17
鴨都波神社(かもつばじんじゃ)は、奈良県御所市にある神社である。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。高鴨神社(上鴨社)・葛木御歳神社(中鴨社)に対して「下鴨社」と称される。
【祭神】
積羽八重事代主命と下照姫命を主祭神とし、建御名方命を配祀する。葛城氏・鴨氏によって祀られた神社で、高鴨神社(高鴨社)・葛城御歳神社(中鴨社)に対して「下鴨社」とも呼ばれる。事代主神は元々は鴨族が信仰していた神であり、当社が事代主神の信仰の本源である。大神神社(奈良県桜井市)に祀られる大物主の子に当たることから、「大神神社の別宮」とも称される。
【歴史】
社伝によれば、崇神天皇の時代、勅命により太田田根子の孫の大賀茂都美命が創建した。一帯は「鴨都波遺跡」という遺跡で、弥生時代の土器や農具が多数出土しており、古くから鴨族がこの地に住みついて農耕をしていたことがわかる。
延喜式神名帳では「鴨都波八重事代主命神社 二座」と記載され、名神大社に列している。延喜式巻三「臨時祭」では「鴨神社 二座」と記されている。
大正10年(1927年)に県社に列格した。(ウィキペディアより)
2019/07/12 10:19:56
孝昭天皇(こうしょうてんのう、懿徳天皇5年 - 孝昭天皇83年8月5日)は、日本の第5代天皇(在位:孝昭天皇元年1月9日 - 孝昭天皇83年8月5日)。欠史八代の一人で実在性に乏しい。
【略歴】
懿徳天皇の皇子。母は息石耳命の娘の天豊津媛命(『日本書紀』)。兄弟として、同母弟に武石彦奇友背命(多芸志比古命)がいる。父帝が崩御した翌々年の1月に即位。同年7月、掖上池心宮(わきがみのいけごころのみや)に都を移す。即位29年、尾張連祖の瀛津世襲の妹の世襲足媛を皇后として天足彦国押人命、日本足彦国押人尊(後の孝安天皇)を得た。即位83年、崩御。
【陵・霊廟】
陵(みささぎ)の名は掖上博多山上陵(わきのかみのはかたのやまのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県御所市大字三室にある俗称「博多山」に治定されている(位置)[6][7][8]。宮内庁上の形式は山形。
陵について『日本書紀』では前述のように「掖上博多山上陵」、『古事記』では「掖上博多山上」の所在とある。一方『先代旧事本紀』では崩御の翌年に葬ったと見え、崩御38年後に葬ったとする『日本書紀』の記録と相違することから、後者を改葬と見る説もある[8]。『延喜式』諸陵寮では「掖上博多山上陵」の名称で大和国葛上郡にあるとし、兆域は東西6町・南北6町、守戸5烟で遠陵としている[8]。しかし後世に所伝は失われ、元禄の探陵で現陵に治定された[8]。陵近くには孝昭天皇の霊を祀る孝昭天皇神社(孝昭宮)があるが、これは古く丘上にあったものを幕末の修補の際に現在の東側隣接地に移したものになる[8]。
また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに孝昭天皇の霊が祀られている。(ウィキペディアより)
古事記 中の巻-二、/孝昭天皇 ミマツ彦カヱシネの命(孝昭天皇)、大和の葛城の掖上わきがみの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は尾張おわりの 連の祖先のオキツヨソの妹ヨソタホ姫の命と結婚してお生みになつた御子はアメオシタラシ彦の命とオホヤマトタラシ彦クニオシビトの命と お二方です。このオホヤマトタラシ彦クニオシビトの命は天下をお治めなさいました。兄のアメオシタラシ彦の命は春日の臣・大宅おおやけ の臣・粟田の臣・小野の臣・柿本の臣・壹比韋いちひいの臣・大坂の臣・阿那の臣・多紀たきの臣・羽栗の臣・知多の臣・牟耶むざの臣・都 怒つの山の臣・伊勢の飯高の君・壹師の君・近つ淡海の國の造の祖先です。 天皇は御年九十三歳、御陵は掖上の博多はかた山の上にあります。 |
2019/07/12 10:29:58
野口神社
汁掛祭(蛇綱引き)本神社の御祭神は古く神倭伊波礼毘古命及び彦八井命の二神を御祭りされ、それは作物の収穫を掌る水の神(竜神)という御神名で葛城川岸辺に鎮めまつったことから始まる本社は、五穀豊穣を祈願される他、邪気をはらい、諸々の病を除く御守護を賜ることから多くの人々の信仰をあつめている。五月五日に汁掛祭・蛇綱引きが行われる。祭典当日3斗3升3合の味噌でワカメ汁を作り参詣者に汁をかけ厄除を作法とする。他方5月4日の午前から藁で蛇の頭を組み5日に早朝から蛇の胴を作りあげる。体長約十四メートルにも成る。汁掛作法が終わると御神体を先頭に善男善女が村中の一軒一軒蛇綱をひき廻り家々の邪気払い、病除を祈願していく。こうして巡行が終わると神社の蛇塚に蛇綱をトグロに巻き納め行事が終了し、御神体を次番の頭屋に送られ祭がおわる。この祭の由来は神社社記によると、彦八井命の後胤、茨田(ホッタ)の長者が河内の国よりこの地に住んでいた。そこに一人の娘がいた。その頃、茅原郷から葛城山に修行に日参する役の行者小角が居たが、修行の往復に村の筋街道を通るのが常であった。いつしかその娘の恋の的になったが、行者は修行一途で応じることが無く、娘は女の一念から悪息をはきながら行者を呑み込もうと村の森の中にある「穴」にかくれた。5月5日の田植時で村人が野良へ弁当をもって通りかかると、大蛇が火を吹いていた。驚いて持っていた味噌汁を大蛇にぶっかけて逃げ帰った。村人がきて見ると、大蛇が井戸の中に入ったので巨石で口をふさいだ。その後娘の供養にと汁掛祭と蛇綱ひきが行われている。
蛇穴(サラギ)区野口神社祭典委員会
2019/07/12 11:13:32
孝安天皇(こうあんてんのう、孝昭天皇49年 - 孝安天皇102年1月9日)は、日本の第6代天皇(在位:孝安天皇元年1月7日 - 孝安天皇102年1月9日)。欠史八代の一人で実在性に乏しい。
【略歴】
孝昭天皇の第二皇子。母は皇后で尾張連祖の瀛津世襲(奥津余曽)の妹の世襲足媛尊。同母兄に和珥臣祖の天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと、天押帯日子命)がいる。父帝が崩御した翌年の1月に即位。即位2年、室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)に都を移す。先帝の都からさほど離れていない。即位26年、天足彦国押人命の娘の押媛を皇后として大日本根子彦太瓊尊(後の孝霊天皇)らを得た。即位102年、崩御。
【陵・霊廟】
陵(みささぎ)の名は玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県御所市大字玉手にある玉手丘陵上に治定されている(位置)[7][8][9]。宮内庁上の形式は円丘。 陵について『日本書紀』では前述のように「玉手丘上陵」、『古事記』では「玉手崗上」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「玉手丘上陵」として兆域は東西6町・南北6町、守戸5烟で遠陵としている[9]。しかし、中世に陵の所在が失われ、元禄年間以来検討されて室村のとある古墳が擬せられたが、『歴帝陵』の一本および『大和志』が現在の地を推して以来、定説となった。幕末の修陵の時におおいに修治が加えられ、その竣工に際して、慶応元年3月12日に広橋右衛門督が遣わされに修陵奉告が行なわれた。
また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに孝安天皇の霊が祀られている。(ウィキペディアより)
古事記 中の巻-二、/孝安天皇 オホヤマトタラシ彦クニオシビトの命(孝安天皇)、大和の葛城の室の秋津島の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は 姪めいのオシカ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、オホキビノモロススの命とオホヤマトネコ彦フトニの命とお二方です。このオホヤ マトネコ彦フトニの命は天下をお治めなさいました。天皇は御年百二十三歳、御陵は玉手の岡の上にあります。 |
2019/07/12 11:56:37
2019/07/12 12:17:31
大田皇女(おおたのひめみこ)は、飛鳥時代の皇族。天智天皇の皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘。同母妹に[盧+鳥]野讚良皇女(うののさららのおうじょ:のちの持統天皇)。同母弟に建皇子がいる。
同母妹・[盧+鳥]野讚良皇女とともに大海人皇子(天武天皇)の妃となり、大伯皇女・大津皇子を生むが、夫の即位前に死ぬ。死亡当時大伯皇女は7歳、大津皇子は5歳で、母方の祖父である天智天皇に引き取られたという。祖母・斉明天皇、叔母・間人皇女(天智の妹。孝徳天皇皇后)とともに葬られた。
同母妹・[盧+鳥]野讚良皇女がのちに皇后となったことからみても、長生きしていれば天武の皇后となったかもしれない妃であった。大津皇子にとってこの母を早くに亡くしたことは、皇后所生の草壁皇子との後の対立を含め、人生に大きな影響を与えたと思われる。
2010年、奈良県明日香村の牽牛子塚古墳のそばから新たに石室が出土し、越塚御門古墳と命名された。『日本書紀』に記述されている斉明天皇の墓との位置関係から、一部では大田皇女の墓であることが決定的であると報じられた。(ウィキペディアより)
2019/07/12 12:24:55
斉明天皇は、用明天皇の孫にあたる高向王に嫁いだが、その後舒明天皇に再嫁してのちの天智天皇、天武天皇らを生んだ。
645年「乙巳の変」で孝徳天皇に譲位したが、654年に孝徳天皇が崩御すると翌655年に飛鳥板蓋宮で即位して天皇の位についた。
この天皇は工事好きで知られ飛鳥岡本宮などを造営して民衆に「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」などと呼ばれた。
天皇が病を得て紀州に湯治に行ったとき、蘇我赤兄に謀られた有馬皇子が謀反を企てた。
だが発覚して紀州の藤白坂で処刑されるという事件があった。
660年朝鮮半島の百済から唐・新羅連合軍の侵攻を受けているとの報があり救援を求めてきた。
斉明天皇はこの救援要請を受け、軍を発向し熟田津を経由して博多へ入りさらに朝倉橘広庭宮へ移った。
この後天災が起きて天皇が病に倒れそのまま帰らぬ人となった。
百済の救援はその後天智天皇に引き継がれる。(歴代天皇事典より)
日本書紀巻24/皇極天皇 天豊財重日足姫天皇(アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト=皇極天皇)は渟中倉太珠敷天皇(ヌナクラノフトタマシキノスメラミコト=敏達天皇)の曾孫で、 押坂彦人大兄皇子(オシサカノヒコヒトオオエノミコ=敏達天皇の皇子)の孫で、茅渟王(チヌノオオキミ)の娘です。母は吉備姫王(キビツヒメノオオキミ)と言います。 天皇は古(イニシエ)の道理に順序立てて考えて、政治を行いました。息長足日広額天皇(オキナガタラシヒヒロヌカノスメラミコト=舒明天皇)の即位2年の時に皇后とな りました。 即位13年10月に息長足日広額天皇は崩御しました。 【要約】 舒明天皇即位2年に天豊財重日足姫が皇后。 舒明天皇即位13年 舒明天皇が崩御 皇后は皇極天皇に。 皇極天皇即位1年1月即位。阿曇連比羅夫が帰国。百済は乱れていると報告あり。 即位1年2月 阿曇山背連比良夫・草壁吉士磐金・倭漢書直県を百済に派遣。豊璋の弟の塞上の悪さ。高麗の使者が難波に停泊。高麗も乱れている。 大王が殺され、弟王の子が王に。津守連大海を高麗へ、国勝吉士水鶏を百済に、草壁吉士眞跡を新羅に、坂本吉士長兄を任那に使者として送る。 即位1年3月 雲もなく雨が降る。新羅が即位の祝いと葬儀の使者を送る。長雨があった。 即位1年4月 蘇我蝦夷が百済の王子の翹岐を呼び、話し合う。塞上は呼ばなかった。長雨があった。 即位1年5月 翹岐と射猟。百済の使者が難波に。翹岐の従者が死亡。翹岐の子が死亡。子の葬儀に参列しなかった。稲が熟す。翹岐が大井に移住。 即位1年6月 小雨が降る。日照りがある。 即位1年7月 客星が月に入る(不吉)。百済の使者の智積と宴会。翹岐の前で相撲を取る。蘇我入鹿の従者が白い雀を捕らえる。臣たちが話し合う。 「神を祀っても天変地異(日照り)が収まらない」。すると蘇我蝦夷は仏教儀式(御経を読む)を行えば治ると言う。儀式を行うが雨が降らない。 即位1年8月 天皇が南淵で拝むと雨が降る。徳のある天皇と民が喜ぶ。百済の使者が帰る。船を与えた。風が吹いて使者の船は壊れる。百済の人質に官位を与える。 即位1年9月 百済大寺の造営。近江と越から労働者を徴収。船舶も作らせる。天皇は宮を作ろうと材木と労働者を徴収。越の蝦夷数千人が帰属。 即位1年10月 8日地震。9日地震。蝦夷と宴会。蘇我蝦夷が蝦夷を家に迎えて宴会。新羅の弔いと即位祝いの使者が壱岐島に停泊。24日地震。雲もなく雨が降った。 即位1年11月 大雨と雷。西北で雷1回。西北で雷5回。春のように暖かい。北で雷1回。新嘗祭を行う。 即位1年12月 春のような気温。雷が昼に5回、夜に2回鳴る。舒明天皇の葬儀。東北で雷3回。東で雷2回。小墾田宮に遷都。雷が1回。 即位1年 この年に蘇我蝦夷は葛城に高宮を立て、八?之?を踊り、歌を歌う。また大小二つの墓を作り、大きい方を蘇我蝦夷、小さい方を蘇我入鹿の墓とした。 それを聞いて聖徳太子の娘が怒る。 即位2年1月 五色の雲が立つ。大風が吹く。桃の花が咲く。アラレが降流。冬の儀式で国内の神官たちが蘇我蝦夷の先を争って言葉をかけた。 即位2年3月 百済の使者が止まる家が火災。霜で花が痛む。みぞれが降る。 即位2年4月 大風と雨。寒い。西風が吹き、アラレが降る。寒い。太宰府から百済の翹岐が来日したと報告。天皇は飛鳥板蓋新宮に移動。近江で一寸のアラレが降る。 即位2年5月 日蝕。 即位2年6月 太宰府から「高麗の使者が来た」と報告。高麗は長いこと朝貢していないのになぜ? 百済の使者の船が難波に停泊。 即位2年7月 百済の献上品を検査。これまでより少ないし、これまでと違うことが問題になる。この月に茨田池がくさくなり、虫が発生。 即位2年8月 茨田池の水が藍の汁ような色になり、虫が浮かび、水が凝固し、魚が死んだ。 即位2年9月 舒明天皇を忍坂陵に葬る。吉備嶋皇祖命(=皇極天皇の母)が死亡。土師娑婆連猪手に吉備嶋皇祖命の喪を仕切らせる。皇極天皇は吉備嶋皇祖命を看病した。 吉備嶋皇祖命を檀弓岡に葬る。大雨とあられが降った。吉備嶋皇祖命の墓の労役をやめる。茨田池の水が白くなる。 即位2年10月 朝堂で宴会。蘇我蝦夷が病気で朝廷に参上しない。蘇我入鹿に紫の冠を授けた。入鹿の弟の物部大臣がいた。大臣の祖母は物部弓削大連の妹でその財力で世に 恐れられた。蘇我入鹿が独断で山背大兄王子を捨てて、古人大兄(舒明天皇)を天皇にしようと画策する。茨田池の水が綺麗になる。 即位2年11月 蘇我入鹿が巨勢徳太臣と土師娑婆連に命じて斑鳩の山背大兄王を襲わせる。山背大兄王は妃と子供を連れて肝駒山に隠れる。蘇我入鹿が自ら山狩をしようとす ると古人皇子が止める。山背大兄王は自殺する。蘇我蝦夷は入鹿の行為に怒る。百済の余豊が蜜蜂を持ち込むが蜜蜂は増えなかった。 即位3年1月 中臣鎌子が神祇伯に。最初は拒否していたが、軽皇子(孝徳天皇)に親切にされて結局受ける。中臣鎌子が中大兄皇子と法興寺で蹴鞠をして仲良くなり、 一緒に儒教の勉強をする。中大兄皇子は蘇我倉山田麻呂の娘を妃として後見人とする。しかし娘が奪われる。妹が妃となる。 即位3年3月 フクロウが蘇我蝦夷の蔵に子を産む。菟田山のキノコの話。 即位3年6月 連理の枝になっているユリを大伴馬飼連が献上。志紀上郡の報告によると三輪山の猿を捕まえたら歌を歌った。歌の内容が山背大兄王の自殺の兆候だったか? 剣池の蓮の茎に花が咲いていた。蝦夷は蘇我氏が栄える兆しだと考えて金の墨で書いて法興寺の仏に献上した。神官が儀式をして蘇我蝦夷に言葉をかける儀式があった。 即位3年7月 東国の大生部多が虫(アゲハチョウ)を祀るように勧める。秦造河勝がその新宗教を弾圧した。 即位3年11月 蘇我蝦夷と入鹿が甘檮岡に家を二つ並べて立て、まるで天皇のように振る舞い、武装した。 即位4年1月 猿が吠えるような声がするが何もいない。伊勢大神の使者だと噂した。 即位4年4月 高麗の僧によると、鞍作得志が虎から術を習い、病気を治癒する針を手に入れるが、虎に盗まれ、高麗に毒殺された。 即位4年6月 中大兄皇子は倉山田麻呂臣と蘇我入鹿の暗殺を計画。乙巳の変により蘇我入鹿死亡。古人大兄は「韓人が蘇我蝦夷を殺した」と発言。蘇我蝦夷は天皇記・国記・ 珍宝を焼いたが、船史恵尺が国記を取り、中大兄に献上した。皇極天皇が軽皇子(孝徳天皇)に譲位。中大兄皇子が皇太子に。 日本書紀巻26/斉明天皇 天豊財重日足姫天皇(アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト)は初めに橘豊日天皇(タチバナノトヨヒノスメラミコト=用明天皇)の孫の高向王(タカムクノオ オキミ)と結婚して、漢皇子を産みました。のちに息長足日広額天皇(オキナガタラシヒヒロヌカノスメラミコト=舒明天皇)と結婚して、2人の男と1人の女を産みました。 舒明天皇即位2年に皇后となりました。息長足日広額天皇(=舒明天皇)の紀(ミマキ)に見られます。 即位13年冬10月に息長足日広額天皇は崩御しました。翌年の1月に皇后は天皇に即位しました。元を改めて、即位4年6月に位を天万豊日天皇(アメノヨロズトヨヒノス メラミコト=孝徳天皇)に譲りました。天豊財重日足姫天皇を皇祖母尊(スメミオヤノノミコト)と言いました。天万豊日天皇はその後、5年10月に崩御しました。 【要約】 即位1年1月 飛鳥板蓋宮で斉明天皇即位。 即位1年5月 空に竜に乗るものが見える。 即位1年7月 難波で大勢の蝦夷と宴会。百済の使者とも宴会。蝦夷に冠位を与える。 即位1年8月 河辺臣麻呂が帰国。 即位1年10月 小墾田に宮を立てようとする。瓦葺きにしようとする。飛鳥板蓋宮が火災。飛鳥河原宮に移る。 即位1年 高麗・百済・新羅が貢ぎ物を献上。蝦夷と隼人が属国に。 即位2年8月 高麗が貢ぎ物を献上。 即位2年9月 高麗に使者を派遣。 即位2年 後飛鳥岡本宮を建てて移る。斉明天皇が宮を建てまくることが批判される。吉野宮を作るが火災。 即位3年7月 覩貨邏国(タイの国)から男女が漂流してくる。飛鳥寺に須弥山を作理、盂蘭盆会を設け、その男女を歓待する。 即位3年9月 有間皇子(孝徳天皇の子)は狂った振りをしていた(仮病?)。牟婁温湯に湯治に行って治った。斉明天皇は喜んだ。 即位3年 新羅に使者を派遣。新羅経由で中国へ行こうとするが新羅が断る。百済経由で帰国。石見国で白い狐を見たと報告がある。 即位4年1月 巨勢徳太臣が死亡。 即位4年4月 阿陪臣が蝦夷を征伐。 即位4年5月 建王(天智天皇の子で斉明天皇の孫)が8歳で死亡。斉明天皇が合葬を願う。 即位4年7月 蝦夷が朝廷に出向いて宴会。冠位などを与えた。沙門(僧)が新羅の船で中国へ行き、三蔵法師から習った。 即位4年10月 斉明天皇が紀温湯へ。建王の思い出を歌う。 即位4年11月 蘇我赤兄が斉明天皇を批判すると有間皇子が謀反を提案する。しかし謀反は中止。有間皇子を中大兄皇子が問い詰める。有間皇子は縛り首に。 即位4年 越国守の阿倍引田臣比羅夫が熊と皮を献上。沙門の智踰が指南車を作る。出雲国が奇妙な魚の報告。唐と新羅が百済を滅ぼす。 即位5年1月 斉明天皇は紀温湯か帰る。 即位5年3月 吉野で宴会。近江の平浦へ。吐火羅人(タイ)が妻と舍衞(シャエ)の婦人と来た。甘檮丘で陸奥と越の蝦夷と宴会。に阿倍臣が蝦夷国を征伐。 即位5年7月 坂合部連石布たちが唐に行き、蝦夷を見せた。西漢大麻呂の讒言により流罪となる。朝鮮での戦争のために出国を禁じられた。出雲の神宮を修繕。 狐がツルを噛み切る。犬が人の手を持ってくる。高麗の死者が熊の皮を敷いて客をもてなすが、客人は恥ずかしく思った。 即位6年1月 高麗の使者の乙相賀取文と100人が筑紫に停泊。阿倍臣が粛慎国を征伐。能登臣馬身竜が死亡。 即位6年5月 高麗の使者の乙相賀取文が難波館に到着。仁王般若の会を設ける。中大兄皇子が漏剋(水時計)を作る。阿倍引田臣を蝦夷を献上。 石上池で須弥山を作り、粛慎と宴会。百姓が理由もなく兵器を持っている。 即位6年7月 高麗の使者の乙相賀取文が帰国。覩貨羅人の乾豆波斯達阿が妻を残して帰国。 即位6年9月 百済は役人と僧の覚従が来日して、百済の滅亡を報告。王は唐の捕虜となる。鬼室福信の抵抗。 即位6年10月 鬼室福信が日本に救援を要請。百済の王とするため日本の人質として居た百済王子の豊璋を求めた。 即位6年12月 斉明天皇は難波宮へ。鬼室福信に兵器を準備する。 即位6年 新羅征伐のための船を作るが、ひっくり返ったために戦争は負ける予兆ととらえた。 また科野国ではハエの大群が現れたので、これも救援軍が破れる予兆と考えた。そのような動揺も。 即位7年1月 修造した船が出発。大伯海で大田姫皇女が大伯皇女を出産。伊予の石湯行宮に到着。 即位7年3月 娜大津(博多)の磐瀬行宮に到着。 即位7年4月 鬼室福信が糺解を迎えたいと手紙を送る。 即位7年5月 斉明天皇は朝倉橘広庭宮に。宮を作るときに朝倉社の木を切ったために祟りがあった。耽羅が王子の阿波伎を派遣して貢ぎ物を献上。 即位7年6月 伊勢王が死亡。 即位7年7月 斉明天皇が朝倉宮で崩御。 即位7年8月 中大兄皇子が葬式をする。朝倉山に鬼が現れる。 即位7年10月 中大兄皇子が遺骸を帰国させようとする。歌を歌う。遺骸が難波に到着。 即位7年11月 遺骸を飛鳥で安置。 |
2019/07/12 13:11:59
2019/07/12 13:20:40
2019/07/12 13:56:16
牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村大字越にある古墳。形状は八角墳。国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。
指定時には「あさがおつかこふん」の読みが付されており、「牽牛子」はアサガオの別称である。「御前塚」と呼称されることもある。2009年(平成21年)から2010年(平成22年)にかけての発掘調査によって、八角墳(八角形墳)であることが判明し、飛鳥時代の女帝で天智天皇・天武天皇の母とされる第37代斉明天皇(第35代皇極天皇)の陵である可能性が高まっている。
【外観・規模】
以前より、巨石をくりぬいて2つの墓室を設けた特異な内部構造で知られており、斉明天皇(皇極天皇)と娘の間人皇女(孝徳天皇の皇后)の合葬墓とする説があった。また、1977年(昭和52年)から1978年(昭和53年)にかけて環境整備事業の一環として発掘調査がおこなわれており、その際、実際の測量をもとにした実測図が作成され、円墳と報告されながらも八角墳の可能性が高いこともあわせて指摘されていた。
2009年9月より2010年9月にかけて、明日香村教育委員会による学術目的の発掘調査がおこなわれ、2010年(平成22年)9月9日、村教育委員会は調査成果を発表した。
それによれば、墳丘は地震により崩落していたが、高さ約4.5メートルと推定され、版築による三段築成の八角墳であることが判明し、墳丘の裾(すそ)は平面八角形状に削られており、対辺の長さは約22メートルにおよぶことを確認した。墳丘周囲では外側を八角形にかこむ石敷遺構が確認されており、北西の裾からは三辺分の石敷を検出している。うち一辺(約9メートル)はほぼ完全なかたちで遺存しており、幅は約1メートルでブロック状の切り石が3列にすき間なく敷き詰められていた。石敷遺構そのものも、正八角形になるよう途中で約135度の角度で屈曲しており、上空から鳥瞰した場合、共通の中心をもち大きさの異なる、墳丘部分3段、平地の石敷部分3列の相似八角形が重なるかたちとなる。石敷の外側には、さらに砂利が敷き詰められ、その部分も含めると全体では32メートルほどの規模になると推定される。
また、三角柱状に削った白色凝灰岩の切り石やその破片が数百個以上出土しており、調査者は、これらの切り石はピラミッド状に積み上げて墳丘斜面を装飾していたとしており、その総数は約7,200個におよぶと推定している。
墳丘一段目は一辺12.2メートル、対角線約33メートル、墳丘二段目は一辺約7メートル、対角線約18.5メートル、高さ4メートルである。
【内部構造】
内部施設は、南にむけて横穴が開口するかたちの横口式石槨であり、2009年段階ではすでに一部露出していた。横口式石槨は、約80トンの重量をもつ1個の巨大な凝灰角礫岩をくりぬいて、約70トンの埋葬施設をつくったもので、巨石は約15キロメートル離れた二上山西麓より運搬したものと考えられる。石槨の幅は5メートル、奥行き3.5メートル、高さ2.5メートルの規模を有し、石槨内は中央部に幅44.7センチメートル、長さ152.5センチメートルの仕切り壁によって東西2つの空間に仕切られた合葬墳であることが判明した。刳りぬき部分の規模は、幅1.41メートル、高さ1.01メートル、長さ0.63メートルである。また、巨石の外側を取り囲むように丁寧な加工の施された直方体(縦2.7メートル、横1.2メートル、厚0.7メートル)をなす巨大なデイサイト製の切り石を3点確認し、本来的には16点整然とならんでいたであろうことも確認している。
石槨内の中央には間仕切りのための壁をともない、その両側に長さ約2メートルの墓室が2つあって、壁面は二重の漆喰が塗られている。左右両室ともに天井は丸みをおびており、高さはともに約1.3メートルである。また、左室は長さ2.1メートル、幅1.14メートル、右室は長さ2.08メートル、幅1.16メートルでほぼ同規模である。床面には長さ約1.95メートル、幅約0.78メートル、高さ0.08メートルの棺台(棺床)が削り出しによってつくられており、これも左右両室とも同一規模である。閉塞石は内扉と外扉より成っていて、内扉は凝灰岩製で高さ約1.12メートル、厚さ約0.62メートル、幅約1.47メートルであるのに対し、外扉は安山岩系の石材を用い、高さ約2.4メートル、厚さ約0.63メートル、幅約2.69メートルの大きさであった。また、内側の扉の四隅からは方形の孔(あな)を確認しており、扉飾金具が装填されていたことが推定される。
なお、古墳全体に使用された石の総重量は550トン以上と考えられる。運搬には丸太(ころ)を用いても数百人、地面を引きずったとすれば1,400人もの人員が必要であり、これについては、巨石を大勢で長距離運ぶこと自体に律令国家の権力を誇示する意図があったという見方がある。
【出土遺物】
以前の調査や採集によって、すでに夾紵棺(きょうちょかん)の破片や金銅製の棺金具(七宝亀甲形座金具、八花文座金具、六花文環座金具、円形座金具、綾隅金具)、また鉄製の鎹(カスガイ)、鉄製の釘、ガラス玉などの玉類、人骨(臼歯)などの遺物が出土している。「夾紵棺」(きょうちょかん)とは麻布を漆で何重にも貼り重ねてつくった当時としては最高級の棺であり、貴人の葬送に用いられたことは疑いない。臼歯は間人皇女のものとの説がある。
1953年(昭和28年)11月14日、遺物は考古資料として極めて重要であるとして、一括して「大和国高市郡牽牛子塚古墳出土品」として国の重要文化財に指定され、指定分は奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に保管されている。
【被葬者】
斉明天皇の夫舒明天皇の陵墓(段ノ塚古墳)、子の天智天皇の陵墓(御廟野古墳)および天武天皇の陵墓(野口王墓、持統天皇との合葬墳)がいずれも八角墳であり、今回の精査によって、本古墳もまた当時の皇族の陵墓に特徴的な八角墳であることが確認された。また、本古墳が築造当初より合葬が明確に計画されていたことは調査成果によっていっそう明らかになった。さらに、加工石をこれほどふんだんに用いた古墳は他に類例がなく、古墳自体が巨大な石造記念物であることも明らかとなった。以前より知られていた夾紵棺や臼歯の存在、また『日本書紀』における斉明天皇・間人皇女合葬の記述とあわせて、本古墳が斉明天皇陵である可能性はさらに高まった。
いっぽう宮内庁は、本古墳から西南西の方向へ2.5キロメートル離れた、奈良県高市郡高取町大字車木に所在する車木ケンノウ古墳を斉明天皇陵として治定してきたため、おおかたの研究者との見解とのあいだに齟齬が生じている。そのため、真の継体天皇陵として有力視される今城塚古墳(大阪府高槻市)や真の文武天皇陵として有力視される八角墳中尾山古墳(奈良県明日香村平田字中尾山)などと同様、従来の陵墓の治定を見直す必要があるのではないかという議論が起こっている。しかし、宮内庁書陵部では斉明天皇陵「越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)」の候補地として牽牛子塚古墳が有力であるとする説があることを認めながらも、墓誌など確実なものが発見されない限りは陵墓治定を見直す必要はないとしている。
【隣接する古墳の発見】
2010年12月9日、明日香村教育委員会は牽牛子塚古墳隣接地より古墳を検出したことを発表した。牽牛子塚古墳が斉明天皇の陵墓であるならば、新発見の越塚御門古墳は、斉明陵墓の前に孫の大田皇女を葬ったという『日本書紀』の記載より、大田皇女の墓である可能性が高い。
(ウィキペディアより)
*牽牛子塚古墳等整備工事の進捗に伴い、工事が完成するまでの間、史跡地内及び牽牛子塚古墳の見学ができなくなります。
周辺立入禁止。期間:令和3年3月31日(予定)まで
2019/07/12 14:19:08