20190516-百舌鳥古墳群

マーカーリスト

GPSログ解析

開始日時2019/05/16 09:50:32終了日時2019/05/16 13:37:14
水平距離7.31km沿面距離7.69km
経過時間3時間46分42秒移動時間3時間46分42秒
徒歩距離7.83km徒歩合計10,200歩
全体平均速度3.20km/h移動平均速度3.60km/h
最高高度19m最低高度4m

行程: 南海堺東駅 ⇒ 堺市役所21階展望ロビー ⇒ 百舌鳥耳原北陵(反正天皇陵) ⇒ 百舌鳥耳原中陵(仁徳天皇陵) ⇒
   大仙公園 ⇒ 百舌鳥耳原南陵(履中天皇陵) ⇒ JR上野芝駅
全日:6時間50分 12.83km 18,500歩



  ※ 古事記に関連ある場所では、その記載箇所を現代語訳で表示。
  (あおぞら文庫より武田祐吉訳を拝借して一部変更。又、竹田恒泰著:現代語古事記を参考)

写真レポート


南海堺東駅

2019/05/16 09:50:32

南海堺東駅



2019/05/16 09:51:34

堺市役所

堺市役所 堺市役所 堺市役所

2019/05/16 09:59:07

堺市役所21階展望ロビー

地上80mの市役所最上階で、360度の展望が楽しめる回廊式ロビーです。仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)をはじめ歴史を秘めた堺のまちが眼下に広がり、遠くは六甲山、あべのハルカス、生駒・金剛山等が見渡せます。ゆっくりくつろげる喫茶コーナーもあります。

 東側(反正天皇陵)            南側(仁徳天皇陵)            南側(履中天皇陵)

堺市役所21階展望ロビー(反正天皇陵) 堺市役所21階展望ロビー(仁徳天皇陵) 堺市役所21階展望ロビー(履中天皇陵)

2019/05/16 10:27:11

反正天皇陵

反正天皇陵


反正天皇陵 反正天皇陵


古事記 下巻-2/第18代反正天皇

反正天皇 
 弟のミヅハワケの命(反正天皇)、河内の多治比たじひの柴垣しばがきの宮においでになつて天下をお治めなさいました。
 天皇は御身のたけが九尺二寸半、御齒の長さが一寸、廣さ二分、上下同じように齊そろつて珠をつらぬいたようでござ いました。 
 天皇はワニのコゴトの臣の女のツノの郎女と結婚してお生みになつた御子は、カヒの郎女・ツブラの郎女のお二方です。
 また同じ臣の女の弟姫と結婚してお生みになつた御子はタカラの王・タカベの郎女で合わせて四王おいでになります。
 天皇は御年六十歳、丁丑ひのとうしの年の七月にお隱れになりました。御陵はモズ野にあるということです。 
 

系図

2019/05/16 10:37:30

方違神社

社伝によると、人皇10代崇神天皇5年、国内に疫病が流行し多くの民が死亡した。これを憂いた天皇は、同8年12月(紀元前90年)勅願により物部大母呂隅足尼(もののべのおおもろすみのすくね)を茅渟の石津原(当地)に遣わせ、須佐之男神を祀らせ給うた。すると疫病は途絶え五穀は豊穣となったといい、これが方違神社創祀の起源とされる。
創祀より時を経て神功皇后が新羅より凱旋の途次、皇子(後の応神天皇)とは異腹の忍熊王の叛乱に遭うが、三筒男神の御神教により、神武天皇御斎祷の故事に倣い御自ら八十平瓮を作り、須佐之男神を奉祀した神地に於いて方災除けを祈願し皇軍を勝利に導いた。
後に応神天皇はこの地に須佐之男神・三筒男神・母后神(神功皇后)を合せ祀り、方違大依羅神社(かたたがへおおよさみのかむつやしろ)と名づけた。(方違神社ホームページより)


このあたりは、摂津・河内・和泉の三国の境に位置しているため、”三国山””三国の衢(ちまた)"また”三国丘”と称されていました。
三国の境界にあるため、方角の無い聖地であると考えられ、古来より方災除けの神として参拝者が絶えませんでした。
奈良時代には、行基が布施屋を設け旅人の休憩場所となるなど、人馬往来の中心となり、平安時代には、熊野詣の通過地点でもあったため、人々は旅の安全を祈ったといわれています。
また、明治元年の京都から東京へ遷都の際には、17日間の祈祷が行われています。
現在も、引越しや旅行の際に、全国から多くの方が参拝に来られています。
毎年5月31日の例大祭「粽祭(ちまきまつり)」には、悪い方位をはらうという、菰の葉で埴土(境内の土)を包んだ粽を奉納する神事を行っています。
ゆかりの人々(方違神社社伝より)
・空海(774~835)延暦23年(804)、空海は唐へ旅立つ前に、旅の安全を祈願した。
・平清盛(1118~1181)安德4年(1180)、平清盛の奏請により、安徳天皇の福原(神戸市中央区・兵庫区付近)遷都の成就祈願をした。
・徳川家康(1542~1616)元和元年(1615)、徳川家康は大坂夏の陣のときに、今井宗薫に命じて武運長久を祈願した。

方違神社 方違神社 方違神社


永山古墳(仁徳天皇陵陪塚) 永山古墳

2019/05/16 11:08:38

永山古墳(仁徳天皇陵陪塚)

永山古墳(ながやまこふん)は、大阪府堺市堺区東永山園に所在する前方後円墳。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。
宮内庁により第16代仁徳天皇の陵の「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」の陪冢に治定されているほか、周濠は堺市指定史跡に指定されている。
現在、宮内庁より大仙陵古墳(百舌鳥耳原中陵)の陪塚として管理されている。



丸保山古墳(仁徳天皇陵陪塚)

2019/05/16 11:20:53

丸保山古墳(仁徳天皇陵陪塚)

丸保山古墳(まるほやまこふん)は、大阪府堺市堺区北丸保園に所在する古墳(前方後円墳)である。百舌鳥古墳群の中の一基であり、すぐ近くにある大仙陵古墳の陪塚と考えられている。国の史跡に指定されている。
前方部と周濠は堺市が管理している。1972年(昭和47年)に前方部と周濠のみが国の史跡に指定されている。



2019/05/16 11:37:42

銅亀山古墳(仁徳天皇陵陪塚)

銅亀山古墳

銅亀山古墳(どうがめやまこふん)は、大阪府堺市堺区大仙町に所在する古墳である。百舌鳥古墳群の中では数少ない方墳の一つで、大山古墳(大仙陵古墳・仁徳天皇陵古墳)の陪塚とされる。墳丘は、宮内庁によって「仁徳天皇陵に号飛地」として管理されている。
銅亀山古墳は、二段造りで亀に似ており、地元では「どんがめ」とも呼ばれていた。なお、文献では堂亀山と記述されることもあり、1730年(享保15年)の 「舳松領絵図 上」では、四角い区画に丸く塚がかかれ、堂亀山とかかれている。また、1736年(享保21年)の「和泉志」(日本輿地通志機内部巻第四十五 和泉国之二)では、土鼈山とかかれている。
方墳とされているが、平成23年度の発掘調査の結果、前方後円墳か帆立貝型古墳、あるいは前方後方墳の可能性も指摘された。また、一辺26mの方墳とされているが、一辺40m以上とも考えられており、今後の調査次第では、 百舌鳥古墳群で最大級の方墳となる。
平成23年度の発掘調査の結果、遺物の内訳は円筒埴輪が大部分を占めている。また、透かし孔は円型のもののみが確認されている。その他の出土品としては朝顔形埴輪、形象埴輪、土人形、須恵器、土錘等がある。(Wikipediaより)



2019/05/16 11:44:28

仁徳天皇陵古墳案内板

仁徳天皇陵古墳案内板

仁德夭皇陵古墳(仁德夭皇百舌鳥耳原中陵)
 仁德天皇陵古墳は、わが国最大の前方後円墳です。第16代仁德天皇の陵に定められ、宮内庁により
「仁德天皇百舌鳥耳原中陵」として管理されています。
墳丘の全長486m、後円部の直径249m、前方部の幅307m、周濠を含めた南北の長さ840m、
東西の長さ654m、周囲の距離2,718m、面積464,124平方mで、その大きなことから「大仙陵」とも
呼ばれています。
 三段に築かれた墳丘はくびれ部の両側に造り出しを備え、墳丘の周囲には三重の周濠が巡ります。
さらにその外側には、多くの陪冢(ばいちょう・ばいづか:大型前方後円墳の周囲に造られた小古墳)が造られました。


ある試算によれば、仁德天皇陵古墳を造るには一日最大2,000人が従事して15年8か月の年月が必要で、
延べ680万人もの人々が従事したとされており、莫大な労力が費やされたことがわかります。
 明治5年(1872)9月、前方部正面の第二段目斜面で竪穴式石室が発見されました。石室には長持形石棺
という石製の棺が納められ、金銅製の甲冑?刀?ガラス製の容器などの副葬品が見つかりましたが、もとの通り
埋め戻したとされています。これらのうち石棺と甲冑を精密に写した絵因が伝えられており、その内容を具体的
に知ることができます。
 墳丘や堤には、3万本近い埴輪が立て並べられていました。円筒埴輪のほか女性埴輪や馬形埴輪、水鳥形
埴輪などが出土していますが、それらの製作年代より5世紀中頃に古墳が完成したと考えられています。
『日本書紀』によると、仁德天皇67年の10月5日に、仁德天皇がこの地に行幸して陵地を定められ、同月
18日から工事が始まりました。この時、鹿が野原から走り出て来て、工事に従事している人々の中で倒れ
ました。人々が調べてみると、鹿の耳から百舌鳥が飛び去り、耳の中が喰いさかれていたので、この場所を
「百舌鳥耳原」と名づけたと記されています。
 仁德天皇は、それから20年後の仁德天皇87年正月16日になくなり、同年10月7日に百舌鳥野陵に葬られ
ました。(『古事記』には、「御陵は毛受耳原にあり」と記されています。)



仁徳天皇

仁徳天皇(にんとくてんのう、神功皇后摂政57年 - 仁徳天皇87年1月16日)は、日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日 - 同87年1月16日)。
諱は大雀命(おほさざきのみこと)(『古事記』)、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)・大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)・聖帝(『日本書紀』)・難波天皇(『万葉集』)。漢風諡号である「仁徳天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。善政を敷き、大規模な土木事業を行ったと伝わる。

概説
名の鷦鷯(ミソサザイ)は、同日生まれの平群木菟(武内宿禰の子)と、それぞれの産殿産屋に飛び込んだ鳥の名を交換したものだという。(『日本書紀』仁徳天皇元年正月条)
応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)により即位したという。この間の3年は空位である。
難波に都を定め、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し[1]、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったと言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。
一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれている。また、事績の一部が父の応神天皇と重複・類似することから、元来は1人の天皇の事績を2人に分けたという説がある。また逆に、『播磨国風土記』においては、大雀天皇と難波高津宮天皇として書き分けられており、二人の天皇の事跡を一人に合成したとする見方もある。
日本書紀の仁徳の条の冒頭では、五百城入彦皇子(成務天皇の弟)の孫となっているが、この記載は古事記応神の条の冒頭にある記事と矛盾する。すなわち、大雀の母中日売の父が、五百木入日子の子品它真若となっていることである(この場合、大雀は五百木入日子の曾孫となる)。古事記と日本書紀の系図どちらが正しいかは不明である。
なお、『宋書』倭国伝に記される「倭の五王」中の讃(さん)または珍(ちん)に比定する説があるが、確定していない。
系譜
応神天皇の第4皇子。母は品陀真若王の女・仲姫命(なかつひめのみこと)。

皇后(前):
・磐之媛命(いわのひめのみこと、石之日売命。葛城襲津彦の女)

皇居
即位後は、都をそれまでの大倭、または大隅宮から大伴氏などが本拠地を置いていた難波に遷都し、宮居を難波高津宮(なにわのたかつのみや)とした。
宮址については、江戸時代の頃より諸説ある。現在の高津宮址の碑は、明治33年(1899年)に難波神社と高津神社において執り行われた仁徳天皇千五百年大祭を祝して設置され、その後に移設されたものである。

業績
日本書紀には、次の事績が記されている。
1.河内平野における水害を防ぎ、また開発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤(大阪府寝屋川市付近)の築造を行った。これが日本最初の大規模土木事業だったとされる。
2.山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北~久世郡久御山町)に灌漑用水を引かせた。
3.茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立した。
4.和珥池(わにのいけ、奈良市?)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)を築造した。
5.灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し、広大な田地を開拓した。
6.紀角宿禰を百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した。原文:(遣紀角宿禰於百濟、始分國郡疆場、具録郷土所出)
7.呉(宋)と高麗(高句麗)が朝貢してきた。

また、古事記には、次のとおり記されている。
この天皇の御世に、大后(おほきさき)石之日売命の御名代(みなしろ)として、葛城部を定め、また太子(ひつぎのみこ)伊邪本和氣命の御名代として、壬生部を定め、また水歯別命の御名代として、蝮部(たぢひべ)を定め、また大日下王の御名代として、大日下部を定め、若日下部の御名代として、若日下部を定めたまひき。
また、秦人を役(えだ)ちて茨田堤また茨田三宅を作り、また丸邇池(わこのいけ)、依網(よさみ)池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江(をばしのえ)を掘り、また墨江(すみのえ)の津を定めたまひき。

没年
「この天皇の御年、八十三歳(やそじまりみとせ)。分注-丁卯の年の八月十五日に崩(かむあが)りましき」(『古事記』)。
「八十七年の春正月の戊子の朔(ついたち)癸卯に、天皇、崩(かむあが)りましぬ」(『日本書紀』)。

陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府堺市堺区大仙町にある百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)に治定されている(位置)。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「大仙陵古墳(大山古墳)」で、墳丘長525メートル、後円部286,33メートル、前方部幅347メートルもあることが2018年4月12日に調査結果が発表された。墳丘長、体積共に日本一の前方後円墳である。
『古事記』には「御陵は毛受(もず)の耳原にあり」、『日本書紀』には寿陵であったと記され、「(八十七年)冬十月の癸未の朔己丑に、百舌鳥野稜(もずののみささぎ)に葬(はぶ)りまつる」とある。『延喜式』諸陵寮には「百舌鳥耳原中陵。在和泉国大鳥郡。兆域東西八町。南北八町。陵戸五烟。」と記されている。陵名の由来は、陵墓造営中に野から鹿が走り込んできて絶命。その鹿の耳の中からモズが現れたことから地名を「百舌鳥耳原」と名づけられる(なお、モズは大阪府の鳥である)。また、この古墳の北と南にも大古墳があり(北陵は反正天皇陵、南陵は履中天皇陵)、「中陵」と名づけられている。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
(Wikipedia)


2019/05/16 11:46:19

仁徳天皇陵

仁徳天皇陵 仁徳天皇陵


古事記 下巻-1/第16代仁徳天皇

一、仁徳天皇 

后妃と皇子女 
 オホサザキの命(仁徳天皇)、難波なにわの高津たかつの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、葛城のソツ彦の女
 の石いわの姫ひめの命(皇后)と結婚してお生みになつた御子は、オホエノイザホワケの命・スミノエノナカツの王・タヂヒノミヅハワ
 ケの命・ヲアサヅマワクゴノスクネの命のお四方です。また上にあげたヒムカノムラガタの君ウシモロの女の髮長姫と結婚してお生みに
 なつた御子みこはハタビの大郎子、またの名はオホクサカの王・ハタビの若郎女、またの名はナガメ姫の命、またの名はワカクサカベの
 命のお二方です。また庶妹ヤタの若郎女と結婚し、また庶妹ウヂの若郎女と結婚しました。このお二方は御子がありません。すべてこの
 天皇の御子たち合わせて六王ありました。男王五人女王一人です。この中、イザホワケの命は天下をお治めなさいました。
次にタヂヒノミヅハワケの命も天下をお治めなさいました。次にヲアサヅマワクゴノスクネの命も天下をお治めなさいました。この天皇の
御世に皇后石いわの姫ひめの命の御名の記念として葛城部をお定めになり、皇太子イザホワケの命の御名の記念として壬生部をお定めにな
り、またミヅハワケの命の御名の記念として蝮部たじひべをお定めになり、またオホクサカの王の御名の記念として大日下部おおくさかべ
をお定めになり、ワカクサカベの王の御名の記念として若日下部をお定めになりました。 

聖の御世 
――撫民厚生の御事蹟を取りあつめている。聖の御世というのは、外來思想で、文字による文化が行われていたことを語る。―― 
 この御世に大陸から來た秦人はたびとを使つて、茨田うまらだの堤、茨田の御倉をお作りになり、また丸邇わにの池、依網よさみの池をお
 作りになり、また難波の堀江を掘つて海に通わし、また小椅おばしの江を掘り、墨江すみのえの舟つきをお定めになりました。 
 或る時、天皇、高山にお登りになつて、四方を御覽になつて仰せられますには、「國内に烟が立つていない。これは國がすべて貧しいから
 である。それで今から三年の間人民の租税勞役をすべて免せ」と仰せられました。この故に宮殿が破壞して雨が漏りますけれども修繕なさ
 いません。樋ひを掛けて漏る雨を受けて、漏らない處にお遷り遊ばされました。後に國中を御覽になりますと、國に烟が滿ちております。
 そこで人民が富んだとお思いになつて、始めて租税勞役を命ぜられました。それですから人民が榮えて、勞役に出るのに苦くるしみません
 でした。それでこの御世を稱えて聖ひじりの御世と申します。 

吉備の黒日賣 
――吉備氏の榮えるに至つた由來の物語。―― 
 皇后石の姫の命は非常に嫉妬なさいました。それで天皇のお使いになつた女たちは宮の中にも入りません。事が起ると足擦あしずりしてお
 妬みなさいました。しかるに天皇、吉備きびの海部あまべの直あたえの女、黒姫くろひめという者が美しいとお聞き遊ばされて、喚めし上
 げてお使いなさいました。しかしながら皇后樣のお妬みになるのを畏れて本國に逃げ下りました。天皇は高殿においで遊ばされて、黒姫の
 船出するのを御覽になつて、お歌い遊ばされた御歌、 

  沖おきの方ほうには小舟おぶねが續いている。 
  あれは愛いとしのあの子こが國へ歸るのだ。 

 皇后樣はこの歌をお聞きになつて非常にお怒りになつて、船出の場所に人を遣つて、船から黒姫を追い下して歩かせて追いはらいました。 
 ここに天皇は黒姫をお慕い遊ばされて、皇后樣に欺いつわつて、淡路島を御覽になると言われて、淡路島においでになつて遙にお眺めにな
 つてお歌いになつた御歌、 

  海の照り輝く難波の埼から 
  立ち出でて國々を見やれば、 
  アハ島やオノゴロ島 
  アヂマサの島も見える。 
  サケツ島も見える。 

 そこでその島から傳つて吉備の國においでになりました。そこで黒姫がその國の山の御園に御案内申し上げて、御食物を獻りました。そこ
 で羮あつものを獻ろうとして青菜を採つんでいる時に、天皇がその孃子の青菜を採む處においでになつて、お歌いになりました歌は、 

  山の畑に蒔いた青菜も 
  吉備の人と一緒に摘むと 
  樂しいことだな。 

 天皇が京に上つておいでになります時に、黒姫の獻つた歌は、 

  大和の方へ西風が吹き上げて 
  雲が離れるように離れていても 
  忘れは致しません。 
   また、 
  大和の方へ行くのは誰方樣どなたさまでしよう。 
  地の下の水のように、心の底で物思いをして 
  行くのは誰方樣どなたさまでしよう。 

皇后石の姫の命 
――靜歌の歌い返しと稱する歌曲にまつわる物語。それに鳥山の歌が插入されている。―― 
 これより後に皇后樣が御宴をお開きになろうとして、柏かしわの葉を採りに紀伊の國においでになつた時に、天皇がヤタの若郎女と結婚な
 さいました。ここに皇后樣が柏の葉を御船にいつぱいに積んでお還りになる時に、水取の役所に使われる吉備の國の兒島郡の仕丁しちよう
 が自分の國に歸ろうとして、難波の大渡おおわたりで遲れた雜仕女ぞうしおんなの船に遇いました。そこで語りますには「天皇はこのごろ
 ヤタの若郎女と結婚なすつて、夜晝戲れておいでになります。皇后樣はこの事をお聞き遊ばさないので、しずかに遊んでおいでになるので
 しよう」と語りました。そこでその女がこの語つた言葉を聞いて、御船に追いついて、その仕丁の言いました通りに有樣を申しました。 
 そこで皇后樣が非常に恨み、お怒りになつて、御船に載せた柏かしわの葉を悉く海に投げ棄てられました。それで其處を御津みつの埼と言
 うのです。そうして皇居におはいりにならないで、船を曲げて堀江に溯らせて、河のままに山城に上つておいでになりました。この時にお
 歌いになつた歌は、 

  山また山の山城川を 
  上流へとわたしが溯れば、 
  河のほとりに生い立つているサシブの木、 
  そのサシブの木の 
  その下に生い立つている 
  葉の廣い椿の大樹、 
  その椿の花のように輝いており 
  その椿の葉のように廣らかにおいでになる 
  わが陛下です。 

 それから山城から廻って、奈良の山口においでになつてお歌いになつた歌、 

  山また山の山城川を 
  御殿の方へとわたしが溯れば、 
  うるわしの奈良山を過ぎ 
  青山の圍んでいる大和を過ぎ 
  わたしの見たいと思う處は、 
  葛城かずらきの高臺の御殿、 
  故郷の家のあたりです。 

 かように歌つてお還りになつて、しばらく筒木つつきの韓人のヌリノミの家におはいりになりました。天皇は皇后樣が山城を通つて上つて
 おいでになつたとお聞き遊ばされて、トリヤマという舍人とねりをお遣りになつて歌をお送りなさいました。その御歌は、 

  山城やましろに追おい附つけ、トリヤマよ。 
  追い附け、追い附け。最愛の我が妻に追い附いて逢えるだろう。 

 續つづいて丸邇わにの臣おみクチコを遣して、御歌をお送りになりました。 

  ミモロ山の高臺たかだいにある 
  オホヰコの原。 
  その名のような大豚おおぶたの腹にある 
  向き合つている臟腑きも、せめて心だけなりと 
  思わないで居られようか。 

 またお歌い遊ばされました御歌、 

  山やままた山やまの山城の女が 
  木の柄のついた鍬くわで掘つた大根、 
  その眞白まつしろな白い腕を 
  交かわさずに來たなら、知らないとも云えようが。 

 このクチコの臣がこの御歌を申すおりしも雨が非常に降つておりました。しかるにその雨をも避けず、御殿の前の方に參り伏せば入れ違つ
 て後うしろの方においでになり、御殿の後の方に參り伏せば入れ違つて前の方においでになりました。それで匐はつて庭の中に跪ひざまず
 いている時に、雨水がたまつて腰につきました。その臣は紅い紐をつけた藍染あいぞめの衣を著ておりましたから、水潦みずたまりが赤い
 紐に觸れて青が皆赤くなりました。そのクチコの臣の妹のクチ姫は皇后樣にお仕えしておりましたので、このクチ姫が歌いました歌、 

  山城やましろの筒木つつきの宮みやで 
  申し上げている兄上を見ると、 
  涙ぐまれて參ります。 

 そこで皇后樣がそのわけをお尋ねになる時に、「あれはわたくしの兄のクチコの臣でございます」と申し上げました。 
 そこでクチコの臣、その妹のクチ姫、またヌリノミが三人して相談して天皇に申し上げましたことは、「皇后樣のおいで遊ばされたわけは、
 ヌリノミの飼つている蟲が、一度は這はう蟲になり、一度は殼からになり、一度は飛ぶ鳥になつて、三色に變るめずらしい蟲があります。
 この蟲を御覽になるためにおはいりなされたのでございます。別に變つたお心はございません」とかように申しました時に、天皇は「それ
 ではわたしも不思議に思うから見に行こう」と仰せられて、大宮から上つておいでになつて、ヌリノミの家におはいりになつた時に、ヌリ
 ノミが自分の飼つている三色に變る蟲を皇后樣に獻りました。そこで天皇がその皇后樣のおいでになる御殿の戸にお立ちになつて、お歌い
 遊ばされた御歌、 

  山また山の山城の女が 
  木の柄のついた鍬で掘つた大根、 
  そのようにざわざわとあなたが云うので、 
  見渡される樹の茂みのように 
  賑にぎやかにやつて來たのです。 

 この天皇と皇后樣とお歌いになつた六首の歌は、靜歌の歌い返しでございます。 

ヤタの若郎女 
――八田部の人々の傳承であろう。―― 
 天皇、ヤタの若郎女をお慕いになつて歌をお遣しになりました。その御歌は、 

  ヤタの一本菅は、 
  子を持たずに荒れてしまうだろうが、 
  惜しい菅原だ。 
  言葉でこそ菅原というが、 
  惜しい清らかな女だ。 

 ヤタの若郎女のお返しの御歌は、 

  八田やたの一本菅いつぽんすげはひとりで居りましても、 
  陛下が良いと仰せになるなら、ひとりでおりましても。 

ハヤブサワケの王とメトリの王 
――もと鳥のハヤブサとサザキとが女鳥を爭う形で、劇的に構成されている。―― 
 また天皇は、弟のハヤブサワケの王を媒人なこうどとしてメトリの王をお求めになりました。しかるにメトリの王がハヤブサワケの王に言
 われますには、「皇后樣を憚かつて、ヤタの若郎女をもお召しになりませんのですから、わたくしもお仕え申しますまい。わたくしはあな
 た樣の妻になろうと思います」と言つて結婚なさいました。それですからハヤブサワケの王は御返事申しませんでした。ここに天皇は直接
 にメトリの王のおいでになる處に行かれて、その戸口の閾しきいの上においでになりました。その時メトリの王は機はたにいて織物を織つ
 ておいでになりました。天皇のお歌いになりました御歌は、 

  メトリの女王の織つていらつしやる機はたは、 
  誰の料でしようかね。 

 メトリの王の御返事の歌、 

  大空おおぞら高たかく飛とぶハヤブサワケの王のお羽織の料です。 

 それで天皇はその心を御承知になつて、宮にお還りになりました。この後にハヤブサワケの王が來ました時に、メトリの王のお歌いになつ
 た歌は、 

  雲雀は天に飛び翔ります。 
  大空高く飛ぶハヤブサワケの王樣、 
  サザキをお取り遊ばせ。 

 天皇はこの歌をお聞きになつて、兵士を遣わしてお殺しになろうとしました。そこでハヤブサワケの王とメトリの王と、共に逃げ去つて、
 クラハシ山に登りました。そこでハヤブサワケの王が歌いました歌、 

  梯子はしごを立てたような、クラハシ山が嶮けわしいので、 
  岩に取り附きかねて、わたしの手をお取りになる。 
   また、 
  梯子はしごを立てたようなクラハシ山は嶮しいけれど、
  わが妻と登れば嶮しいとも思いません。 

 それから逃げて、宇陀うだのソニという處に行き到りました時に、兵士が追つて來て殺してしまいました。 
 その時に將軍山部の大楯おおだてが、メトリの王の御手に纏まいておいでになつた玉の腕飾を取つて、自分の妻に與えました。その後に御
 宴が開かれようとした時に、氏々の女どもが皆朝廷に參りました。その時大楯の妻はかのメトリの王の玉の腕飾を自分の手に纏いて參りま
 した。そこで皇后石いわの姫の命が、お手ずから御酒みきの柏かしわの葉をお取りになつて、氏々の女どもに與えられました。皇后樣はそ
 の腕飾を見知つておいでになつて、大楯の妻には御酒の柏の葉をお授けにならないでお引きになつて、夫の大楯を召し出して仰せられまし
 たことは、「あのメトリの王たちは無禮でしたから、お退けになつたので、別の事ではありません。しかるにその奴やつは自分の君の御手
 に纏いておいでになつた玉の腕飾を、膚はだも温あたたかいうちに剥ぎ取つて持つて來て、自分の妻に與えたのです」と仰せられて、死刑
 に行われました。 

雁の卵 
――御世の榮えを祝う歌曲。―― 
 また或る時、天皇が御宴をお開きになろうとして、姫島ひめじまにおいでになつた時に、その島に雁が卵を生みました。依つてタケシウチ
 の宿禰を召して、歌をもつて雁の卵を生んだ樣をお尋ねになりました。その御歌は、 

  わが大臣よ、 
  あなたは世にも長壽の人だ。 
  この日本の國に 
  雁が子を生んだのを聞いたことがあるか。 

 ここにタケシウチの宿禰は歌をもつて語りました。 

  高く光り輝く日の御子樣、 
  よくこそお尋ねくださいました。 
  まことにもお尋ねくださいました。 
  わたくしこそはこの世の長壽の人間ですが、 
  この日本の國に 
  雁が子を生んだとはまだ聞いておりません。 

 かように申して、お琴を戴いて續けて歌いました。 

  陛下へいかが初はじめてお聞き遊ばしますために 
  雁は子を生むのでございましよう。 

 これは壽歌ほぎうたの片歌かたうたです。 

枯野からのという船 
――琴の歌。―― 
 この御世にウキ河の西の方に高い樹がありました。その樹の影は、朝日に當れば淡路島に到り、夕日に當れば河内の高安山を越えました。
 そこでこの樹を切つて船に作りましたところ、非常に早はやく行く船でした。その船の名はカラノといいました。それでこの船で、朝夕に
 淡路島の清水を汲んで御料の水と致しました。この船が壞こわれましてから、鹽を燒き、その燒け殘つた木を取つて琴に作りましたところ、
 その音が七郷に聞えました。それで歌に、 

  船ふねのカラノで鹽を燒いて、 
  その餘りを琴に作つて、 
  彈きなせば、鳴るユラの海峽の 
  海中の岩に觸れて立つている 
  海の木のようにさやさやと鳴なり響く。 

と歌いました。これは靜歌しずうたの歌うたい返かえしです。 
 この天皇は御年八十三歳、丁卯ひのとうの年の八月十五日にお隱れなさいました。御陵は毛受もずの耳原にあります。  


大仙公園案内板

2019/05/16 11:54:47

大仙公園案内板

概要
百舌鳥古墳群の一角、世界最大の墳墓仁徳天皇陵古墳と履中天皇陵古墳周辺に位置する大仙公園が、戦災復興都市計画として位置付けられたのは昭和22年のことです。当時は旧市内の郊外だったこの地もすっかり市街化され、昭和38年の事業着手以来、市民の森推進運動による記念植樹、中央図書館、博物館、茶室、都市緑化センターの建設や都市緑化植物園、大芝生広場、日本庭園、平成の森などの整備を経て、堺市のシンボルパークにふさわしい風格を備えた総合公園になっています。
現在、計画決定面積81.1ヘクタールのうち、38.5ヘクタールが整備されています。



2019/05/16 11:58:48

堺市博物館

 堺市博物館は、市制90周年記念事業として昭和55(1980)年に開館しました。生涯学習と市民文化の向上のため、堺市の歴史、美術、考古、民俗に関する博物館として、多くの資料を収集、保存、展示しています。
 映像で百舌鳥古墳群の雄大さを体感できる百舌鳥古墳群シアターや休憩コーナーなど無料ゾーンも充実しています。


                      武野紹鴎像                 千利休像

堺市博物館 武野紹鴎像 千利休像

孫太夫山古墳(仁徳天皇陵陪塚)

2019/05/16 12:44:41

孫太夫山古墳(仁徳天皇陵陪塚)

百舌鳥古墳群のほぼ中央、大仙陵古墳の南に位置する。墳頂から土製の勾玉が、濠の堆積層より小型の円筒埴輪、朝顔形埴輪が出土した。埴輪の製作時期は古墳と同時期の5世紀中頃と見られ、このことから孫太夫山古墳は、大仙陵古墳と同時代に計画的に配置された古墳=陪塚として造られた可能性が高い。



旗塚古墳

2019/05/16 12:58:14

旗塚古墳

旗塚古墳(はたづかこふん)
仁徳天皇陵古墳と履中天皇陵古墳の間に位置する帆立貝形墳。
墳丘長は57.9m、後円部の高さは3.8mである。
小石が敷かれた墳丘の平坦面には、形象埴輪を立て並べていた。
円筒埴輪のほか、多種多様な形象埴輪がみつかっている。
築造時期は5世紀前半である。



七観音古墳

2019/05/16 13:03:24

七観音古墳(履中天皇陵陪塚)

七観山古墳(しちかんやまこふん)とは、大阪府堺市堺区旭ヶ丘中町4丁にかつて存在した古墳(円墳)で七観古墳(しちかんこふん)ともいう。百舌鳥古墳群に属しており、大正時代と太平洋戦争後に発掘され、大量の鉄製武器と甲冑が出土している。
上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵古墳))の後円部周濠の北側に位置し、同古墳の陪塚とされる七観音古墳のすぐ北西に所在していた。墳丘は2段に築かれ、径56メートル、高さ8メートルあり、周濠も存在した。葺石と埴輪があり、墳頂部には鰭付円筒埴輪の方形埴輪列が巡っていたようである。また、家、短甲、蓋(きぬがさ) 靫(ゆき)などの形象埴輪も出土している。1913年(大正2年)、1947年(昭和22年)と発掘または遺物採取が行なわれて遺物が出土しているが、1952年(昭和27年)には土取り工事によって消滅することになり、それに先だって緊急の発掘調査が行なわれている。主体部は遺物をおさめた粘土槨のような施設が3ヶ所検出されている。



2019/05/16 13:10:39

履中天皇陵古墳ビュースポット

履中天皇陵古墳ビュースポット

履中天皇陵古墳
時代 5世紀前半 古墳の規模 墳丘長365m、後円部径205m、後円部高27.6m、
               前方部幅235m、前方部高25.3m
古墳の形 前方後円墳
 履中天皇陵古墳はミサンザイ古墳とも呼ばれ、仁徳天皇陵古墳、応神天皇陵古墳
(羽曳野市)に次いで墳丘長が日本第3位の規模を誇る前方後円墳です。
 台地の端に海岸線と平行するように築かれ、古墳が海からよく見えるように築かれたと
考えられています。墳丘は3段に築かれ、築造当時の姿をよく保っています。墳丘周囲には
幅の広い濠が巡り、さらにその外側には外濠が全周していたことが明らかになっています。
 濠の周囲には、かって10基前後の古墳があり、現在も寺山南山古墳、七観音古墳、

経堂古墳の3基が残っています。

2019/05/16 13:26:00

履中天皇陵

履中天皇陵 履中天皇陵


古事記 下巻-2/第17代履中天皇

履中天皇とスミノエノナカツ王 
――大和の漢あや氏、多治比部などの傳承の物語。―― 
 御子のイザホワケの王(履中天皇)、大和のイハレの若櫻わかざくらの宮においでになつて、天下をお治めなさいました。
 この天皇、葛城かずらきのソツ彦の子このアシダの宿禰の女の黒姫くろひめの命と結婚してお生うみになつた御子みこは、
 市いちの邊べのオシハの王・ミマの王・アヲミの郎女いらつめ、又の名はイヒトヨの郎女のお三方かたです。 
 
 はじめ難波の宮においでになつた時に、大嘗の祭を遊ばされて、御酒みきにお浮かれになつて、お寢やすみなさいました。
 ここにスミノエノナカツ王が惡い心を起して、大殿に火をつけました。この時に大和の漢あやの直あたえの祖先のアチの
 直あたえが、天皇をひそかに盜み出して、お馬にお乘せ申し上げて大和にお連れ申し上げました。
 そこで河内のタヂヒ野においでになつて、目がお寤さめになつて「此處は何處だ」と仰せられましたから、アチの直が申し
 ますには、「スミノエノナカツ王が大殿に火をつけましたのでお連れ申して大和に逃げて行くのです」と申しました。
 そこで天皇がお歌いになつた御歌、 

  タヂヒ野で寢ようと知つたなら 
  屏風をも持つて來たものを。 
  寢ようと知つたなら。 

 ハニフ坂においでになつて、難波の宮を遠望なさいましたところ、火がまだ燃えておりました。
 そこでお歌いになつた御歌、 
 
  ハニフ坂にわたしが立つて見れば、 
  盛んに燃える家々は 
  妻が家のあたりだ。 

 かくて二上山ふたかみやまの大坂の山口においでになりました時に、一人の女が來ました。その女の申しますには、
 「武器を持つた人たちが大勢この山を塞いでおります。當麻路たぎまじから廻つて、越えておいでなさいませ」と申 し上げ
 ました。依つて天皇の歌われました御歌は、 

  大坂で逢あつた孃子おとめ。 
  道を問えば眞直まつすぐにとはいわないで 
  當麻路たぎまじを教えた。 

 それから上つておいでになつて、石いその上かみの神宮においで遊ばされました。 
 ここに皇弟ミヅハワケの命が天皇の御許おんもとにおいでになりました。天皇が臣下に言わしめられますには、「わ たしは
 あなたがスミノエノナカツ王と同じ心であろうかと思うので、物を言うまい」と仰せられたから、「わたくし は穢きたない
 心はございません。スミノエノナカツ王と同じ心でもございません」とお答え申し上げました。
 また言わしめられますには、「それなら今還つて行つて、スミノエノナカツ王を殺して上つておいでなさい。その時に はき
 つとお話をしよう」と仰せられました。依つて難波に還つておいでになりました。スミノエノナカツ王に近く仕え ているソ
 バカリという隼人はやとを欺あざむいて、「もしお前がわたしの言うことをきいたら、わたしが天皇となり、 お前を大臣に
 して、天下を治めようと思うが、どうだ」と仰せられました。ソバカリは「仰せのとおりに致しましよう」 と申しました。
 依つてその隼人に澤山物をやつて、「それならお前の王をお殺し申せ」と仰せられました。ここにソバ カリは、自分の王が
 厠にはいつておられるのを伺つて、矛ほこで刺し殺しました。それでソバカリを連れて大和に上つ ておいでになる時に、大
 坂の山口においでになつてお考えになるには、ソバカリは自分のためには大きな功績があるが、 自分の君を殺したのは不義
 である。しかしその功績に報じないでは信を失うであろう。しかも約束のとおりに行つたら、 かえつてその心が恐しい。依
 つてその功績には報じてもその本人を殺してしまおうとお思いになりました。かくてソバ カリに仰せられますには、「今日
 は此處に留まつて、まずお前に大臣の位を賜わつて、明日大和に上ることにしよう」と仰せられて、その山口に留まつて假宮
 を造つて急に酒宴をして、その隼人に大臣の位を賜わつて百官をしてこれを拜ましめたので、隼人が喜んで志成つたと思つて
 いました。そこでその隼人に「今日は大臣と共に一つ酒盞の酒を飮もう」と仰せられて、共にお飮みになる時に、顏を隱す大
 きな椀にその進める酒を盛りました。そこで王子がまずお飮みになつて、隼人が後に飮みます。その隼人の飮む時に大きな椀
 が顏を覆いました。そこで座の下にお置きになつた大刀を取り出して、その隼人の首をお斬りなさいました。かようにして明
 くる日に上つておいでになりました。依つて其處を近つ飛鳥あすかと名づけます。大和に上つておいでになつて仰せられます
 には、「今日は此處に留まつて禊祓はらいをして、明日出て神宮に參拜しましよう」と仰せられました。それで其處を遠つ飛
 鳥と名づけました。かくて石いその上かみの神宮に參つて、天皇に「すべて平定し終つて參りました」と奏上致しました。依
 つて召し入れて語られました。  ここにおいて、天皇がアチの直あたえを大藏の役人になされ、また領地をも賜わりました。
 またこの御世に若櫻部の臣 等に若櫻部という名を賜わり、比賣陀ひめだの君等に比賣陀の君という稱號を賜わりました。
 また伊波禮部をお定めな さいました。天皇は御年六十四歳、壬申みずのえさるの年の正月三日にお隱れになりました。御陵
 はモズにあります。 
 


JR上野芝駅

2019/05/16 13:37:14

JR上野芝駅




ツアー・オブ・ジャパン

百舌鳥古墳群巡っていて、あちこちで19日の交通規制の立て看板を見た
 19日は「ツアー・オブ・ジャパン堺ステージ」で百舌鳥古墳群を走る。
 ちなみに精華町では20日に「ツアー・オブ・ジャパン京都ステージ」が行われる。

ツアー・オブ・ジャパン 堺ステージ ツアー・オブ・ジャパン 京都ステージ