開始日時 | 2019/06/09 10:23:13 | 終了日時 | 2019/06/09 13:22:21 |
水平距離 | 10.17km | 沿面距離 | 10.23km |
経過時間 | 2時間59分08秒 | 移動時間 | 2時間45分37秒 |
徒歩距離 | 16.63km | 徒歩合計 | 23,300歩 |
最高速度 | 11.29km/h | 昇降量合計 | 225m |
最高高度 | 94m | 最低高度 | 34m |
※ 古事記に関連ある場所では、その記載箇所を現代語訳で表示。 (あおぞら文庫より武田祐吉訳を拝借して一部変更。又、竹田恒泰著:現代語古事記を参考)
2019/06/09 10:21:23
2019/06/09 10:40:02
顕宗天皇(けんぞうてんのう、正字体:顯宗天皇、允恭天皇39年 - 顕宗天皇3年4月25日)は、
日本の第23代天皇(在位:顕宗天皇元年1月1日 - 同3年4月25日)
【皇居】
都は近つ飛鳥八釣宮(現在の奈良県高市郡明日香村八釣、あるいは大阪府羽曳野市飛鳥の地か)。『古事記』は単に「近飛鳥宮」とする。
【略歴】
安康天皇3年10月1日(天皇が既に暗殺された後)父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に殺されると、兄の億計王(後の仁賢天皇)と
共に逃亡して身を隠した。丹波国与謝郡(京都府丹後半島東半)に行き、後に播磨国明石郡や美嚢郡の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変え
て丹波小子と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた。清寧天皇2年11月、弘計王自ら新室
の宴の席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。子がなかった清寧天皇はこれを喜んで迎えを遣わし、翌年2王を宮中に迎え入れて4月7日
に兄王を皇太子に、弘計王を皇子とした。
同5年1月16日に清寧が崩御した後、皇太子の億計は身分を明かした大功を理由として弟の弘計に皇位を譲ろうとするが、弘計はこれを拒否。
皇位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した(『古事記』では、2王が身分を明かして宮中に戻ったのは清寧の崩御後、飯豊王の執政中の
ことであるとする)。結果的に兄の説得に折れる形で顕宗天皇元年元旦、弘計が顕宗天皇として即位する。引き続き億計が皇太子を務めたが、天
皇の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない。罪無くして死んだ父を弔い、また父の雪辱を果たすべく雄略への復讐に走り意祁命にその陵
の破壊を命じ長くることもあったが、辺土で苦労した経験から民衆を愛する政治を執ったと伝えられる。
同3年4月25日、崩御。『古事記』に38歳(但し治世8年という)
なお、即位前に志毘臣(しびのおみ、平群氏)との恋争いのもつれから、これを夜襲して誅殺したという話もある(『古事記』)。
【陵・霊廟】
陵は、奈良県香芝市北今市にある傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)に治定。宮内庁上の形式は前方後円。
上記とは別に、奈良県大和高田市築山にある宮内庁の磐園陵墓参考地では、顕宗天皇が被葬候補者に想定されている。遺跡名は「築山古墳」。
(Wikipedia)
古事記 下巻-6/第23代顯宗天皇 顯宗天皇 弟のミヅハワケの命(反正天皇)、河内の多治比たじひの柴垣しばがきの宮においでになつて天下をお治めなさいました。 天皇は御身のたけが九尺二寸半、御齒の長さが一寸、廣さ二分、上下同じように齊そろつて珠をつらぬいたようでござ いました。 天皇はワニのコゴトの臣の女のツノの郎女と結婚してお生みになつた御子は、カヒの郎女・ツブラの郎女のお二方です。 また同じ臣の女の弟姫と結婚してお生みになつた御子はタカラの王・タカベの郎女で合わせて四王おいでになります。 天皇は御年六十歳、丁丑ひのとうしの年の七月にお隱れになりました。御陵はモズ野にあるということです。 イザホワケの天皇の御子、イチノベノオシハの王の御子のヲケノイハスワケの命(顯宗天皇)、河内かわちの國の飛鳥あすかの宮に おいで遊ばされて、八年天下をお治めなさいました。この天皇は、イハキの王の女のナニハの王と結婚しましたが、御子みこはあり ませんでした。この天皇、父君イチノベの王の御骨をお求めになりました時に、近江の國の賤いやしい老婆が參つて申しますには、 「王子の御骨を埋めました所は、わたくしがよく知つております。またそのお齒でも知られましよう」と申しました。オシハの王子 のお齒は三つの枝の出た大きい齒でございました。そこで人民を催して、土を掘つて、その御骨を求めて、これを得てカヤ野の東の 山に御陵を作つてお葬り申し上げて、かのカラフクロの子どもにこれを守らしめました。後にはその御骨を持ち上のぼりなさいまし た。かくて還り上られて、その老婆を召して、場所を忘れずに見ておいたことを譽めて、置目おきめの老媼ばばという名をください ました。かくて宮の内に召し入れて敦あつくお惠みなさいました。その老婆の住む家を宮の邊近くに作つて、毎日きまつてお召しに なりました。そこで宮殿の戸に鈴を掛けて、その老婆を召そうとする時はきつとその鈴をお引き鳴らしなさいました。そこでお歌を お詠みなさいました。その御歌は、 茅草ちぐさの低い原や小谷を過ぎて 鈴のゆれて鳴る音がする。 置目がやつて來るのだな。 ここに置目が「わたくしは大變年をとりましたから本國に歸りたいと思います」と申しました。依つて申す通りにお遣わしになる時 に、天皇がお見送りになつて、お歌いなさいました歌は、 置目よ、あの近江の置目よ、 明日からは山に隱れてしまつて 見えなくなるだろうかね。 初め天皇が災難に逢つて逃げておいでになつた時に、その乾飯ほしいを奪つた豚飼ぶたかいの老人をお求めになりました。そこで求 め得ましたのを喚び出して飛鳥河の河原で斬つて、またその一族どもの膝の筋をお切りになりました。それで今に至るまでその子孫 が大和に上る日にはきつとびつこになるのです。その老人の所在をよく御覽になりましたから、其處をシメスといいます。 天皇、その父君をお殺しになつたオホハツセの天皇を深くお怨み申し上げて、天皇の御靈に仇を報いようとお思いになりました。依 つてそのオホハツセの天皇の御陵を毀やぶろうとお思いになつて人を遣わしました時に、兄君のオケの命の申されますには、「この 御陵を破壞するには他の人を遣つてはいけません。わたくしが自分で行つて陛下の御心の通りに毀して參りましよう」と申し上げま した。そこで天皇は、「それならば、お言葉通りに行つていらつしやい」と仰せられました。そこでオケの命が御自身で下つておい でになつて、御陵の傍を少し掘つて還つてお上りになつて、「すつかり掘り壞やぶりました」と申されました。そこで天皇がその早 く還つてお上りになつたことを怪しんで、「どのようにお壞りなさいましたか」と仰せられましたから、「御陵の傍の土を少し掘り ました」と申しました。天皇の仰せられますには、「父上の仇を報ずるようにと思いますので、かならずあの御陵を悉くこわすべき であるのを、どうして少しお掘りになつたのですか」と仰せられましたから、申されますには「かようにしましたわけは、父上の仇 をその御靈に報いようとお思いになるのは誠に道理であります。しかしオホハツセの天皇は、父上の仇ではありますけれども、一面 は叔父でもあり、また天下をお治めなさつた天皇でありますのを、今もつぱら父の仇という事ばかりを取つて、天下をお治めなさい ました天皇の御陵を悉く壞しましたなら、後の世の人がきつとお誹り申し上げるでしよう。しかし父上の仇は報いないではいられま せん。それであの御陵の邊を少し掘りましたから、これで後の世に示すにも足りましよう」とかように申しましたから、天皇は「そ れも道理です。お言葉の通りでよろしい」と仰せられました。かくて天皇がお隱かくれになつてから、オケの命が、帝位にお即つき になりました。御年三十八歳、八年間天下をお治めなさいました。御陵は片岡の石坏いわつきの岡の上にあります。 |
2019/06/09 11:03:30
2019/06/09 11:28:27
武烈天皇(ぶれつてんのう、仁賢天皇2年 - 武烈天皇8年12月8日)は、日本の第25代天皇(在位:仁賢天皇11年12月 - 武烈天皇8年12月8日)。
【名】
小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)・小泊瀬稚鷦鷯天皇(-のすめらみこと) - 『日本書紀』
小長谷若雀命 - 『古事記』
【皇居】
都は泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)。奈良県桜井市出雲の十二柱神社に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の石碑がある。
『古事記』では「長谷之列木宮」と記す。
【略歴】
仁賢天皇7年正月3日に立太子する。同11年8月8日に仁賢天皇が崩御した後、大臣の平群真鳥が国政をほしいままにした。
大伴金村などは、それを苦々しく思っていた。皇太子は、物部麁鹿火の娘影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛は既に真鳥大臣の子平群鮪
(へぐりのしび)と通じていた。
海柘榴市の歌垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま、現奈良市)に誅殺させ、11月には真鳥大臣を
も討伐させた。そののち同年12月に即位して、泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連とした。
なお、日本書紀は、武烈天皇の異常な行為を記している。その部分を以下に列挙する。
・二年の秋九月に、孕婦の腹を割きて其の胎を観す。
・三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう。
・四年の夏四月に、人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すことを快としたまふ。
・五年の夏六月に、人を塘の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ。
・七年の春二月に、人を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ。
・八年の春三月に、女をひたはだかにして、平板の上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺し、
湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ。
なお、これら天皇による悪逆非道の記述は、『古事記』には一切見られない。
天皇には子がなかった。御子代として小長谷部(小泊瀬舎人)を置いたという。
武烈天皇8年12月8日に、後嗣なく崩御した。『扶桑略記』『水鏡』などに18歳とあるが不明な点が多い。
上記とは別に、奈良県北葛城郡広陵町大塚にある宮内庁の大塚陵墓参考地は、武烈天皇が被葬候補者に想定されている。遺跡名は「新山古墳」。
(Wikipedia)
古事記 下巻-7/第25代武烈天皇 武烈天皇 ヲハツセノワカサザキの命(武烈天皇)、大和の長谷はつせの列木なみきの宮においでになつて、八年天下をお治めなさいました。 この天皇は御子がおいでになりません。そこで御子の代りとして小長谷部おはつせべをお定めになりました。御陵は片岡の石坏いわ つきの岡にあります。天皇がお隱れになつて、天下を治むべき王子がありませんので、ホムダの天皇の五世の孫、ヲホドの命を近江 の國から上らしめて、タシラガの命と結婚をおさせ申して、天下をお授け申しました。 |
2019/06/09 13:03:44
聖徳太子と達磨大師の出会いからはじまった達磨寺には、今も本堂の下に達磨寺3号墳とよばれる古墳時代後期の円墳があります。
また本堂には、木造聖徳太子像、木造達磨坐像、木造千手観音坐像など国重要指定文化財に指定されたものも多く安置されています。
人と会話ができた聖徳太子の愛犬「雪丸」
2019/06/09 12:43:24
孝霊天皇(こうれいてんのう、正字体:孝靈天皇、孝安天皇51年 - 孝霊天皇76年2月8日)は、
日本の第7代天皇(在位:孝霊天皇元年1月12日 - 孝霊天皇76年2月8日)。欠史八代の一人で実在性に乏しい。
【名】
大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと) - 『日本書紀』
大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと) - 『古事記』
【略歴】
孝安天皇の皇子。母は皇后で天足彦国押人命の娘の押媛(忍鹿比売)。兄弟として『古事記』では同母兄に大吉備諸進命の名が見える。
26才で皇太子となる。
父帝が崩御した年の12月、黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)に都を移す。それまでの山裾にあった宮と異なり大和盆地の中央に位置する。
翌年の1月に即位。即位2年磯城県主(または十市県主)大目の娘の細媛命を皇后とし、彦国牽尊(後の孝元天皇)を得た。また春日千乳早山香媛、
倭国香媛らを妃にしている。
倭国香媛との間には崇神天皇の時代に四道将軍となった彦五十狭芹彦命、疫病や反乱を収めるのに重要な役割を果たした倭迹迹日百襲姫命を得た。
即位76年、崩御。(Wikipedia)
古事記 中巻-2/第7代孝霊天皇 孝霊天皇 オホヤマトネコ彦フトニの命(孝靈天皇)、大和の黒田の廬戸いおとの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、 トヲチの縣主の祖先のオホメの女のクハシ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、オホヤマトネコ彦クニクルの命お一方です。ま た春日かすがのチチハヤマワカ姫と結婚してお生みになつた御子は、チチハヤ姫の命お一方です。オホヤマトクニアレ姫の命と結婚 してお生みになつた御子は、ヤマトトモモソ姫の命・ヒコサシカタワケの命・ヒコイサセリ彦の命、またの名はオホキビツ彦の命・ ヤマトトビハヤワカヤ姫のお四方です。またそのアレ姫の命の妹ハヘイロドと結婚してお生みになつた御子は、ヒコサメマの命とワ カヒコタケキビツ彦の命とお二方です。この天皇の御子みこは合わせて八人にんおいでになりました。男王五人、女王三人です。 そこでオホヤマトネコ彦クニクルの命は天下をお治めなさいました。オホキビツ彦の命とワカタケキビツ彦の命とは、お二方で播磨 はりまの氷ひの河かわの埼さきに忌瓮いわいべを据すえて神かみを祭まつり、播磨からはいつて吉備きびの國を平定されました。こ のオホキビツ彦の命は、吉備の上の道の臣の祖先です。次にワカヒコタケキビツ彦の命は、吉備の下の道の臣・笠の臣の祖先です。 次にヒコサメマの命は、播磨の牛鹿うしかの臣の祖先です。次にヒコサシカタワケの命は、高志こしの利波となみの臣・豐國の國前 さきの臣・五百原の君・角鹿の濟わたりの直の祖先です。天皇は御年百六歳、御陵は片岡の馬坂うまさかの上にあります。 |
2019/06/09 13:22:03