20190625-古市古墳群-1

マーカーリスト

古市古墳-1

GPSログ解析

開始日時2019/06/25 10:44:42終了日時2019/06/25 14:56:16
水平距離11.28km沿面距離11.37km
経過時間4時間11分34秒移動時間3時間16分30秒
徒歩距離19.01km徒歩合計22,500歩
全体平均速度2.71km/h移動平均速度3.40km/h
最高高度50m最低高度8m

行程:
 近鉄高鷲駅 ⇒ 第21代雄略天皇 丹比高鷲原陵 ⇒ 津堂城山古墳(復元の石棺が展示) ⇒ 第15代応神天皇 恵我藻伏岡陵 ⇒
 仲津山古墳(仲津姫命陵) ⇒ 第19代允恭天皇 恵我長野北陵 ⇒ 道明寺天満宮(巨大修羅/さざれ石/土師氏)⇒ 近鉄道明寺駅
 全日:8時間30分 16.01km 22,500歩
 ※ 炎天下迷いながら歩いて予定の半分で切り上げた。あと半分は後日



  ※ 古事記に関連ある場所では、その記載箇所を現代語訳で表示。
  (あおぞら文庫より武田祐吉訳を拝借して一部変更。又、竹田恒泰著:現代語古事記を参考)

写真レポート


高鷲駅

2019/06/25 10:45:33

高鷲駅



2019/06/25 10:55:41

第21代雄略天皇 丹比高鷲原陵(島泉平塚古墳)

第21代雄略天皇 丹比高鷲原陵 第21代雄略天皇 丹比高鷲原陵

丹比高鷲原陵後円部

第21代雄略天皇 後円部

【雄略天皇(大長谷若建命オオハツセワカタケル)】
「記紀」によれば兄である20代安康天皇の死によって即位し、反抗的な地方豪族を武力でねじ伏せてヤマト王権の力を飛躍的に拡大させ、強力な専制君主として君臨したとされる。 それまでの倭国は各地の有力豪族による連合体であったが、雄略の登場により大王による専制支配が確立され、大王を中心とする中央集権体制が始まったとする見方もある。 埼玉県の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘や熊本県の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘に刻まれた「獲加多支鹵大王」を『記紀』に記された雄略の実名である「ワカタケル」と解し、実在の証とする説が有力である。また『宋書』・『梁書』における「倭の五王」中の武にも比定される。
【(国宝)稲荷山古墳出土鉄剣】
「銘文の内容」
(表)辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比?其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
(裏)其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

(Wikipediaより)



古事記 下の巻五/雄略天皇

后妃と皇子女
 オホハツセノワカタケの命(雄略天皇)、大和の長谷はつせの朝倉の宮においでになつて天下をお治めなさいました。天皇はオホクサカの王
 の妹のワカクサカベの王と結婚しました。御子はございません。またツブラオホミの女のカラ姫と結婚してお生みになつた御子は、シラガの
 命・ワカタラシの命お二方です。そこでシラガの太子の御名の記念として白髮部しらがべをお定めになり、また長谷部はつせべの舍人、河瀬
 の舍人をお定めになりました。この御世に大陸から呉人くれびとが渡つて參りました。その呉人を置きましたので呉原くれはらというのです。

ワカクサカベの王
――以下、多くは歌を中心とした短篇の物語が、この天皇の御事蹟として語り傳えられている。長谷はつせの天皇として、傳説上の英雄とな
 つておいでになつたのである。――
 初め皇后樣が河内の日下くさかにおいでになつた時に、天皇が日下の直越ただごえの道を通つて河内においでになりました。依つて山の上に
 お登りになつて國内を御覽になりますと、屋根の上に高く飾り木をあげて作つた家があります。天皇が、お尋ねになりますには「あの高く木
 をあげて作つた家は誰の家か」と仰せられましたから、お伴の人が「シキの村長の家でございます」と申しました。そこで天皇が仰せになる
 には、「あの奴やつは自分の家を天皇の宮殿に似せて造つている」と仰せられて、人を遣わしてその家をお燒かせになります時に、村長が畏
 れ入つて拜禮して申しますには、「奴のことでありますので、分を知らずに過つて作りました。畏れ入りました」と申しました。そこで獻上
 物を致しました。白い犬に布をかけて鈴をつけて、一族のコシハキという人に犬の繩を取らせて獻上しました。依つてその火をつけることを
 おやめなさいました。そこでそのワカクサカベの王の御許おんもとにおいでになつて、その犬をお贈りになつて仰せられますには、「この物
 は今日道で得ためずらしい物だ。贈物としてあげましよう」と言つて、くださいました。この時にワカクサカベの王が申し上げますには、「
 日を背中にしておいでになることは畏れ多いことでございます。依つてわたくしが參上してお仕え申しましよう」と申しました。かくして皇
 居にお還りになる時に、その山の坂の上にお立ちになつて、お歌いになりました御歌、
 
 この日下部くさかべの山と
 向うの平群へぐりの山との
 あちこちの山のあいだに
 繁つている廣葉のりつぱなカシの樹、
 その樹の根もとには繁つた竹が生え、
 末の方にはしつかりした竹が生え、
 その繁つた竹のように繁くも寢ず
 しつかりした竹のようにしかとも寢ず
 後にも寢ようと思う心づくしの妻は、ああ。

 この歌をその姫の許に持たせてお遣りになりました。
 
引田部の赤猪子
――三輪山のほとりで語り傳えられた物語。――
 また或る時、三輪河にお遊びにおいでになりました時に、河のほとりに衣を洗う孃子がおりました。美しい人でしたので、天皇がその孃子に
 「あなたは誰ですか」とお尋ねになりましたから、「わたくしは引田部ひけたべの赤猪子あかいこと申します」と申しました。そこで仰せら
 れますには、「あなたは嫁に行かないでおれ。お召しになるぞ」と仰せられて、宮にお還りになりました。そこでその赤猪子が天皇の仰せを
 お待ちして八十年經ました。ここに赤猪子が思いますには、「仰せ言を仰ぎ待つていた間に多くの年月を經て容貌もやせ衰えたから、もはや
 恃むところがありません。しかし待つておりました心を顯しませんでは心憂くていられない」と思つて、澤山の獻上物を持たせて參り出て獻
 りました。しかるに天皇は先に仰せになつたことをとくにお忘れになつて、その赤猪子に仰せられますには、「お前は何處のお婆さんか。ど
 ういうわけで出て參つたか」とお尋ねになりましたから、赤猪子が申しますには「昔、何年何月に天皇の仰せを被つて、今日まで御命令をお
 待ちして、八十年を經ました。今、もう衰えて更に恃むところがございません。しかしわたくしの志を顯し申し上げようとして參り出たので
 ございます」と申しました。そこで天皇が非常にお驚きになつて、「わたしはとくに先の事を忘れてしまつた。それだのにお前が志を變えず
 に命令を待つて、むだに盛んな年を過したことは氣の毒だ」と仰せられて、お召しになりたくはお思いになりましたけれども、非常に年寄つ
 ているのをおくやみになつて、お召しになり得ずに歌をくださいました。その御歌は、

 御諸みもろ山の御神木のカシの樹のもと、
 そのカシのもとのように憚られるなあ、
 カシ原はらのお孃さん。
 またお歌いになりました御歌は、
 引田ひけたの若い栗の木の原のように
 若いうちに結婚したらよかつた。
 年を取つてしまつたなあ。

 かくて赤猪子の泣く涙に、著ておりました赤く染めた袖がすつかり濡れました。そうして天皇の御歌にお答え申し上げた歌、

 御諸山に玉垣を築いて、
 築き殘して誰に頼みましよう。
 お社の神主さん。

 また歌いました歌、

 日下江くさかえの入江に蓮はすが生えています。
 その蓮の花のような若盛りの方は
 うらやましいことでございます。

 そこでその老女に物を澤山に賜わつて、お歸しになりました。この四首の歌は靜歌しずうたです。

 吉野の宮
――吉野での物語二篇。――
 天皇が吉野の宮においでになりました時に、吉野川のほとりに美しい孃子がおりました。そこでこの孃子を召して宮にお還りになり ました。
 後に更に吉野においでになりました時に、その孃子に遇いました處にお留まりになつて、其處にお椅子を立てて、そのお椅 子においでにな
 つて琴をお彈きになり、その孃子に舞まわしめられました。その孃子は好く舞いましたので、歌をお詠みになりました。その御歌は、

 椅子にいる神樣が御手みてずから
 彈かれる琴に舞を舞う女は
 永久にいてほしいことだな。

 それから吉野のアキヅ野においでになつて獵をなさいます時に、天皇がお椅子においでになると、虻あぶが御腕を咋くいましたのを、 蜻蛉
 とんぼが來てその虻を咋つて飛んで行きました。そこで歌をお詠みになりました。その御歌は、

 吉野のヲムロが嶽たけに
 猪ししがいると
 陛下に申し上げたのは誰か。
 天下を知ろしめす天皇は
 猪を待つと椅子に御座ぎよざ遊ばされ
 白い織物のお袖で裝うておられる
 御手の肉に虻が取りつき
 その虻を蜻蛉とんぼがはやく食い、
 かようにして名を持とうと、
 この大和の國を
 蜻蛉島あきづしまというのだ。

 その時からして、その野をアキヅ野というのです。

 葛城山
――葛城山に關する物語二篇。――
 また或る時、天皇が葛城山の上にお登りになりました。ところが大きい猪が出ました。天皇が鏑矢かぶらやをもつてその猪をお射になります
 時に、猪が怒つて大きな口をあけて寄つて來ます。天皇は、そのくいつきそうなのを畏れて、ハンの木の上にお登りになりました。そこでお
 歌いになりました御歌、

 天下を知ろしめす天皇の
 お射になりました猪の
 手負い猪のくいつくのを恐れて
 わたしの逃げ登つた
 岡の上のハンの木の枝よ。

 また或る時、天皇が葛城山に登つておいでになる時に、百官の人々は悉く紅い紐をつけた青摺あおずりの衣を給わつて著ておりました。その
 時に向うの山の尾根づたいに登る人があります。ちようど天皇の御行列のようであり、その裝束の樣もまた人たちもよく似てわけられません。
 そこで天皇が御覽遊ばされてお尋ねになるには、「この日本の國に、わたしを除いては君主はないのであるが、かような形で行くのは誰であ
 るか」と問わしめられましたから、答え申す状もまた天皇の仰せの通りでありました。そこで天皇が非常にお怒りになつて弓に矢を番つがえ、
 百官の人々も悉く矢を番えましたから、向うの人たちも皆矢を番えました。そこで天皇がま たお尋ねになるには、「それなら名を名のれ。
 おのおの名を名のつて矢を放とう」と仰せられました。そこでお答え申しますには、「わたしは先に問われたから先に名のりをしよう。わた
 しは惡い事も一言、よい事も一言、言い分ける神である葛城の一言主ひとことぬしの大神だ」と仰せられました。そこで天皇が畏かしこまつ
 て仰せられますには、「畏れ多い事です。わが大神よ。かように現實の形をお持ちになろうとは思いませんでした」と申されて、御大刀また
 弓矢を始めて、百官の人どもの著ております衣服を脱がしめて、拜んで獻りました。そこでその一言主の大神も手を打つてその贈物を受けら
 れました。かくて天皇のお還りになる時に、その大神は山の末に集まつて、長谷はつせの山口までお送り申し上げました。この一言主の大神
 はその時に御出現になつたのです。

 春日のヲド姫と三重の采女
――三重の采女の物語を中に插んで前後に春日のヲド姫の物語がある。春日氏については、中卷の蟹の歌の條參照。三重の采女の歌は
 別の歌曲である。――
 また天皇、丸邇わにのサツキの臣の女のヲド姫と結婚をしに春日においでになりました時に、その孃子が道で逢つて、おでましを見て岡邊に
 逃げ隱れました。そこで歌をお詠みになりました。その御歌は、

 お孃さんの隱れる岡を
 じようぶなすきが澤山あつたらよいなあ、
 鋤すき撥はらつてしまうものを。

 そこでその岡を金かなすきの岡と名づけました。また天皇が長谷の槻の大樹の下においでになつて御酒宴を遊ばされました時に、伊勢の國の
 三重から出た采女うねめが酒盃さかずきを捧げて獻りました。然るにその槻の大樹の葉が落ちて酒盃に浮びました。采女は落葉が酒盃に浮ん
 だのを知らないで大御酒おおみきを獻りましたところ、天皇はその酒盃に浮んでいる葉を御覽になつて、その采女を打ち伏せ御刀をその頸に
 刺し當ててお斬り遊ばそうとする時に、その采女が天皇に申し上げますには「わたくしをお殺しなさいますな。申すべき事がございます」と
 言つて、歌いました歌、

 纏向まきむくの日代ひしろの宮は
 朝日の照り渡る宮、
 夕日の光のさす宮、
 竹の根のみちている宮、
 木の根の廣がつている宮です。
 多くの土を築き堅めた宮で、
 りつぱな材木の檜ひのきの御殿です。
 その新酒をおあがりになる御殿に生い立つている
 一杯に繁つた槻の樹の枝は、
 上の枝は天を背おつています。
 中の枝は東國を背おつています。
 下の枝は田舍いなかを背おつています。
 その上の枝の枝先の葉は
 中の枝に落ちて觸れ合い、
 中の枝の枝先の葉は
 下の枝に落ちて觸れ合い、
 下の枝の枝先の葉は、
 衣服を三重に著る、その三重から來た子の
 捧げているりつぱな酒盃さかずきに
 浮いた脂あぶらのように落ち漬つかつて、
 水音もころころと、
 これは誠に恐れ多いことでございます。
 尊い日の御子樣。
 事の語り傳えはかようでございます。

 この歌を獻りましたから、その罪をお赦しになりました。そこで皇后樣のお歌いになりました御歌は、

 大和の國のこの高町で
 小高くある市の高臺の、
 新酒をおあがりになる御殿に生い立つている
 廣葉の清らかな椿の樹、
 その葉のように廣らかにおいで遊ばされ
 その花のように輝いておいで遊ばされる
 尊い日の御子樣に
 御酒をさしあげなさい。
 事の語り傳えはかようでございます。

 天皇のお歌いになりました御歌は、

 宮廷に仕える人々は、
 鶉うずらのように頭巾ひれを懸けて、
 鶺鴒せきれいのように尾を振り合つて
 雀のように前に進んでいて
 今日もまた酒宴をしているもようだ。
 りつぱな宮廷の人々。
 事の語り傳えはかようでございます。

 この三首の歌は天語歌あまがたりうたです。その御酒宴に三重の采女を譽めて、物を澤山にくださいました。
 この御酒宴の日に、また春日のヲド姫が御酒を獻りました時に、天皇のお歌いになりました歌は、

 水みずのしたたるようなそのお孃さんが、
 銚子ちようしを持つていらつしやる。
 銚子を持つならしつかり持つていらつしやい。
 力ちからを入れてしつかりと持つていらつしやい。
 銚子を持つていらつしやるお孃さん。

 これは宇岐歌うきうたです。ここにヲド姫の獻りました歌は、

 天下を知ろしめす天皇の
 朝戸にはお倚より立ち遊ばされ
 夕戸ゆうどにはお倚り立ち遊ばされる
 脇息きようそくの下の
 板にでもなりたいものです。あなた。

 これは志都歌しずうたです。
 天皇は御年百二十四歳、己巳つちのとみの年の八月九日にお隱れになりました。
 御陵は河内の多治比たじひの高鷲たかわしにあります。



2019/06/25 11:32:05

津堂城山古墳(允恭天皇藤井寺陵墓参考地)

津堂城山古墳(允恭天皇藤井寺陵墓参考地)

概要
前方部は南東を向き、二重の周濠が墳丘を囲んでいる。外側の周濠は宅地や田畑となっているが、これを含めると古墳の全長は400m以上になる。 これまでの発掘調査などから築造は4世紀後半とみられ、古市古墳群の中でも初期の古墳であり、誉田山古墳よりも先行する。室町時代には古墳の地形を利用して小山城が築かれたため、墳丘の一部が掘削されている。明治初期の天皇陵の治定作業では陵墓とされなかったが、1912年に、神社に建立する石碑の材料とするため、後円部の墳丘から石板を発掘したことがきっかけで竪穴式石室と巨大な長持形石棺が発見され、鏡や鏃などの副葬品が多数出土した。そのため、後に「藤井寺陵墓参考地(※後円部のみ)」に治定された。(Wikipediaより)
藤井寺陵墓参考地(※後円部のみ) 津堂八幡神社



復元された石棺

復元された石棺

この石棺は、津堂城山古填の後円部頂に埋設されていた長持形石棺の実物大のレブリカです。6枚の板石を 組み合わせてつくられ,蓋石上面には,格子状の彫り込みがあります。また蓋石,側石,底石には縄掛け突起が, 小口石には方形突起が付加されています。この巨大て精巧かつ装飾性豊かな長持形石棺は,古墳時代中期の 大型前方後円墳に採用された棺の典型例と考えられています。 石棺の復元にあたっては,梅原末治,坪井正五郎先生が残された因面や報告文,及び明治末(1912)年の 発掘時撮影の写真を参考にしました。石材には兵庫県高砂市産の竜山石を使用しています。なお石棺は後円 部の埋葬施設に設置された段階で赤色顔料で全体を彩色されたと推定されます。
復元された石棺




参考サイト <---ココ詳しい
藤井寺陵墓参考地(後円部頂)・国史跡

(石槨の天井石)



復元された石棺 復元された石棺 復元された石棺

2019/06/25 12:32:22

第15代応神天皇 恵我藻伏岡陵

第15代応神天皇 恵我藻伏岡陵

略歴
仲哀天皇の第四皇子。母は神功皇后。異母兄に香坂王皇子と忍熊皇子がいる。神功皇后の三韓征伐の帰途に筑紫の宇瀰、または蚊田で生まれた。仲哀天皇が崩御して十月十日後のことである。胎中天皇という異名があり生まれながらの君主であり、これに抵抗した異母兄たちが叛乱(古事記中の巻「第14代仲哀天皇」の条に「香坂王皇子と忍熊皇子の反逆」として記載)を起こしたものの神功皇后によって鎮圧された。即位まで母の神功皇后が摂政。神功皇后摂政3年に太子となった。
即位2年、仲姫命を皇后として大鷦鷯尊(仁徳天皇)らを得た。即位6年、近江へ行幸。このとき宮主矢河枝比売を娶り菟道稚郎子と八田皇女を得た。在位中には様々な渡来人の来朝があった。韓人には池を作らせたほか蝦夷や海人を平定して山海の部民を定めた。名のある渡来人には弓月君、阿直岐、王仁、阿知使主といった人物がおり、弓月君は秦氏の祖である。王仁によって論語と千字文、すなわち儒教と漢字が伝わった。また即位37年、阿知使主と子の都加使主は縫製の女工を求めるため呉に派遣された。神功皇后紀における『魏志』と現存しない『晋起居注』の引用を除けば、これが『日本書紀』における中国関連最初の記事である。即位40年、菟道稚郎子を立太子。即位41年に111歳で崩御。『古事記』に130歳。 後世、皇祖神の八幡大菩薩として武家の崇敬を集め、武神ともされた。(Wikipediaより)


第15代応神天皇 恵我藻伏岡陵 第15代応神天皇 恵我藻伏岡陵

古事記 中巻-6/応神天皇

后妃と皇子女
 ホムダワケの命(應神天皇)、大和の輕島かるしまの明あきらの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇はホムダノマワカの
 王の女王お三方と結婚されました。お一方は、タカギノイリ姫の命、次は中姫の命、次は弟姫の命であります。この女王たちの御父、ホムダノ
 マワカの王はイホキノイリ彦の命が、尾張の直の祖先のタケイナダの宿禰の女のシリツキトメと結婚して生んだ子であります。そこでタカギノ
 イリ姫の生んだ御子みこは、ヌカダノオホナカツヒコの命・オホヤマモリの命・イザノマワカの命・オホハラの郎女いらつめ・タカモクの郎女
 いらつめの御おん五方かたです。中姫の命(仲津姫命)の生んだ御子みこは、キノアラタの郎女いらつめ・オホサザキの命(仁徳天皇)・ネト
 リの命のお三方です。弟姫の命の御子は、阿部あべの郎女・アハヂノミハラの郎女・キノウノの郎女・ミノの郎女のお五方です。また天皇、ワ
 ニノヒフレのオホミの女のミヤヌシヤガハエ姫と結婚してお生うみになつた御子みこは、ウヂの若郎子わきいらつこ・ヤタの若郎女わきいらつ
 め・メトリの王のお三方です。またそのヤガハエ姫の妹ヲナベの郎女と結婚してお生みになつた御子は、ウヂの若郎女お一方です。またクヒマ
 タナガ彦の王の女のオキナガマワカナカツ姫と結婚してお生みになつた御子はワカヌケフタマタの王お一方です。また櫻井の田部たべの連の祖
 先そせんのシマタリネの女のイトヰ姫と結婚してお生みになつた御子はハヤブサワケの命お一方です。また日向のイヅミノナガ姫と結婚してお
 生みになつた御子はオホハエの王・ヲハエの王・ハタビの若郎女のお三方です。またカグロ姫と結婚してお生みになつた御子はカハラダの郎女
 ・タマの郎女・オシサカノオホナカツ姫・トホシの郎女・カタヂの王の御五方です。またカヅラキノノノイロメと結婚してお生みになつた御子
 は、イザノマワカの王お一方です。すべてこの天皇の御子たちは合わせて二十六王おいで遊あそばされました。男王十一人女王十五人です。こ
 の中でオホサザキの命(仁徳天皇)は天下をお治めになりました。

オホヤマモリの命とオホサザキの命
 ここに天皇がオホヤマモリの命とオホサザキの命とに「あなたたちは兄である子と弟である子とは、どちらがかわいいか」とお尋ねなさいまし
 た。天皇がかようにお尋ねになつたわけは、ウヂの若郎子に天下をお授けになろうとする御心がおありになつたからであます。しかるにオホヤ
 マモリの命は、「上の子の方がかわゆく思われます」と申しました。次にオホサザキの命は天皇のお尋ね遊ばされる御心をお知りになつて申さ
 れますには、「大きい方の子は既に人となつておりますから案ずることもございませんが、小さい子はまだ若いのですから愛らしく思われます」
 と申しました。そこで天皇の仰せになりますには、「オホサザキよ、あなたの言うのはわたしの思う通りです」と仰せになつて、そこでそれぞ
 れに詔みことのりを下されて、「オホヤマモリの命は海や山のことを管理なさい。オホサザキの命は天下の政治を執つて天皇に奏上なさい。ウ
 ヂの若郎子は帝位におつきなさい」とお分わけになりました。依つてオホサザキの命は父君の御命令に背きませんでした。

葛野かずのの歌
 或る時、天皇が近江の國へ越えてお出ましになりました時に、宇治野の上にお立ちになつて葛野かずのを御覽になつてお詠みになりました御歌、

 葉の茂しげつた葛野かずのを見れば、
 幾千も富み榮えた家居が見える、
 國の中での良い處が見える。

蟹の歌
 かくて木幡こばたの村においでになつた時に、その道で美しい孃子にお遇いになりました。そこで天皇がその孃子に、「あなたは誰の子か」と
 お尋ねになりましたから、お答え申し上げるには、「ワニノヒフレのオホミの女のミヤヌシヤガハエ姫でございます」と申しました。天皇がそ
 の孃子に「わたしが明日還る時にあなたの家にはいりましよう」と仰せられました。そこでヤガハエ姫がその父に詳しくお話しました。依つて
 父の言いますには、「これは天皇陛下でおいでになります。恐れ多いことですから、わが子よ、お仕え申し上げなさい」と言つて、その家をり
 つぱに飾り立て、待つておりましたところ、あくる日においでになりました。そこで御馳走を奉る時に、そのヤガハエ姫にお酒盞さかずきを取
 らせて獻りました。そこで天皇がその酒盞をお取りになりながらお詠み遊ば された歌、

 この蟹かにはどこの蟹だ。
 遠くの方の敦賀つるがの蟹です。
 横歩よこあるきをして何處へ行くのだ。
 イチヂ島・ミ島について、
 カイツブリのように水に潛くぐつて息いきをついて、
 高低のあるササナミへの道を
 まつすぐにわたしが行ゆきますと、
 木幡こばたの道で出逢つた孃子おとめ、
 後姿うしろすがたは楯のようだ。
 齒竝びは椎しいの子みや菱ひしの實のようだ。
 櫟井いちいの丸邇坂わにさかの土つちを
 上うえの土つちはお色いろが赤い、
 底の土は眞黒まつくろゆえ
 眞中まんなかのその中の土を
 かぶりつく直火じかびには當てずに
 畫眉かきまゆを濃く畫いて
 お逢あいになつた御婦人、
 このようにもとわたしの見たお孃さん、
 あのようにもとわたしの見たお孃さんに、
 思いのほかにも向かつていることです。
 添つていることです。

 かくて御結婚なすつてお生うみになつた子がウヂの若郎子わきいらつこでございました。

髮長姫
 また天皇が、日向の國の諸縣むらがたの君の女むすめの髮長姫かみながひめが美しいとお聞きになつて、お使い遊ばそうとして、お召めし上げ
 なさいます時に、太子のオホサザキの命がその孃子の難波津に船つきしているのを御覽になつて、その容姿のりつぱなのに感心なさいまして、
 タケシウチの宿禰すくねにお頼みになるには「この日向からお召し上げになつた髮長姫を、陛下の御もとにお願いしてわたしに賜わるようにし
 てくれ」と仰せられました。依つてタケシウチの宿禰の大臣が天皇の仰せを願いましたから、天皇が髮長姫をその御子にお授けになりました。
 お授けになる樣は、天皇が御酒宴を遊ばされた日に、髮長姫にお酒を注ぐ柏葉かしわを取らしめて、その太子に賜わりました。そこで天皇のお
 詠み遊ばされた歌は、

 さあお前まえたち、野蒜のびる摘つみに
 蒜ひる摘つみにわたしの行く道の
 香こうばしい花橘はなたちばなの樹、
 上の枝は鳥がいて枯らし
 下の枝は人が取つて枯らし、
 三栗みつぐりのような眞中まんなかの枝の
 目立つて見える紅顏のお孃さんを
 さあ手に入れたら宜いでしよう。

 また、

 水のたまつている依網よさみの池の
 堰杙せきくいを打うつてあつたのを知しらずに
 ジュンサイを手繰たぐつて手の延びていたのを知しらずに
 氣のつかない事をして殘念だつた。

 かようにお歌いになつて賜わりました。その孃子を賜わつてから後に太子のお詠みになつた歌、

 遠い國の古波陀こはだのお孃さんを、
 雷鳴かみなりのように音高く聞いていたが、
 わたしの妻つまとしたことだつた。

 また、

 遠い國の古波陀こはだのお孃さんが、
 爭わずにわたしの妻となつたのは、
 かわいい事さね。

國主歌くずうた
 また、吉野のクズどもがオホサザキの命の佩おびておいでになるお刀を見て歌いました歌は、

 天子樣の日の御子である
 オホサザキ樣、
 オホサザキ樣のお佩はきになつている大刀は、
 本は鋭く、切先きつさきは魂あり、
 冬木のすがれの下の木のように
 さやさやと鳴り渡る。

 また吉野のカシの木のほとりに臼を作つて、その臼でお酒を造つて、その酒を獻つた時に、口鼓を撃ち演技をして歌つた歌、

 カシの木の原に横の廣い臼を作り
 その臼に釀かもしたお酒、
 おいしそうに召し上がりませ、
 わたしの父とうさん。

 この歌は、クズどもが土地の産物を獻る時に、常に今でも歌う歌であります。

文化の渡來
 この御世に、海部あまべ・山部・山守部・伊勢部をお定めになりました。劒の池を作りました。また新羅人しらぎびとが渡つて來ましたので、
 タケシウチの宿禰がこれを率ひきいて堤の池に渡つて百濟くだらの池を作りました。また百濟くだらの國王照古王しようこおうが牡馬おうま一
 疋・牝馬めうま一疋をアチキシに付けて貢たてまつりました。このアチキシは阿直あちの史等ふみひとの祖先です。また大刀と大鏡とを貢りま
 した。また百濟の國に、もし賢人があれば貢れと仰せられましたから、命を受けて貢つた人はワニキシといい、論語十卷・千字文じもん一卷、
 合わせて十一卷をこの人に付けて貢りました。また工人の鍛冶屋かじや卓素たくそという者、また機はたを織る西素さいその二人をも貢りまし
 た。秦はたの造みやつこ、漢あやの直あたえの祖先、それから酒を造ることを知しつているニホ、またの名なをススコリという者等も渡つて參
 りました。このススコリはお酒を造つて獻りました。天皇がこの獻つたお酒に浮かれてお詠みになつた歌は、

 ススコリの釀かもしたお酒にわたしは醉いましたよ。
 平和へいわなお酒、樂しいお酒にわたしは醉いましたよ。

 かようにお歌いになつておいでになつた時に、御杖で大坂の道の中にある大石をお打ちになつたから、その石が逃げ走りました。
 それで諺ことわざに「堅い石でも醉人よつぱらいに遇うと逃げる」というのです。

オホヤマモリの命とウヂの若郎子
 かくして天皇がお崩かくれになつてから、オホサザキの命は天皇の仰せのままに天下をウヂの若郎子に讓りました。しかるにオホヤマモリの命
 は天皇の命に背いてやはり天下を獲えようとして、その弟の御子を殺そうとする心があつて、竊に兵士を備えて攻めようとしました。そこでオ
 ホサザキの命はその兄が軍をお備えになることをお聞きになつて、使を遣つてウヂの若郎子に告げさせました。依つてお驚きになつて、兵士を
 河のほとりに隱し、またその山の上にテントを張り、幕を立てて、詐つて召使を王樣として椅子にいさせ、百官が敬禮し往來する樣はあたかも
 王のおいでになるような有樣にして、また兄の王の河をお渡りになる時の用意に、船ふねかじを具え飾り、さな葛かずらという蔓草の根を臼で
 ついて、その汁の滑なめを取り、その船の中の竹簀すのこに塗つて、蹈めば滑すべつて仆れるように作り、御子はみずから布の衣裝を著て、賤
 しい者の形になつて棹を取つて立ちました。ここにその兄の王が兵士を隱し、鎧よろいを衣の中に著せて、河のほとりに到つて船にお乘りにな
 ろうとする時に、そのいかめしく飾つた處を見遣つて、弟の王がその椅子においでになるとお思いになつて、棹を取つて船に立つておいでにな
 ることを知らないで、その棹を取つている者にお尋ねになるには、「この山には怒つた大猪があると傳え聞いている。わしがその猪を取ろうと
 思うが取れるだろうか」とお尋ねになりましたから、棹を取つた者は「それは取れますまい」と申しました。また「どうしてか」とお尋ねにな
 つたので、「たびたび取ろうとする者があつたが取れませんでした。それだからお取りになれますまいと申すのです」と申しました。さて、渡
 つて河中に到りました時に、その船を傾けさせて水の中に落し入れました。そこで浮き出て水のまにまに流れ下りました。流れながら歌いまし
 た歌は、

 流れの早い宇治川の渡場に
 棹を取るに早い人はわたしのなかまに來てくれ。

 そこで河の邊に隱れた兵士が、あちこちから一時に起つて矢をつがえて攻めて川を流れさせました。そこでカワラの埼さきに到つて 沈みました。
 それで鉤かぎをもつて沈んだ處を探りましたら、衣の中の鎧にかかつてカワラと鳴りました。依つて其處の名をカワラの埼というのです。その
 屍體を掛け出した時に歌つた弟の王の御歌、

 流れの早い宇治川の渡場に
 渡場に立つている梓弓とマユミの木、
 切ろうと心には思うが
 取ろうと心には思うが、
 本の方では君を思い出し
 末の方では妻を思い出し
 いらだたしく其處で思い出し
 かわいそうに其處で思い出し、
 切らないで來た梓弓とマユミの木。

 そのオホヤマモリの命の屍體をば奈良山に葬りました。このオホヤマモリの命は、土形ひじかたの君・幣岐へきの君・榛原はりはらの君等の祖
 先です。かくてオホサザキの命とウヂの若郎子とお二方、おのおの天下をお讓りになる時に、海人あまが貢物を獻りました。依つて兄の王はこ
 れを拒んで弟の王に獻らしめ、弟の王はまた兄の王に獻らしめて、互にお讓りになる間にあまたの日を經ました。かようにお讓り遊ばされるこ
 とは一度二度でありませんでしたから、海人は往來に疲れて泣きました。それで諺に、「海人だから自分の物ゆえに泣くのだ」というのです。
 しかるにウヂの若郎子は早くお隱れになりましたから、オホサザキの命が天下をお治めなさいました。

天の日矛
 また新羅しらぎの國王の子の天あめの日矛ひほこという者がありました。この人が渡つて參りました。その渡つて來た故は、新羅の國に一つの
 沼がありまして、アグ沼といいます。この沼の邊で或る賤の女が晝寢をしました。其處に日の光が虹のようにその女にさしましたのを、或る賤
 の男がその有樣を怪しいと思つて、その女の状を伺いました。しかるにその女はその晝寢をした時から姙んで、赤い玉を生みました。その伺つ
 ていた賤の男がその玉を乞い取つて、常に包つつんで腰につけておりました。この人は山谷の間で田を作つておりましたから、耕作する人たち
 の飮食物を牛に負わせて山谷の中にはいりましたところ、國王の子の天の日矛が遇いました。そこでその男に言うには、「お前はなぜ飮食物を
 牛に背負わせて山谷にはいるのか。きつとこの牛を殺して食うのだろう」と言つて、その男を捕えて牢に入れようとしましたから、その男が答
 えて言うには、「わたくしは牛を殺そうとは致しません。ただ農夫の食物を送るのです」と言いました。それでも赦しませんでしたから、腰に
 つけていた玉を解いてその國王の子に贈りました。依つてその男を赦して、玉を持つて來て床の邊に置きましたら、美しい孃子になり、遂に婚
 姻して本妻としました。その孃子は、常に種々の珍味を作つて、いつもその夫に進めました。しかるにその國王の子が心奢おごりして妻を詈の
 のしりましたから、その女が「大體わたくしはあなたの妻になるべき女ではございません。母上のいる國に行きましよう」と言つて、竊に小船
 に乘つて逃げ渡つて來て難波に留まりました。これは難波のヒメゴソの社においでになるアカル姫という神です。
 そこで天の日矛がその妻の逃げたことを聞いて、追い渡つて來て難波にはいろうとする時に、その海上の神が、塞いで入れませんでした。依つ
 て更に還つて、但馬たじまの國に船泊はてをし、その國に留まつて、但馬のマタヲの女のマヘツミと結婚して生うんだ子はタヂマモロスクです。
 その子がタヂマヒネ、その子がタヂマヒナラキ、その子は、タヂマモリ・タヂマヒタカ・キヨ彦の三人です。このキヨ彦がタギマノメヒと結婚
 して生うんだ子がスガノモロヲとスガカマユラドミです。上に擧げたタヂマヒタカがその姪めいのユラドミと結婚して生んだ子が葛城のタカヌ
 カ姫の命で、これがオキナガタラシ姫の命(神功皇后)の母君です。この天の日矛の持つて渡つて來た寶物は、玉つ寶という玉の緒に貫いたも
 の二本、また浪振る領巾ひれ・浪切る領巾・風振る領巾・風切る領巾・奧つ鏡・邊つ鏡、合わせて八種です。これらはイヅシの社やしろに祭ま
 つつてある八神です。

秋山の下氷壯夫と春山の霞壯夫
 ここに神の女むすめ、イヅシ孃子という神がありました。多くの神がこのイヅシ孃子を得ようとしましたが得られませんでした。ここに秋山の
 下氷壯夫したひおとこ・春山の霞壯夫かすみおとこという兄弟の神があります。その兄が弟に言いますには、「わたしはイヅシ孃子を得ようと
 思いますけれども得られません。お前はこの孃子を得られるか」と言いましたから、「たやすいことです」と言いました。そこでその兄の言い
 ますには、「もしお前がこの孃子を得たなら、上下の衣服をゆずり、身の丈たけほどに甕かめに酒を造り、また山河の産物を悉く備えて御馳走
 をしよう」と言いました。そこでその弟が兄の言つた通りに詳しく母親に申しましたから、その母親が藤の蔓を取つて、一夜のほどに衣ころも
 ・褌はかま・襪くつした・沓くつまで織り縫い、また弓矢を作つて、衣裝を著せその弓矢を持たせて、その孃子の家に遣りましたら、その衣裝
 も弓矢も悉く藤の花になりました。そこでその春山の霞壯夫が弓矢ゆみやを孃子の厠に懸けましたのを、イヅシ孃子がその花を不思議に思つて、
 持つて來る時に、その孃子のうしろに立つて、その部屋にはいつて結婚をして、一人の子を生みました。そこでその兄に「わたしはイヅシ孃子
 を得ました」と言う。しかるに兄は弟の結婚したことを憤つて、その賭けた物を償いませんでした。依つてその母に訴えました。母親が言うに
 は、「わたしたちの世の事は、すべて神の仕業に習うものです。それだのにこの世の人の仕業に習つてか、その物を償わない」と言つて、その
 兄の子を恨んで、イヅシ河の河島の節のある竹を取つて、大きな目の荒い籠を作り、その河の石を取つて、鹽にまぜて竹の葉に包んで、詛言の
 ろいごとを言つて、「この竹の葉の青いように、この竹の葉の萎しおれるように、青くなつて萎れよ。またこの鹽の盈みちたり乾ひたりするよ
 うに盈ち乾よ。またこの石の沈むように沈み伏せ」と、このように詛のろつて、竈かまどの上に置かしめました。それでその兄が八年もの間、
 乾かわき萎しおれ病やみ伏ふしました。そこでその兄が、泣なき悲しんで願いましたから、その詛のろいの物をもとに返しました。そこでその
 身がもとの通りに安らかにな
 りました。

系譜
――允恭天皇の皇后の出る系譜であり、後に繼體天皇が、この系統から出る。――
 このホムダの天皇の御子のワカノケフタマタの王が、その母の妹のモモシキイロベ、またの名はオトヒメマワカ姫の命と結婚して生んだ子は、
 大郎子、またの名はオホホドの王・オサカノオホナカツ姫の命・タヰノナカツ姫・タミヤノナカツ姫・フヂハラノコトフシの郎女・トリメの王
 ・サネの王の七人です。そこでオホホドの王は、三國の君・波多の君・息長おきながの君・筑紫の米多の君・ 長坂の君・酒人の君・山道の君・
 布勢の君の祖先です。またネトリの王が庶妹ミハラの郎女と結婚して生んだ子は、ナカツ彦の王、イワシマの王のお二方です。またカタシハの
 王の子はクヌの王です。すべてこのホムダの天皇は御年百三十歳、甲午の九月九日にお隱れになりました。
 御陵は河内の惠賀えがの裳伏もふしの岡にあります。



2019/06/25 13:13:20

仲津山古墳(仲津姫命陵)

第19代允恭天皇 恵我長野北陵

仲津姫命陵は墳長290m、高さ26.2mの前方後円墳で、5世紀前半の築造。その規模は全国で9位、百舌鳥古市古墳群内で5位、藤井寺市で1位の巨大古墳。 出土した埴輪から津堂城山古墳、古室山古墳に次いで古く、古市古墳群の中でも初期に築造された。宮内庁より応神天皇の妃である「仲津姫命」に治定。
第12代景行天皇の孫の仲津姫命は応神天皇の妃で、仁徳天皇(オホサザキの命)の母親。
陵には空濠があり羽曳野市と藤井寺市にまたがる国府台地の一番高い場所に存在するため、築造当時から濠に水はなかったと考えられています。
陵の南側に存在する、3基の古墳からなる「三ツ塚古墳」が陪塚とされています。 この壕の跡から巨大な古代の木ぞり「修羅」が発見された。復元された修羅が、道明寺天満宮で展示。
三ツ塚古墳のすぐ北側は仲津山古墳の堤の斜面となっています。この場所を利用して設けられた埴輪を焼く窯の跡がいくつも発見されています。この窯跡群は東方にある道明寺天満宮前の斜面まで数百mも続いています。現在までに16基の窯跡が見つかっており、「土師の里埴輪窯跡群」と名付けられています。
「澤田八幡神社」は境内の中を電車が通過するという風変わりな神社として知られています。
土師の里埴輪窯跡群 土師の里埴輪窯跡群 澤田八幡神社


仲津山古墳(仲津姫命陵) 仲津山古墳(仲津姫命陵)

2019/06/25 13:55:44

第19代允恭天皇 恵我長野北陵

第19代允恭天皇 恵我長野北陵

允恭天皇は仁徳天皇の第四皇子。母は葛城襲津彦の女・磐之媛命であり、履中天皇、反正天皇の同母弟である。兄の反正天皇が治世5年で崩御した。2年間大王位は空位が続いたが、妃の忍坂大中姫の強い要請を受け即位した。西暦412年のこととされている。
仲哀天皇の陵墓は古事記では「御陵は河内の恵賀の長江にあり」とあるが、 「河内恵賀之長江」は、允恭天皇陵の「河内之恵賀長枝」と同じ地域なる。
宮内庁が治定いる陵墓は、允恭天皇陵は藤井寺市国府1丁目にある遺跡名「市ノ山古墳」の「惠我長野北陵」であり、允恭天皇陵は藤井寺市藤井寺4丁目にある遺跡名「岡ミサンザイ古墳」の「恵我長野西陵」である。
中国の歴史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている。
第19代允恭天皇 恵我長野北陵 第19代允恭天皇 恵我長野北陵


第19代允恭天皇 恵我長野北陵 第19代允恭天皇 恵我長野北陵

古事記 下の巻-三、允恭天皇

后妃と皇子女
 弟のヲアサヅマワクゴノスクネの王(允恭天皇)、大和の遠つ飛鳥の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、オホホドの王
 の妹のオサカノオホナカツ姫の命と結婚してお生みになつた御子みこは、キナシノカルの王・ヲサダの大郎女・サカヒノクロヒコの王・アナホ
 の命・カルの大郎女・ヤツリノシロヒコの王・オホハツセの命・タチバナの大郎女・サカミの郎女の九王です。男王五人女王四人です。このう
 ちアナホの命(安康天皇)は天下をお治めなさいました。次にオホハツセの命(雄略天皇)も天下をお治めなさいました。カルの大郎女はまた
 の名を衣通そとおしの郎女と申しますのは、その御身の光が衣を通して出ましたからでございます。

八十伴の緒の氏姓
――氏はその家の稱號であり、姓はその家の階級、種別であつてそれが社會組織の基本となつていた。長い間にはこれを僞るものもできたので、
これをまとめて整理したのである。朝廷の勢力が強大でなくてはできない。――
 初はじめ天皇てんのう、帝位にお即つきになろうとしました時に御辭退遊ばされて「わたしは長い病氣があるから帝位に即つくことができない」
 と仰せられました。しかし皇后樣をはじめ臣下たちも堅くお願い申しましたので、天下をお治めなさいました。この時に新羅の國主が御調物み
 つぎものの船八十一艘を獻りました。その御調の大使は名なを金波鎭漢紀武こみぱちにかにきむと言いました。この人が藥の處方をよく知つて
 おりましたので、天皇の御病氣をお癒し申し上げました。
 ここに天皇が天下の氏々の人々の、氏姓うじかばねの誤あやまつているのをお歎きになつて、大和のウマカシの言八十禍津日ことやそまがつひ
 の埼さきにクカ瓮べを据えて、天下の臣民たちの氏姓をお定めになりました。またキナシノカルの太子の御名の記念として輕部をお定めになり、
 皇后樣の御名の記念として刑部おさかべをお定めになり、皇后樣の妹のタヰノナカツ姫の御名の記念として河部をお定めになりました。天皇御
 年七十八歳、甲午きのえうまの年の正月十五日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀えがの長枝にあります。

木梨の輕の太子
――幾章かの歌曲によつて構成されている物語。輕部などの傳承であろう。――
 天皇がお隱かくれになつてから後のちに、キナシノカルの太子が帝位におつきになるに定まつておりましたが、まだ位におつきにならないうち
 に妹のカルの大郎女に戲れてお歌いになつた歌、

 山田を作つて、
 山が高いので地の下に樋ひを通わせ、
 そのように心の中でわたしの問い寄る妻、
 心の中でわたしの泣いている妻を、
 昨夜こそは我が手に入れたのだ。

 これは志良宜歌しらげうたです。また、

 笹ささの葉はに霰あられが音おとを立たてる。
 そのようにしつかりと共に寢た上は、
 よしや君きみは別わかれても。
 いとしの妻と寢たならば、
 刈り取つた薦草こもくさのように亂れるなら亂れてもよい。
 寢てからはどうともなれ。

 これは夷振ひなぶりの上歌あげうたです。
 そこで官吏を始めとして天下の人たち、カルの太子に背いてアナホの御子に心を寄せました。依つてカルの太子が畏れて大前小前おおまえおま
 えの宿禰の大臣の家へ逃げ入つて、兵器を作り備えました。その時に作つた矢はその矢の筒を銅にしました。その矢をカル箭やといいます。ア
 ナホの御子も兵器をお作りになりました。その王のお作りになつた矢は今の矢です。これをアナホ箭やといいます。ここにアナホの御子が軍を
 起して大前小前の宿禰の家を圍みました。そしてその門に到りました時に大雨が降りました。そこで歌われました歌、

 大前小前宿禰の家の門のかげに
 お立ち寄りなさい。
 雨をやませて行きましよう。

 ここにその大前小前の宿禰が、手を擧げ膝を打つて舞い奏かなで、歌つて參ります。その歌は、
 宮人の足に附けた小鈴が
 落ちてしまつたと騷いでおります。
 里人さとびともそんなに騷がないでください。

 この歌は宮人曲みやびとぶりです。かように歌いながらやつて來て申しますには、「わたしの御子樣、そのようにお攻めなされますな。
 もしお攻めになると人が笑うでしよう。わたくしが捕えて獻りましよう」と申しました。そこで軍を罷やめて去りました。かくて大前小前の
 宿禰がカルの太子を捕えて出て參りました。その太子が捕われて歌われた歌は、

 空そら飛とぶ雁かり、そのカルのお孃さん。
 あんまり泣くと人が氣づくでしよう。
 それでハサの山の鳩のように
 忍び泣きに泣いています。

 また歌われた歌は、

 空飛ぶ雁かり、そのカルのお孃さん、
 しつかりと寄つて寢ていらつしやい
 カルのお孃さん。

 かくてそのカルの太子を伊豫いよの國の温泉に流しました。その流されようとする時に歌われた歌は、

 空を飛ぶ鳥も使です。
 鶴の聲が聞えるおりは、
 わたしの事をお尋ねなさい。

 この三首の歌は天田振あまだぶりです。また歌われた歌は、

 わたしを島に放逐ほうちくしたら
 船の片隅に乘つて歸つて來よう。
 わたしの座席はしつかりと護つていてくれ。
 言葉でこそ座席とはいうのだが、
 わたしの妻を護つていてくれというのだ。

 この歌は夷振ひなぶりの片下かたおろしです。その時に衣通しの王が歌を獻りました。その歌は、

 夏の草は萎なえます。そのあいねの濱の
 蠣かきの貝殼に足をお蹈みなさいますな。
 夜が明けてからいらつしやい。

 後に戀しさに堪えかねて追つておいでになつてお歌いになりました歌、

 おいで遊ばしてから日數が多くなりました。
 ニワトコの木のように、お迎えに參りましよう。
 お待ちしてはおりますまい。

 かくて追つておいでになりました時に、太子がお待ちになつて歌われた歌、

 隱れ國の泊瀬の山の
 大きい高みには旗をおし立て
 小さい高みには旗をおし立て、
 おおよそにあなたの思い定めている
 心盡しの妻こそは、ああ。
 あの槻つき弓のように伏すにしても
 梓あずさの弓のように立つにしても
 後も出會う心盡しの妻は、ああ。

 またお歌い遊ばされた歌は、

 隱れ國の泊瀬の川の
 上流の瀬には清らかな柱を立て
 下流の瀬にはりつぱな柱を立て、
 清らかな柱には鏡を懸け
 りつぱな柱には玉を懸け、
 玉のようにわたしの思つている女、
 鏡のようにわたしの思つている妻、
 その人がいると言うのなら
 家にも行きましよう、故郷をも慕いましよう。
 かように歌つて、ともにお隱れになりました。それでこの二つの歌は讀歌よみうたでございます。



2019/06/25 14:13:49

道明寺

道明寺(どうみょうじ)は、大阪府藤井寺市道明寺にある真言宗御室派の尼寺。山号は蓮土山。
道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師氏の根拠地であった。道明寺は土師氏の氏寺土師寺として建立され、土師神社(現・道明寺天満宮)の南にあった。当時は七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであった。 道真の死後、天暦元年(947年)には道真自刻と伝える十一面観世音菩薩像(国宝)を祀って土師寺を道明寺と改めるが、これは道真の号である「道明」に由来する

道明寺 道明寺


道明寺略縁記
当寺は菅原道真公が信心をこめて手ずから刻まれた国宝十一面観世音菩薩像を御本尊とする古義真言宗の尼寺です。 仏法に帰依される処深かった聖徳太子がこの地に尼僧の寺院を建立されるに当り、代々仏教文化導入に積極的であった土師という人が邸宅を寄進し、東西三百二十米、南北六百四十米の広大な境内に五重の塔、金堂等をはじめとする七堂伽藍の完成を見ました。
これが当時の前身土師寺で、その後菅原道真公に依って道明寺と呼び改められる処となり、数多くの仏像、教典美術工芸品、薬品等を宝蔵しておりました。
土師氏の後裔菅原道真公が太宰府に下向されたるとき、叔母の覚寿尼を訪れて当時に立寄られ一首を残されています。
 啼けばこそ別れもうけれ鶏の音の 鳴からむ里の暁もかな
戦国時代に入り、高屋の兵乱に当寺も焼失しましたが、之を惜しむ織田信長、豊臣秀吉、徳川代々の将軍家等の屁護によって復興成り朱印地に認められました。
明治五年神仏分離令に従って堂宇一切を天満宮境内より移し境内の拡張を経て大正八年には本堂の落成をみ、多宝塔を加え建立以来千三百年法燈絶ゆることなく少ない尼寺として、現在に至っております。  道明寺


      菩提樹の実は数珠に            無患子ムクロジ(木偏+患)の実は羽根つきの羽根のおもり・数珠・石鹸代わりに
菩提樹 菩提樹 無患子ムクロジ 無患子ムクロジ

2019/06/25 14:28:31

道明寺天満宮

道明寺天満宮 道明寺天満宮 道明寺天満宮 撫で牛

道明寺天満宮

道明寺天満宮
 御祭神   菅原道真公   夭穂日命   覚寿尼公
由緒  垂仁天皇の三十二年(西暦三)野見宿禰が埴輪を創り殉死に代えた功績により、「土師」の姓とこの辺り一帯を所領として賜って以来、遠祖夭穂日命をお祀りし土師神社と称した。
推古天皇二年(五九四)には、聖徳太子の発願により土師八嶋が自宅を喜捨し土師寺を建立。 土師氏は「菅原」へと改姓し菅原氏の氏神となり、菅原道真公のおば様である覚寿尼公が住まいとしたので、道真公は当地を度々訪問される。
昌泰四年(九〇一)道真公筑紫へ下向の時
  世につれて浪速入江もにごるなり 道明らけき寺ぞこひしき
と詠まれ、道明寺へ訪問されるも、鶏鳴により出発することとなり
  鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音の なからん里の暁もかな
との御歌を残されて西海に赴かれた。
その後天暦元年(九四七)に残し置かれた木像を北丘にお祀りし、御遺品をご神宝(国宝)として安置し天満宮を創建、土師神社を道明寺天満宮と改めた。
明治五年(一八七二)神仏分界により尼寺は西に移転し現在に至る。


修羅


道明寺天満宮に展示されている修羅は、昭和53年に三ツ塚古墳(藤井寺市道明寺6丁目)から大小2台の出土品を西岡常一ら宮大工の手で復元したもの。
出土した大小2つの修羅と梃子棒の実物は、元興寺文化財研究所に持ちこまれて15年かけて保存処理がなされた。国の重要文化財に指定され、現在の展示は
 ・大修羅=大阪府立近つ飛鳥博物館 ・小修羅=藤井寺市立図書館

小型の修羅

元宮土師社 さざれ石 埴輪窯跡 埴輪窯跡
   元宮土師社                 さざれ石               埴輪窯跡



道成寺駅

2019/06/25 14:56:54

道成寺駅