開始日時 | 2019/07/06 10:38:17 | 終了日時 | 2019/07/06 14:31:24 |
水平距離 | 10.17km | 沿面距離 | 10.42km |
経過時間 | 3時間53分07秒 | 移動時間 | 3時間05分04秒 |
徒歩距離 | 15.3km | 徒歩合計 | 21,400歩 |
全体平均速度 | 2.68km/h | 移動平均速度 | 3.31km/h |
最高高度 | 141m | 最低高度 | 25m |
※ 古事記に関連ある場所では、その記載箇所を現代語訳で表示。 (あおぞら文庫より武田祐吉訳を拝借して一部変更。又、竹田恒泰著:現代語古事記を参考)
2019/07/06 10:39:29
2019/07/06 10:49:38
【創建】
寺伝では神亀2年(725年)、聖武天皇の勅願で行基が創建し、古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺)の勅号を得たとされている。近世の地誌類や再興勧進帳でも以上の寺伝を踏襲しているが、別説では元々は葛井連の氏寺であったとされている。
葛井連の前身である白猪氏は百済辰孫王の後裔である王辰爾の甥である胆津を祖としており、『日本書紀』によれば、吉備国の白猪屯倉の田部の丁を定めた功績により白猪氏の姓を賜ったとされている[1]。奈良時代の養老4年(720年)に白猪氏は葛井連に改姓しており、葛井寺は、一族の葛井連広成が創建したとされている。また、葛井一族からは大安寺僧である慶俊が出ている。
大同元年(807年)にの葛井氏の出身である藤子(葛井連道依娘)と平城天皇の間に生まれた皇子である阿保親王によって再建された。また阿保親王の皇子である在原業平が奥の院を造営した。中世以前の沿革については史料が乏しく、必ずしも明確でないが、本尊千手観音坐像は奈良時代の作品であり、境内から奈良時代の古瓦が出土することなどから、創建が奈良時代・8世紀頃にさかのぼることは間違いない。
永長元年(1096年)には、大和国賀留の里の住人・藤井安基が、荒廃した伽藍を修理したと伝える。境内出土の瓦の1つに久安3年(1147年)の銘があり、その頃に造営事業が行われたことが推定される。平安時代後期から観音霊場として知られるようになり、西国三十三所観音霊場が成立すると、その一つに数えられるようになった。南北朝時代には楠木正成が陣をしいたことがあるなど、たびたび兵火にさらされた。
室町時代には、興福寺の末寺として栄え、伽藍は東西2つの三重塔をもつ薬師寺式伽藍配置であったが、明応2年(1493年)に起きた畠山家の内紛に端を発した兵火によって楼門、中門、三重塔、鎮守社、奥院を焼失し、本堂と堂塔を残すのみとなった。(ウィキペディアより)
2019/07/06 11:10:54
アイセル シュラ ホールの愛称でみなさんに親しまれている生涯学習センターです。アイセルとは、Activity(活動)、Information(情報)Consultation(相談)、Exchange(交流)、Learning(学習)の頭文字で、シュラは、藤井寺市から出土した古墳時代に巨石を運搬したと思われる修羅のことです。
2階 歴史展示ゾーン・学習ファミリーゾーンでは、
藤井寺市内の遺跡から見つかった道具を展示し、旧石器時代から奈良時代までの変遷を学ぶことができます。歴史展示室では、「倭の五王の時代」をテーマにした遺物(鉄剣、武具、埴輪など)を展示しています。
また、「ようこそ、おかえり故郷へ 井真成墓誌特別展」として、遣唐使 井真成の墓誌(レプリカ)を展示しています。(ホームページより)
2019/07/06 11:29:14
【略歴】
『日本書紀』によると景行天皇皇子である日本武尊の第2子、母は垂仁天皇の皇女・両道入姫命。成務天皇の甥。成務天皇48年に立太子。
先帝が崩御した2年後に即位。即位2年、気長足姫尊を皇后とした(神功皇后)。これより前に従妹の大中姫命との間に?坂皇子、忍熊皇子を得ている。再叛した熊襲を討つため親征し穴門豊浦宮に滞在。即位8年、筑紫の橿日宮に至るも熊襲との戦いに敗れる。即位9年、親征先の筑紫で崩御。その後、皇后が誉田別命(応神天皇)を生んだ。
【事績】
容姿端正、身長一丈。『日本書紀』によれば、叔父の成務天皇に嗣子がなく成務天皇48年3月1日に31歳で立太子。皇太子13年を経て先帝崩御二年後の1月に即位。白鳥となって天に昇った父の日本武尊(景行天皇43年死去)を偲んで諸国に白鳥を献じることを命じたが、異母弟の蘆髪蒲見別王が越国の献じた白鳥を奪ったため誅殺したとある。即位2年1月11日、天皇は氣長足姫尊(成務天皇40年誕生)を皇后(神功皇后)とする。2月、角鹿の笥飯宮へ。同月、淡路に屯倉を設ける。3月、紀伊国の德勒津宮へ。同地で熊襲再叛の報を聞き親征開始。6月、穴門の豊浦津へ至る。
即位8年、熊襲討伐のため皇后とともに筑紫に赴いた天皇は神懸りした皇后から託宣を受けた。それは「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝のある新羅を戦わずして得るだろう」という内容だった。しかし高い丘に登って大海を望んでも国など見えない。歴代天皇があらゆる神を祀っていたというのに未だ祀っていない神がいるとも考えられない。そこで天皇は神が偽物ではないかと疑った。神は再度、皇后に神がかり「天皇は国を手に入れられず、妊娠した皇后が生む皇子が得るだろう」と託宣した。
それでも神を信じられない天皇は構わず熊襲を攻めたものの、空しく敗走。翌年2月に天皇は急に崩じてしまい、神の怒りに触れたと見なされた。『日本書紀』内の一書(異説)や『天書紀』では熊襲の矢に当たり、橿日宮(現香椎宮)で崩御したとされる。遺体は武内宿禰により海路で穴門(現在の下関海峡)を通って豊浦宮で殯された。
(ウィキペディアより)
古事記 中巻-5/仲哀天皇、神功皇后 后妃と皇子女 タラシナカツ彦の天皇(仲哀天皇)、穴門あなとの豐浦とよらの宮また筑紫つくしの香椎かしいの宮においでになつて天下をお治め なさいました。この天皇、オホエの王の女のオホナカツ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、カゴサカの王とオシクマの王お二 方です。またオキナガタラシ姫の命(神功皇后)と結婚なさいました。この皇后のお生みになつた御子はホムヤワケの命・オホトモ ワケの命、またの名はホムダワケの命とお二方です。この皇太子の御名をオホトモワケの命と申しあげるわけは、初めお生まれにな つた時に腕に鞆ともの形をした肉がありましたから、この御名前をおつけ申しました。そこで腹の中においでになつて天下をお治め なさいました。この御世に淡路の役所を定めました。 神功皇后 皇后の神功皇后(オキナガタラシ姫の命)は神懸かみがかりをなさつた方でありました。天皇が筑紫の香椎の宮においでになつて熊 曾の國を撃とうとなさいます時に、天皇が琴をお彈ひきになり、タケシウチの宿禰が祭の庭にいて神の仰せを伺いました。ここに皇 后に神懸りして神樣がお教えなさいましたことは、「西の方に國があります。金銀をはじめ目の輝く澤山の寶物がその國に多くある が、わたしが今その國をお授け申そう」と仰せられました。しかるに天皇がお答え申されるには、「高い處に登つて西の方を見ても、 國が見えないで、ただ大海のみだ」と言われて、詐いつわりをする神だとお思いになつて、お琴を押し退けてお彈きにならず默つて おいでになりました。そこで神樣がたいへんお怒りになつて「すべてこの國はあなたの治むべき國ではないのだ。あなたは一本道に お進みなさい」と仰せられました。そこでタケシウチの宿禰が申しますには、「おそれ多いことです。陛下、やはりそのお琴をお彈 き遊ばせ」と申しました。そこで少しその琴をお寄せになつて生々なまなまにお彈きになつておいでになつたところ、間も無く琴の 音が聞えなくなりました。そこで火を點ともして見ますと、既にお隱かくれになつていました。 そこで驚き恐懼きようくして御大葬の宮殿にお遷し申し上げて、更にその國内から幣帛へいはくを取つて、生剥いけはぎ・逆剥さか はぎ・畦離あはなち・溝埋みぞうめ・屎戸くそへ・不倫の結婚の罪の類を求めて大祓おおばらえしてこれを清め、またタケシウチの 宿禰が祭の庭にいて神の仰せを願いました。そこで神のお教えになることは悉く前の通りで、「すべてこの國は皇后樣のお腹におい でになる御子の治むべき國である」とお教えになりました。 そこでタケシウチの宿禰が、「神樣、おそれ多いことですが、その皇后樣のお腹はらにおいでになる御子は何の御子でございますか と申しましたところ、「男の御子だ」と仰せられました。そこで更にお願い申し上げたことは、「今かようにお教えになる神樣は何 という神樣ですか」と申しましたところ、お答え遊ばされるには「これは天照らす大神の御心だ。またソコツツノヲ・ナカツツノヲ ・ウハツツノヲの三神だ。今まことにあの國を求めようと思われるなら、天地の神たち、また山の神、海河の神たちに悉く幣帛へい はくを奉り、わたしの御魂みたまを御船みふねの上にお祭り申し上げ、木の灰を瓠ひさごに入れ、また箸はしと皿とを澤山に作つて、 悉く大海に散ちらし浮うかべてお渡わたりなさるがよい」と仰せなさいました。 そこで悉く神の教えた通りにして軍隊を整え、多くの船を竝べて海をお渡りになりました時に、海中の魚どもは大小となくすべて出 て、御船を背負つて渡りました。順風が盛んに吹いて御船は波のまにまに行きました。その御船の波が新羅しらぎの國に押し上つて 國の半にまで到りました。依つてその國王が畏おじ恐れて、「今から後は天皇の御命令のままに馬飼うまかいとして、毎年多くの船 の腹を乾かわかさず、柁※(「楫+戈」、第3水準1-86-21)かじさおを乾かわかさずに、天地のあらんかぎり、止まずにお仕え申し上 げましよう」と申しました。かような次第で新羅の國をば馬飼うまかいとお定め遊ばされ、百濟くだらの國をば船渡ふなわたりの役 所とお定めになりました。そこで御杖を新羅の國主の門におつき立て遊ばされ、住吉の大神の荒い御魂を、國をお守りになる神とし て祭つてお還り遊ばされました。 鎭懷石と釣魚 かような事がまだ終りませんうちに、お腹の中の御子がお生まれになろうとしました。そこでお腹をお鎭めなされるために石をお取 りになつて裳の腰におつけになり、筑紫の國にお渡りになつてからその御子はお生まれになりました。そこでその御子をお生み遊ば されました處をウミと名づけました。またその裳につけておいでになつた石は筑紫の國のイトの村にあります。 また筑紫の松浦縣まつらがたの玉島の里においでになつて、その河の邊ほとりで食物をおあがりになつた時に、四月の上旬の頃でし たから、その河中の磯においでになり、裳の絲を拔き取つて飯粒めしつぶを餌えさにしてその河のアユをお釣りになりました。その 河の名は小河おがわといい、その磯の名はカツト姫といいます。今でも四月の上旬になると、女たちが裳の絲を拔いて飯粒を餌にし てアユを釣ることが絶えません。 カゴサカの王とオシクマの王 オキナガタラシ姫の命は、大和に還りお上りになる時に、人の心が疑わしいので喪もの船を一つ作つて、御子をその喪の船にお乘せ 申し上げて、まず御子は既にお隱れになりましたと言い觸らさしめました。かようにして上つておいでになる時に、カゴサカの王、 オシクマの王が聞いて待ち取ろうと思つて、トガ野に進み出て誓を立てて狩をなさいました。その時にカゴサカの王はクヌギに登つ て御覽になると、大きな怒り猪じしが出てそのクヌギを掘つてカゴサカの王を咋くいました。しかるにその弟のオシクマの王は、誓 の狩にかような惡い事があらわれたのを畏れつつしまないで、軍を起して皇后の軍を待ち迎えられます時に、喪の船に向かつてから の船をお攻めになろうとしました。そこでその喪の船から軍隊を下して戰いました。 この時にオシクマの王は、難波なにわの吉師部きしべの祖先のイサヒの宿禰すくねを將軍とし、太子の方では丸邇わにの臣の祖先の 難波なにわネコタケフルクマの命を將軍となさいました。かくて追い退けて山城に到りました時に、還り立つて雙方退かないで戰い ました。そこでタケフルクマの命は謀つて、皇后樣は既にお隱れになりましたからもはや戰うべきことはないと言わしめて、弓の弦 を絶つて詐いつわつて降服しました。そこで敵の將軍はその詐りを信じて弓をはずし兵器を藏しまいました。その時に頭髮の中から 豫備の弓弦を取り出して、更に張つて追い撃ちました。かくて逢坂おおさかに逃げ退いて、向かい立つてまた戰いましたが、遂に追 い迫せまり敗つて近江のササナミに出て悉くその軍を斬りました。そこでそのオシクマの王がイサヒの宿禰と共に追い迫せめられて、 湖上に浮んで歌いました歌、 さあ君きみよ、 フルクマのために負傷ふしようするよりは、 カイツブリのいる琵琶の湖水に 潛り入ろうものを。 と歌つて海にはいつて死にました。 氣比けひの大神 かくてタケシウチの宿禰がその太子をおつれ申し上げて禊みそぎをしようとして近江また若狹わかさの國を經た時に、越前の敦賀つ るがに假宮を造つてお住ませ申し上げました。その時にその土地においでになるイザサワケの大神が夜の夢にあらわれて、「わたし の名を御子の名と取りかえたいと思う」と仰せられました。そこで「それは恐れ多いことですから、仰せの通りおかえ致しましよう」 と申しました。またその神が仰せられるには「明日の朝、濱においでになるがよい。名をかえた贈物を獻上致しましよう」と仰せら れました。依つて翌朝濱においでになつた時に、鼻の毀やぶれたイルカが或る浦に寄つておりました。そこで御子が神に申されます には、「わたくしに御食膳の魚を下さいました」と申さしめました。それでこの神の御名を稱えて御食みけつ大神と申し上げます。 その神は今でも氣比の大神と申し上げます。またそのイルカの鼻の血が臭うございました。それでその浦を血浦ちうらと言いました が、今では敦賀つるがと言います。 酒の座の歌曲 其處から還つてお上りになる時に、母君のオキナガタラシ姫の命がお待ち申し上げて酒を造つて獻上しました。その時にその母君の お詠み遊ばされた歌は、 のお酒はわたくしのお酒ではございません。 お神酒みきの長官、常世とこよの國においでになる 岩になつて立つていらつしやるスクナビコナ樣が 祝つて祝つて祝い狂くるわせ 祝つて祝つて祝い※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)まわつて 獻上して來たお酒なのですよ。 盃をかわかさずに召しあがれ。 かようにお歌いになつてお酒を獻りました。その時にタケシウチの宿禰が御子のためにお答え申し上げた歌は、 このお酒を釀造した人は、 その太鼓を臼うすに使つて、 歌いながら作つた故か、 舞いながら作つた故か、 このお酒の 不思議に樂しいことでございます。 これは酒樂さかくらの歌でございます。 すべてタラシナカツ彦の天皇の御年は五十二歳、壬戌みずのえいぬの年の六月十一日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀えが の長江にあります。皇后樣は御年百歳でお隱かくれになりました。狹城さきの楯列たたなみの御陵にお葬り申し上げました。 |
2019/07/06 12:33:27
【略歴】
安康天皇が皇后の中蒂姫の連れ子眉輪王により暗殺された後に、億計王(後の仁賢天皇)の父の市辺押磐皇子(履中天皇の皇子)が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に殺されると、弟の弘計王(後の顕宗天皇)と共に逃亡して身を隠した。まず丹波国与謝郡(丹後半島東半)に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変えて丹波小子と称した。縮見屯倉首に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、清寧天皇2年に、弟王が宴の席で王族の身分を明かした。清寧天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に2王を宮中に迎え入れた。4月に億計王が皇太子となった。
同5年に清寧天皇が崩じたときに皇位を弟王と譲り合い、その間は飯豊青皇女が執政した。『古事記』では、2王が身分を明かして宮中に戻ったのは清寧天皇の崩御後、飯豊王の執政中のことであるとする。翌年、弟王が即位(顕宗天皇)したが、わずか在位3年(『古事記』では8年)で崩御した。
これを受けて、億計王が仁賢天皇元年1月に即位した。3年2月に石上部舎人を、5年に佐伯造を置いた。また、6年9月に高麗へ日鷹吉士を遣わし、皮の工匠などの手工業者を招いたという。仁賢天皇の時代は国中が良く治まり、人民から「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」と評された。
7年1月には皇子の小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子に定め、11年8月に崩御。『水鏡』に50歳、『帝王編年記』には51歳とある。
皇后は雄略天皇の皇女である春日大娘皇女であるが、父を殺した雄略天皇の皇女を皇后とした理由として、仁賢天皇自身が傍系の出身であるため、直系の皇女を皇后に迎え入れ正当性を強めたと考えられている。これは娘の手白香皇女も、傍系出身の継体天皇の皇后となった事で繰り返されている。
(ウィキペディアより)
古事記 下の巻-六、仁賢天皇 ヲケの王(顕宗天皇)の後を継いで兄のオホケの王(仁賢天皇)が大和の石いその上かみの廣高の宮においでになつて、天下をお治め なさいました。天皇はオホハツセノワカタケの天皇(雄略天皇)の御子、春日の大郎女と結婚してお生みになつた御子は、タカギの郎 女・タカラの郎女・クスビの郎女・タシラガの郎女(継体天皇皇后)・ヲハツセノワカサザキの命・マワカの王です。またワニノヒノ ツマの臣の女、ヌカノワクゴの郎女と結婚してお生みになつた御子は、カスガノヲダの郎女です。天皇の御子たち七人おいでになる中 に、ヲハツセノワカサザキの命(武烈天皇)は天下をお治めなさいました。 |
2019/07/06 12:07:23
【歴史】
伝承では聖徳太子建立48寺院の一つとされ、太子の命を受けた蘇我馬子が開基とされる。また「上之太子」叡福寺、「下之太子」大聖勝軍寺とともに三太子の一つに数えられ、「中之太子」と呼ばれている。境内に残る礎石から、飛鳥時代~奈良時代前半には大規模な伽藍が存在したことは明らかで、渡来系氏族の船氏の氏寺として建てられたという説もある。
創建時の堂塔は南北朝時代までに兵火を受けて全て焼失しているが、境内には中門跡・金堂跡・塔跡・講堂跡・回廊跡など法隆寺式伽藍配置を示す礎石を存留しており、「野中寺旧伽藍跡」として国の史跡に指定されている。(ウィキペディアより)
2019/07/06 13:02:21
第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。
【系譜】
父は景行天皇。母は皇后の播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ、針間之伊那毘能大郎女/稲日稚郎姫)。『古事記』では、針間之伊那毘能大郎女を若建吉備津日子(吉備臣らの祖)の娘とする。
『日本書紀』・『先代旧事本紀』では第二皇子とし、同母兄は大碓皇子のみで双子の兄とする。『古事記』では第三皇子とし、同母兄を櫛角別王・大碓命(双子の記載はない)、同母弟を倭根子命・神櫛王とする。
【陵墓】
古事記の景行天皇記では、倭建命は伊勢の「能煩野」で没したとし、倭建命の后・子らが能煩野に下向して陵を造ったとする。しかし倭建命は白い千鳥となって伊勢国から飛び立ち、河内国の志幾に留まったので、その地に陵を造り「白鳥御陵」と称したという。
日本書紀の景行天皇40年是歳条では、日本武尊は「能褒野」で没し、それを聞いた天皇は官人に命じて伊勢国の「能褒野陵」に埋葬させた。しかし日本武尊は白鳥となって飛び立ち、倭の琴弾原、次いで河内の古市邑に留まったのでそれぞれの地に陵が造られた。そしてこれら3陵をして「白鳥陵」と称し、これらには日本武尊の衣冠が埋葬されたという。
宮内庁により3ヶ所が治定されている。
・能褒野墓(のぼののはか、三重県亀山市田村町)「能褒野王塚古墳」
・白鳥陵(しらとりのみささぎ、奈良県御所市富田)「権現山」・「天王山」
・白鳥陵(しらとりのみささぎ、大阪府羽曳野市軽里)「軽里大塚古墳」
(ウィキペディアより)
古事記 中の巻-五、景行天皇記 ヤマトタケルの命の西征 天皇がヲウスの命に仰せられるには「お前の兄はどうして朝夕の御食事に出て來ないのだ。お前が引き受けて教え申せ」と仰せられました。 かように仰せられて五日たつてもやはり出て來ませんでした。そこで、天皇がヲウスの命にお尋ねになるには「どうしてお前の兄が永い間出 て來ないのだ。もしやまだ教えないのか」とお尋ねになつたので、お答えしていうには「もう教えました」と申しました。また「どのように 教えたのか」と仰せられましたので、お答えして「朝早く厠かわやにおはいりになつた時に、待つていてつかまえてつかみひしいで、手足を 折つて薦こもにつつんで投げすてました」と申しました。 そこで天皇は、その御子の亂暴な心を恐れて仰せられるには「西の方にクマソタケル二人がある。これが服從しない無禮の人たちだ。だから その人たちを殺せ」と仰せられました。この時に、その御髮を額で結つておいでになりました。そこでヲウスの命は、叔母樣のヤマト姫の命 のお衣裳をいただき、劒を懷にいれておいでになりました。そこでクマソタケルの家に行つて御覽になりますと、その家のあたりに、軍隊が 三重に圍んで守り、室むろを作つて居ました。そこで新築の祝をしようと言い騷いで、食物を準備しました。依つてその近所を歩いて宴會を する日を待つておいでになりました。いよいよ宴會の日になつて、結つておいでになる髮を孃子の髮のように梳けずり下げ、叔母樣のお衣裳 をお著つけになつて孃子の姿になつて女どもの中にまじり立つて、その室の中におはいりになりました。ここにクマソタケルの兄弟二人が、 その孃子を見て感心して、自分たちの中にいさせて盛んに遊んでおりました。その宴の盛んになつた時に、命は懷から劒を出し、クマソタケ ルの衣の襟を取つて劒をもつてその胸からお刺し通し遊ばされる時に、その弟のタケルが見て畏れて逃げ出しました。そこでその室の階段の もとに追つて行つて、背の皮をつかんでうしろから劒で刺し通しました。ここにそのクマソタケルが申しますには、「そのお刀をお動かし遊 ばしますな。申し上げることがございます」と言いました。そこでしばらく押し伏せておいでになりました。「あなた樣さまはどなたでいら つしやいますか」と申しましたから、「わたしは纏向まきむくの日代ひしろの宮においで遊ばされて天下をお治めなされるオホタラシ彦オシ ロワケの天皇の御子のヤマトヲグナの王という者だ。お前たちクマソタケル二人が服從しないで無禮だとお聞きなされて、征伐せよと仰せに なつて、お遣わしになつたのだ」と仰せられました。そこでそのクマソタケルが、「ほんとうにそうでございましよう。西の方に我々二人を 除いては武勇の人間はありません。しかるに大和の國には我々にまさつた強い方がおいでになつたのです。それではお名前を獻上致しましよ う。今からはヤマトタケルの御子と申されるがよい」と申しました。かように申し終つて、熟した瓜を裂くように裂き殺しておしまいになり ました。その時からお名前をヤマトタケルの命と申し上げるのです。そうして還つておいでになつた時に、山の神・河の神、また海峽の神を 皆平定して都にお上りになりました。 イヅモタケル そこで出雲の國におはいりになつて、そのイヅモタケルを撃うとうとお思いになつて、おいでになつて、交りをお結びになりました。まずひ そかに赤檮いちいのきで刀の形を作つてこれをお佩びになり、イヅモタケルとともに肥ひの河に水浴をなさいました。そこでヤマトタケルの 命が河からまずお上りになつて、イヅモタケルが解いておいた大刀をお佩きになつて、「大刀を換かえよう」と仰せられました。そこで後か らイヅモタケルが河から上つて、ヤマトタケルの命の大刀を佩きました。ここでヤマトタケルの命が、「さあ大刀を合わせよう」と挑いどま れましたので、おのおの大刀を拔く時に、イヅモタケルは大刀を拔き得ず、ヤマトタケルの命は大刀を拔いてイヅモタケルを打ち殺されまし た。そこでお詠みになつた歌、 雲くもの叢むらがり立つ出雲いづものタケルが腰にした大刀は、 蔓つるを澤山卷いて刀の身が無くて、きのどくだ。 かように平定して、朝廷に還つて御返事申し上げました。 ヤマトタケルの命の東征 ここに天皇は、また續いてヤマトタケルの命に、「東の方の諸國の惡い神や從わない人たちを平定せよ」と仰せになつて、吉備きびの臣等の 祖先のミスキトモミミタケ彦という人を副えてお遣わしになつた時に、柊ひいらぎの長い矛ほこを賜わりました。依つて御命令を受けておい でになつた時に、伊勢の神宮に參拜して、其處に奉仕しておいでになつた叔母樣のヤマト姫の命に申されるには、「父上はわたくしを死ねと 思つていらつしやるのでしようか、どうして西の方の從わない人たちを征伐にお遣わしになつて、還つてまいりましてまだ間も無いのに、軍 卒も下さらないで、更に東方諸國の惡い人たちを征伐するためにお遣わしになるのでしよう。こういうことによつて思えば、やはりわたくし を早く死ねと思つておいでになるのです」と申して、心憂く思つて泣いてお出ましになる時に、ヤマト姫の命が、草薙の劒をお授けになり、 また嚢ふくろをお授けになつて、「もし急の事があつたなら、この嚢の口をおあけなさい」と仰せられました。 かくて尾張の國においでになつて、尾張の國の造みやつこの祖先のミヤズ姫の家へおはいりになりました。そこで結婚なされようとお思いに なりましたけれども、また還つて來た時にしようとお思いになつて、約束をなさつて東の國においでになつて、山や河の亂暴な神たちまたは 從わない人たちを悉く平定遊ばされました。ここに相摸の國においで遊ばされた時に、その國の造が詐いつわつて言いますには、「この野の 中に大きな沼があります。その沼の中に住んでいる神はひどく亂暴な神です」と申しました。依つてその神を御覽になりに、その野においで になりましたら、國の造が野に火をつけました。そこで欺かれたとお知りになつて、叔母樣のヤマト姫の命のお授けになつた嚢の口を解いて あけて御覽になりましたところ、その中に火打ひうちがありました。そこでまず御刀をもつて草を苅り撥はらい、その火打をもつて火を打ち 出して、こちらからも火をつけて燒き退けて還つておいでになる時に、その國の造どもを皆切り滅し、火をつけてお燒きなさいました。そこ で今でも燒津やいずといつております。 其處からおいでになつて、走水はしりみずの海をお渡りになつた時にその渡わたりの神が波を立てて御船がただよつて進むことができません でした。その時にお妃のオトタチバナ姫の命が申されますには、「わたくしが御子に代つて海にはいりましよう。御子は命ぜられた任務をは たして御返事を申し上げ遊ばせ」と申して海におはいりになろうとする時に、スゲの疊八枚、皮の疊八枚、絹の疊八枚を波の上に敷いて、そ の上におおり遊ばされました。そこでその荒い波が自然に凪ないで、御船が進むことができました。そこでその妃のお歌いになつた歌は、 高い山の立つ相摸さがみの國の野原で、 燃え立つ火の、その火の中に立つて わたくしをお尋ねになつたわが君。 かくして七日過ぎての後に、そのお妃のお櫛が海濱に寄りました。その櫛を取つて、御墓を作つて收めておきました。 それからはいつておいでになつて、悉く惡い蝦夷えぞどもを平らげ、また山河の惡い神たちを平定して、還つてお上りになる時に、足柄あし がらの坂本に到つて食物をおあがりになる時に、その坂の神が白い鹿になつて參りました。そこで召し上り殘りのヒルの片端かたはしをもつ てお打ちになりましたところ、その目にあたつて打ち殺されました。かくてその坂にお登りになつて非常にお歎きになつて、「わたしの妻は なあ」と仰せられました。それからこの國を吾妻あずまとはいうのです。 その國から越えて甲斐に出て、酒折さかおりの宮においでになつた時に、お歌いなされるには、 常陸の新治にいはり・筑波つくばを過すぎて幾夜いくよ寢ねたか。 ここにその火ひを燒たいている老人が續いて、 日數ひかず重かさねて、夜よは九夜ここのよで日ひは十日とおかでございます。 と歌いました。そこでその老人を譽めて、吾妻あずまの國の造になさいました。 かくてその國から信濃の國にお越えになつて、そこで信濃の坂の神を平らげ、尾張の國に還つておいでになつて、先に約束しておかれたミヤ ズ姫のもとにおはいりになりました。ここで御馳走を獻る時に、ミヤズ姫がお酒盃を捧げて獻りました。しかるにミヤズ姫の打掛うちかけの 裾に月の物がついておりました。それを御覽になつてお詠み遊ばされた歌は、 仰あおぎ見る天あめの香具山かぐやま 鋭するどい鎌のように横ぎる白鳥はくちよう。 そのようなたおやかな弱腕よわうでを 抱だこうとはわたしはするが、 寢ねようとはわたしは思うが、 あなたの著きている打掛うちかけの裾に 月つきが出ているよ。 そこでミヤズ姫が、お歌にお答えしてお歌いなさいました。 照り輝く日のような御子みこ樣 御威光すぐれたわたしの大君樣。 新しい年が來て過ぎて行けば、 新しい月は來て過ぎて行きます。 ほんとうにまああなた樣をお待ちいたしかねて わたくしのきております打掛の裾に 月も出るでございましようよ。 そこで御結婚遊ばされて、その佩びておいでになつた草薙の劒をミヤズ姫のもとに置いて、イブキの山の神を撃ちにおいでになりました。 望郷の歌 そこで「この山の神は空手からてで取つて見せる」と仰せになつて、その山にお登りになつた時に、山のほとりで白い猪に逢あいました。 その大きさは牛ほどもありました。そこで大言して、「この白い猪になつたものは神の從者だろう。今殺さないでも還る時に殺して還ろう」 と仰せられて、お登りになりました。そこで山の神が大氷雨だいひよううを降らしてヤマトタケルの命を打ち惑わしました。この白い猪に化 けたものは、この神の從者ではなくして、正體であつたのですが、命が大言されたので惑わされたのです。かくて還つておいでになつて、 玉倉部たまくらべの清水に到つてお休みになつた時に、御心がややすこしお寤さめになりました。そこでその清水を居寤いさめの清水と言う のです。其處からお立ちになつて當藝たぎの野の上においでになつた時に仰せられますには、「わたしの心はいつも空を飛んで行くと思つて いたが、今は歩くことができなくなつて、足がぎくぎくする」と仰せられました。依つて其處を當藝たぎといいます。其處からなお少しおい でになりますのに、非常にお疲れなさいましたので、杖をおつきになつてゆるゆるとお歩きになりました。そこでその地を杖衝つえつき坂と いいます。尾津おつの埼の一本松のもとにおいでになりましたところ、先に食事をなさつた時に其處にお忘れになつた大刀が無くならないで ありました。そこでお詠み遊ばされたお歌、 尾張の國に眞直まつすぐに向かつている 尾津の埼の 一本松よ。お前。 一本松が人だつたら 大刀を佩はかせようもの、着物を著せようもの、 一本松よ。お前。 其處からおいでになつて、三重みえの村においでになつた時に、また「わたしの足は、三重に曲つた餅のようになつて非常に疲れた」と仰せ られました。そこでその地を三重といいます。 其處からおいでになつて、能煩野のぼのに行かれました時に、故郷をお思いになつてお歌いになりましたお歌、 大和は國の中の國だ。 重かさなり合つている青い垣、 山に圍まれている大和は美しいなあ。 命が無事だつた人は、 大和の國の平群へぐりの山の りつぱなカシの木の葉を 頭插かんざしにお插しなさい。お前たち。 とお歌いになりました。この歌は思國歌くにしのびうたという名の歌です。またお歌い遊ばされました。 なつかしのわが家やの方ほうから雲が立ち昇つて來るわい。 これは片歌かたうたでございます。この時に、御病氣が非常に重くなりました。そこで、御歌みうたを、 孃子おとめの床とこのほとりに わたしの置いて來た良よく切れる大刀たち、 あの大刀たちはなあ。 と歌い終つて、お隱れになりました。そこで急使を上せて朝廷に申し上げました。 白鳥の陵 ここに大和においでになるお妃たちまた御子たちが皆下つておいでになつて、御墓を作つてそのほとりの田に這いつてお泣きになつてお歌い になりました。 周まわりの田の稻の莖くきに、 稻の莖に、 這い繞めぐつているツルイモの蔓つるです。 しかるに其處から大きな白鳥になつて天に飛んで、濱に向いて飛んでおいでになりましたから、そのお妃たちや御子たちは、其處の篠竹しの だけの苅株かりくいに御足が切り破れるけれども、痛いのも忘れて泣く泣く追つておいでになりました。その時の御歌は、 小篠こざさが原を行き惱なやむ、 空中からは行かずに、歩あるいて行くのです。 また、海水にはいつて、海水の中を骨を折つておいでになつた時の御歌、 海うみの方ほうから行ゆけば行き惱なやむ。 大河原おおかはらの草のように、 海や河かわをさまよい行く。 また飛んで、其處の磯においで遊ばされた時の御歌、 濱の千鳥、濱からは行かずに磯傳いをする。 この四首の歌は皆そのお葬式に歌いました。それで今でもその歌は天皇の御葬式に歌うのです。そこでその國から飛び翔たつておいでになつ て、河内の志幾しきにお留まりなさいました。そこで其處に御墓を作つて、お鎭まり遊ばされました。しかしながら、また其處から更に空を 飛んでおいでになりました。すべてこのヤマトタケルの命が諸國を平定するためにつておいでになつた時に、久米の直あたえの祖先のナナツ カハギという者がいつもお料理人としてお仕え申しました。 ヤマトタケルの命の系譜 このヤマトタケルの命が、垂仁天皇の女、フタヂノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、タラシナカツ彦の命お一方です。またかの 海におはいりになつたオトタチバナ姫の命と結婚してお生みになつた御子はワカタケルの王お一方です。また近江のヤスの國の造の祖先のオ ホタムワケの女のフタヂ姫と結婚してお生みになつた御子はイナヨリワケの王お一方です。また吉備の臣タケ彦の妹の大吉備のタケ姫と結婚 してお生みになつた御子は、タケカヒコの王お一方です。また山代やましろのククマモリ姫と結婚してお生みになつた御子はアシカガミワケ の王お一方です。またある妻の子は、オキナガタワケの王です。すべてこのヤマトタケルの命の御子たちは合わせて六人ありました。 それでタラシナカツ彦の命(仲哀天皇)は天下をお治めなさいました。次にイナヨリワケの王は、犬上の君・建部の君等の祖先です。次にタ ケカヒコの王は、讚岐の綾の君・伊勢の別・登袁とおの別・麻佐の首おびと・宮の首の別等の祖先です。アシカガミワケの王は、鎌倉の別・ 小津の石代いわしろの別・漁田すなきだの別の祖先です。次にオキナガタワケの王の子、クヒマタナガ彦の王、この王の子、イヒノノマクロ 姫の命・オキナガマワカナカツ姫・弟姫のお三方です。そこで上に出たワカタケルの王が、イヒノノマクロ姫と結婚して生んだ子はスメイロ オホナカツ彦の王、この王が、近江のシバノイリキの女のシバノ姫と結婚して生んだ子はカグロ姫の命です。オホタラシ彦の天皇がこのカグ ロ姫の命と結婚してお生みになつた御子はオホエの王のお一方です。この王が庶妹シロガネの王と結婚して生んだ子はオホナガタの王とオホ ナカツ姫のお二方です。そこでこのオホナカツ姫の命は、カゴサカの王・オシクマの王の母君です。 このオホタラシ彦の天皇の御年百三十七歳、御陵は山の邊の道の上にあります。 |
2019/07/06 13:18:16
【系譜】
雄略天皇の第三皇子(白髪皇子)。母は、葛城韓媛。后妃なし、従って皇子女もなし。在位:5年。
【略歴】
御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪であったため、父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。
雄略天皇23年8月、雄略天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵を占拠し、権勢を縦にしたため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる(星川皇子の乱)。翌年正月に即位。
皇子がいないことを気に病んでいたが、清寧天皇2年、市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報を得、勅使を立てて明石に迎えさせる。翌年2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘計王を皇子とした。
『古事記』では2王の発見は天皇崩御後の出来事としている。
【陵墓】
陵は、宮内庁により大阪府羽曳野市西浦6丁目にある河内坂門原陵に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「白髪山古墳」で、墳丘長112メートルの前方後円墳である。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
(ウィキペディアより)
古事記 下の巻-六、清寧天皇 御子のシラガノオホヤマトネコの命(清寧天皇)、大和の磐余いわれの甕栗みかくりの宮においでになつて天下をお治めなさいました。 この天皇は皇后がおありでなく、御子もございませんでした。それで御名の記念として白髮部をお定めになりました。そこで天皇がお隱かく れになりました後に、天下をお治めなさるべき御子がありませんので、帝位につくべき御子を尋ねて、イチノベノオシハワケの王の妹のオシ ヌミの郎女、またの名はイヒトヨの王が、葛城かずらきのオシヌミの高木たかぎのツノサシの宮においでになりました。 シジムの新築祝い ――前に出たイチノベノオシハの王の物語の續きで山部氏によつて傳承したと考えられる。この條は、特殊の文字使用法を有しており、 古事記の編纂の當時、既に書かれた資料があつたようである。―― ここに山部やまべの連小楯おだてが播磨の國の長官に任命されました時に、この國の人民のシジムの家の新築祝いに參りました。そこで盛ん に遊んで、酒酣たけなわな時に順次に皆舞いました。その時に火焚ひたきの少年が二人竈かまどの傍におりました。依つてその少年たちに舞 わしめますに、一人の少年が「兄上、まずお舞まいなさい」というと、兄も「お前がまず舞まいなさい」と言いました。かように讓り合つて いるので、その集まつている人たちが讓り合う有樣を笑いました。遂に兄がまず舞い、次に弟が舞おうとする時に詠じました言葉は、 武士であるわが君のお佩きになつている大刀の柄つかに、赤い模樣を畫き、その大刀の緒には赤い織物を裁たつて附け、立つて見やれば、向 うに隱れる山の尾の上の竹を刈り取つて、その竹の末を押し靡なびかせるように、八絃の琴を調べたように、天下をお治めなされたイザホワ ケの天皇の皇子のイチノベノオシハの王の御子みこです。わたくしは。 と述べましたから、小楯が聞いて驚いて座席から落ちころんで、その家にいる人たちを追い出して、そのお二人の御子を左右の膝の上にお据 え申し上げ、泣き悲しんで民どもを集めて假宮を作つて、その假宮にお住ませ申し上げて急使を奉りました。そこでその伯母樣のイヒトヨの 王がお喜びになつて、宮に上らしめなさいました。 歌垣 そこで天下をお治めなされようとしたほどに、平群へぐりの臣の祖先のシビの臣が、歌垣の場で、そのヲケの命の結婚なされようとする孃子 の手を取りました。その孃子は菟田うだの長の女のオホヲという者です。そこでヲケの命も歌垣にお立ちになりました。ここにシビが歌いま すには、 御殿のちいさい方の出張りは、隅が曲つている。 かく歌つて、その歌の末句を乞う時に、ヲケの命のお歌いになりますには、 大工が下手へただつたので隅が曲つているのだ。 シビがまた歌いますには、 王子樣の御心がのんびりしていて、 臣下の幾重にも圍つた柴垣に 入り立たずにおられます。 ここに王子がまた歌いますには、 潮の寄る瀬の浪の碎けるところを見れば 遊んでいるシビ魚の傍に 妻が立つているのが見える。 シビがいよいよ怒いかつて歌いますには、 王子樣の作つた柴垣は、 節だらけに結びしてあつて、 切れる柴垣の燒ける柴垣です。 ここに王子がまた歌いますには、 大おおきい魚の鮪しびを突く海人よ、 その魚が荒れたら心戀しいだろう。 鮪しびを突く鮪しびの臣おみよ。 かように歌つて歌を掛け合い、夜をあかして別れました。翌朝、オケの命・ヲケの命お二方が御相談なさいますには、「すべて朝廷の人たち は、朝は朝廷に參り、晝はシビの家に集まります。そこで今はシビがきつと寢ねているでしよう。その門には人もいないでしよう。今でなく ては謀り難いでしよう」と相談されて、軍を興してシビの家を圍んでお撃ちになりました。 ここでお二方ふたかたの御子たちが互に天下をお讓りになつて、オケの命が、その弟ヲケの命にお讓り遊ばされましたには、「播磨の國のシ ジムの家に住んでおつた時に、あなたが名を顯わさなかつたなら天下を治める君主とはならなかつたでしよう。これはあなた樣のお手柄であ ります。ですから、わたくしは兄ではありますが、あなたがまず天下をお治めなさい」と言つて、堅くお讓りなさいました。それでやむこと を得ないで、ヲケの命がまず天下をお治めなさいました。 |
2019/07/06 13:46:07
【系譜】
継体天皇の長子。母は尾張目子媛(おわりのめのこひめ、尾張連草香女)。
皇后は春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ。仁賢天皇の皇女)記紀に皇子女の記述はない。
【事績】
継体天皇の後を受けて、66歳にして即位したが、わずか4年で崩御した。
安閑天皇の治世の出来事として『安閑記』に、関東から九州までの屯倉の大量設置と、41箇所の屯倉の名が列挙され、これに伴う犬養部の設置が記されている。
後世、神仏習合の教説で蔵王権現と同一視されたため、明治時代の神仏分離以降に、従来蔵王権現を祭神としていた神社で安閑天皇を祭神とし直したところが多い。
【陵墓】
陵は、宮内庁により大阪府羽曳野市古市5丁目にある古市高屋丘陵に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「高屋築山古墳」で、墳丘長122メートルの前方後円墳である。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
古事記 下の巻-七、安閑天皇 御子のヒロクニオシタケカナヒの王(安閑天皇)、大和の勾まがりの金箸かなはしの宮においでになつて、天下をお治めなさいました。 この天皇は御子がございませんでした。乙卯きのとうの年の三月十三日にお隱れになりました。 御陵は河内の古市の高屋の村にあります。 |
2019/07/06 13:53:24
城山姥不動明王縁起
「抑も呼称城山とは地元現存高野街道不動坂上東西五町南北八町い及ぶ高台一帯で古来源家を始祖とする畠山累代の高屋城址にして南北朝争乱時代の攻防巨據点たりし居城も既に壊滅廃墟正平二年このかた六百余年経過の今日夏草の老い茂るつわ者共の夢の跡を偲ぶ古城の史跡地を呼称するものである。 さて移築の現姥不動明王(旧称伯母不動)は嘗ての居城唯一の守護神で歴代城主の慰霊の祖神として奉祀せる本街道の道祖神として今尚香煙絶ゆる事なき歴然たるを縁起とす。依つて爰に既述著名の城跡と関連併記せしものにして往来頻繁の本街道を去来する老若男女の来拝萬徳の道祖神たらしめんとするにあり。因に本碑文は地元旧家森田家秘蔵の文献より抜粋せるものなり。 昭和54年7月吉日」(碑文)
2019/07/06 14:00:27
【系譜】
父:仁賢天皇
母:和珥糠君娘
異母兄弟:高橋大娘皇女・朝嬬皇女・手白香皇女・樟氷皇女・橘仲皇女・武烈天皇
夫:安閑天皇
【概要】(日本書紀)
継体天皇7年(513年)9月、勾大兄皇子(後の安閑天皇)の妃となった。安閑天皇元年3月6日(534年4月4日)に、安閑天皇の皇后に立后された。翌4月、伊甚国造稚子が後宮に乱入するというハプニングがあり、その贖罪のため伊甚屯倉が献上された。
宣化天皇崩御後に即位前の欽明天皇に登極を勧められたが辞退したとあり、これは、初の女性天皇である推古天皇即位前の出来事である。宣化天皇5年12月5日(539年12月30日)、欽明天皇即位と同時に皇太后に立てられた。
没年は不明であるが、没後安閑天皇の妹の神前皇女とともに、安閑天皇の御陵旧市高屋丘陵に合葬された。
2019/07/06 14:24:55
【主祭神】
日本武尊 稲田姫命(頗梨采女) 素戔嗚命(牛頭天王)
【歴 史】
元は軽里の西方の伊岐谷にある白鳥陵の頂に鎮座し、「伊岐宮(いきのみや)」と呼ばれていた。南北朝・戦国の兵火により衰微し、峯ヶ塚古墳の頂の小祠として祀られてきたが、1596年(慶長9年)の慶長の大地震で倒壊し、そのまま放置されていた。1784年(天明4年)に古市の氏神として現在地に移された。(ウィキペディアより)
2019/07/06 14:30:09