20181117-今城塚古墳と太田茶臼山古墳(三嶋藍野陵)

マーカーリスト

GPSログ解析

開始日時2018/11/17 11:02:12終了日時2018/11/17 14:56:28
水平距離10.73km沿面距離10.85km
経過時間3時間54分16秒移動時間2時間51分45秒
徒歩距離15.0km徒歩合計21,000歩
全体平均速度2.78km/h移動平均速度3.73km/h
最高高度51m最低高度6m

十数年前高槻で25年暮らしていた。其の頃は家と会社の往復で明け暮れていたために高槻市内を歩きまわることもなく、いわゆる高槻の名所旧跡をほとんど訪ねることがなかった。


  ※ 古事記に関連ある場所では、その記載箇所を現代語訳で表示。 (あおぞら文庫より武田祐吉訳を拝借して一部変更。)

写真レポート


2018/11/17 11:18:46

高槻教会

【フロイスのみた高山右近】
種々優れた性質を具え、若いにもかかわらず、幾多の輝かしい行為と勇敢な気質によって天下に高名をかち得ていた、父(高山飛騨守)同様に勇敢な侍である息子ジュスト右近・・・
(ルイス・フロイス『日本史』より)

戦国時代末期のキリシタン大名であり高槻城主であった高山右近(1552~1615)。多才な人物で、利休七哲の一人に数えられる茶人でもありました。出身は、摂津国高山(現大阪府豊能郡豊能町)と伝えられます。
冒頭の文章は、ポルトガル人宣教師のルイス・フロイスが描いた高山右近の人物像です。この記事は、元亀2年(1571)、白井河原の合戦で和田惟政(これまさ)が戦死した後、高槻城主となった惟政の長子・惟長(これなが)と高山父子との争いを記したものの一部です。
これによると、元亀4年(1573)、高槻城の和田惟長を高山父子が襲撃。その戦闘で右近は重傷を負い、惟長も負傷して高槻城から逃亡するも、この負傷がもととなり伏見で死亡しました。
その様子は「息子(和田惟長)は致命傷のため死んだ。ジュスト右近殿も同様に、腕と頸とに受けた傷からの大量の失血のために、また、頸の傷それ自身が生命にかかわるほどのものであったために、危うく死にそうであった」とフロイスの『日本史』に記されています。フロイスは、この後、右近が瀕死の重傷にもかかわらず助かったのは神のおかげであり、右近の信仰心の賜物であると述べています。
戦闘の結果、高山父子は、和田一族を高槻城から追放することになりました。この後、右近の父、高山飛騨守ダリヨは高槻城主となり、まもなく息子の右近に城主の座を譲りました。このとき右近21歳、高槻城を拠点にキリスト教の布教に力を注ぐことになるのです。
(高槻市ホームページより)


高槻教会 高山右近

 高山右近



しろあと歴史館

2018/11/17 11:37:47

しろあと歴史館

高槻市立しろあと歴史館は、高槻城三の丸跡の一画に建つ。
江戸時代の高槻を、資料や映像、模型などで楽しく紹介するとともに、市内に眠る文化財の収集や保存、調査研究も行っています。

開催中の「藤原鎌足と阿武山古墳」特別展を見学する。
阿武山古墳は、高槻市の西部、阿武山山中の京都大学阿武山観測所敷地内で昭和9年(1934)に発見された。
その被葬者には、藤原(中臣)鎌足が有力視されている。



【継体天皇】

【概略】
継体天皇(允恭天皇39年(450年) - 継体天皇25年2月7日(531年3月10日))は、日本の第26代天皇。
在位は継体天皇元年2月4日(507年3月3日) - 同25年2月7日(531年3月10日)。
諱はヲホド。『日本書紀』では男大迹王、『古事記』では袁本杼命と記される。
『記紀』によれば、15代応神天皇の5世孫であり越前国を治めていた。
ところが25代武烈天皇は後嗣を残さずして崩御。そのため中央の有力豪族の推戴を受けて即位したとされる。
戦後、天皇研究に関するタブーが解かれると、5世王というその特異な出自と即位に至るまでの異例の経緯に注目が集まり、元来はヤマト王権とは無関係な地方豪族が実力で大王位を簒奪し、現皇室にまで連なる新王朝を創始したとする王朝交替説がさかんに唱えられるようになった。
【生涯】
『記紀』は共に継体天皇を応神天皇の5世の子孫と記している。また、『日本書紀』はこれに加えて継体を11代垂仁天皇の女系の8世の子孫とも記している。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生したが、幼い時に父の彦主人王を亡くしたため、母・振姫の故郷である越前国高向(現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられ、「男大迹王」として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。
『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議し、まず丹波国にいた14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王を推戴しようとしたが、倭彦王は迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れて行方不明となってしまった。
やむなく群臣達は越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王を迎えようとしたものの、疑念を持った男大迹王は河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)を使いに出し、大連大臣らの本意に間違いのないことを確かめて即位を決意したとされる。
翌年の507年、58歳にして河内国樟葉宮において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とした。即位19年後の526年にして初めて大倭(後の大和国)に入り、都を定めた。翌年に百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったものの、しかし新羅と通じた筑紫君・磐井によって反乱が起こり、その平定に苦心している。
対外関係としては、百済が上述のように新羅や高句麗からの脅威に対抗するためにたびたび倭国へ軍事支援を要請し、それに応じている。また、『書紀』によれば継体6年(513年)に百済から任那四県の割譲を願う使者が訪れたとある。倭国は大伴金村の意見によってこれを決定し、百済は返礼としてか翌年から梁より招いていた五経博士を遣わしている。
531年に皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。崩年に関しては『古事記』では継体の没年を527年としており、そうであれば都を立てた翌年に死去したことになる。『古事記』では没年齢は43歳、『日本書紀』では没年齢は82歳。
【皇居】※『日本書紀』に拠る。
507年2月、樟葉宮(大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)で即位。
511年10月、筒城宮(現在の京都府京田辺市多々羅都谷か)に遷す。
518年3月、弟国宮(現在の京都府長岡京市今里付近か)に遷す。
526年9月、磐余玉穂宮(現在の奈良県桜井市池之内か)に遷す。
【陵・霊廟】
陵は、宮内庁により大阪府茨木市太田3丁目にある三嶋藍野陵に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「太田茶臼山古墳」で、墳丘長227メートルの前方後円墳である。 しかし、本古墳の築造時期は5世紀の中頃とみられている。
一方、大阪府高槻市郡家新町の今城塚古墳(前方後円墳、墳丘長190m)は6世紀前半の築造と考えられることから、歴史学界では同古墳を真の継体天皇陵とするのが定説となっている。
この古墳は被葬者の生前から造られ始めた寿陵であると考えられている。この古墳は宮内庁による治定の変更が行われていないために立ち入りが認められ、1997年からは発掘調査が行われた。 2011年4月1日には高槻市教育委員会にて史跡公園として整備され、埴輪祭祀場等には埴輪がレプリカで復元された。 隣接する今城塚古代歴史館では、日本最大級の家型埴輪等が復元展示されている。
同古墳ではこれまで家型石棺の破片と見られる石片が三種類確認されている。その内訳は、熊本県宇土市近辺の阿蘇溶結凝灰岩のピンク石、奈良県と大阪府の境に位置する二上山の溶結凝灰岩の白石、兵庫県高砂市の竜山石で、少なくとも三基の石棺が安置されていたことが推測できる。このうち、竜山石は大王家の棺材として多く用いられたものである。これらの石棺は、16世紀末の伏見大地震により破壊されたと見られる。2016年には、過去に付近で石橋に使われていた石材が今城塚古墳の石棺の一部であった可能性が発表された。
(Wikipediaより)

系図

2018/11/17 13:23:09

今城塚古墳 (埴輪祭祀場 / 前方部水内濠)

今城塚古墳埴輪祭祀場 今城塚古墳前方部水内濠

2018/11/17 13:58:42

継体天皇三嶋藍野陵

継体天皇三嶋藍野陵 継体天皇陵 古事記より