20181110-高麗寺跡を訪ねる

マーカーリスト

GPSログ解析

開始日時2018/11/10 09:05:34終了日時2018/11/10 13:32:05
水平距離15.21km沿面距離15.27km
経過時間4時間26分31秒移動時間3時間44分10秒
徒歩距離16.58km徒歩合計23,500歩
全体平均速度3.44km/h移動平均速度4.07km/h
最高高度68m最低高度25m

行程:4時間 16.58km 23,500歩
畑の前公園~天王神社~大宮神社~吐師~和泉式部の墓~泉橋寺地蔵尊~高麗寺跡~椿井大塚山古墳~来迎寺

写真レポート


2018/11/10 09:06:41

畑の前公園遺跡の杜

ここは、昭和59(1984)年に精華台ニュータウンの建設に伴う事前調査で発見された弥生~奈良時代の複合遺跡である畑ノ前遺跡を公園として保存した場所です。
弥生時代の竪穴住居跡、古墳時代の横穴式石室をもつ円墳、奈良時代の総数23棟にものぼる掘立柱建物等の遺構が確認されています。
奈良時代の遺構は、この地を本拠地とした稲蜂間氏の一族の館と考えられており、近くからは楠の井筒を埋設した深さ7mの井戸も出土いますが、この井戸は現在までに発掘調査された奈良時代以前の井戸としては日本最深だとされています。
稲蜂間氏は高句麗からの渡来人。因八万中村,因八麻中村,因幡中村ともかく。
一族の稲蜂間仲村売(いなばちまの なかむらめ 掌侍/正五位上勲四等)は孝謙太上天皇側近の命婦として平城宮に上がっていた。天平神護(てんぴょうじんご)元年(765)勲四等をあたえられた。 元正天皇のころ、稲蜂間光延という連(むらじ)がこの地に城を築き、この近郊を支配したという伝説があり、光延は養老2年(718)に、夢のお告げによって、領土が安らかに治まり、五穀が豊かに実るようにと、日ごろ尊崇する男山八幡宮の様式に習い、武内神社に武内宿禰を祭ったことに起源すると言われています。その年は大変な豊作で、その喜びを初貢としてお供えをし、村中の家や蔵も米で満ちたということです。
また、精華町の稲蜂間は美濃の安八郡(古るくは味蜂間郡と書いていた)と、葬制や名称などから深い関わりがあることが知られている。

畑の前公園遺跡の杜 畑の前遺跡の復元図

2018/11/10 09:17:25

菅井地区の天王神社

天王神社 天王神社

村の名前「菅井」の由来になった井戸(清ノ井)が境内にあります。
一説には菅原道真公が京に上る道すがら立寄り清ノ井の水を愛飲したのが因で菅井になったとも云われる。

清ノ井



【御祭神】
  ・建速須佐之男命
  ・阿智之岐高彦根命
【境内末社】
  ・熊野神社 伊邪那岐命
  ・天満宮 菅原道真
  ・蛭子神社 事代主命
  ・金毘羅神社 大物主命
  ・大国神社 大国主命
  ・天照皇太神宮 天照大神
  ・祇園神社 建速須佐之男命



2018/11/10 09:29:11

大宮神社

【御祭神】
  ・崇道天皇(早良親王)
  ・誉田別尊(応神天皇)
御祭神である崇道天皇とは早良親王のことで、非業の死を遂げたことで知られる。
親王の死後、不吉なことが立て続けに起こり、そのたびに「早良親王の祟りだ」と人々に恐れられ、
親王の怒りを鎮めるため奈良や京の都に神社を建ててお祀りし、鎮魂を願った。
また早良親王は皇位継承をしていないので歴代天皇には数えられていないが、崇道天皇と追称されている。
奈良に「崇道天皇社」、奈良市八島町に「崇道天皇八島陵」、京都左京区上高野に「崇道神社」がある。
もう一柱の誉田別尊(応神天皇)はまた八幡神のことで、木津川を下った八幡市の男山には石清水八幡宮が鎮座まします。

大宮神社 大宮神社

奈良の「崇道天皇社」(2015/05/19に訪れていた。「崇道天皇八島陵」も2015/05/10に訪れていたが、写真撮ってなかった。)

崇道天皇社 崇道天皇社 崇道天皇社

崇道天皇社 崇道天皇社 崇道天皇社

吐師長福寺

2018/11/10 09:37:11

吐師地区にある長福寺

土器職人の土師から由来し、「土」が「吐」に変わったとも云われる。
土師氏は古墳時代に、古墳造営や埴輪の制作や葬送儀礼に関った氏族である。
野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、垂仁天皇から「土師職」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より土師連姓を与えられた。

この地区のご先祖も、御陵に関わっていたのだろうか。



2018/11/10 10:10:25

和泉式部の墓があるお寺

平安時代中期の歌人。
小倉百人一首「あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今一度の逢ふこともがな」


(お寺の名前わからず---無住)

和泉式部の墓があるお寺 和泉式部の墓

和泉式部の墓

和泉式部の墓 和泉式部の墓

2018/11/10 10:20:03

木津川の流れ

木津川の流れ 淀川の支川である木津川はその源を三重、奈良の県境を南北に走る布引山脈に発し、笠置、加茂を経て山城盆地を貫通し、京都府・大阪市境付近で宇治川、桂川と共に淀川へと合流する流域面積1,596km2、幹川流路延長99kmの一級河川です。
聖武天皇が繰り返した遷都のひとつで、恭仁京遷都に伴い、木津川を越えて新京を造るためにいくつかの橋が渡されました。その中で行基が優婆塞らの弟子を率いて現在の木津町と山城町とを結ぶ泉大橋の近くに造営したのが泉橋です。泉橋によって結ばれた南北に延びる道は恭仁京右京の中心道であり、山背国府の中央道でした。なお、現在の泉大橋は国道24号の開通に伴い戦後にかけられたものです。
奈良時代には平城京などの都城建設に伴い木材運搬用の港(木の津)として栄える。
昭和十年頃まで帆掛け舟(十石船)が行き交い、活動写真の撮影場所に最適でした。
また綱を陸上から引く曳舟が大正時代まで続いていた。



【かしのき苑ホールにある木津川を行き交う帆掛け舟の絵(陶板製)】
精華町の東部を流れる木津川は、古代から流域の村々を結びつける役割を果たしてきた。
律令制の時代、木津川は政治の中心他であつた大倭(やまと)と北方の地を結ぶ重要な交通路でもあり、都が奈良から京都に移された後には、西国への道とも結び合わされてその重要度を増し続けた。
平安貴族たちがひんぱんに旧都奈良を訪れ、旅の途中紅葉の名所「ははそのもり」(祝園神社の杜)に立ち寄ることも多かった。
江戸時代に入ると木津川水運が、その最盛期を迎える。近代に入っても水運は輸送の主役であり、木津川は山城地方と京・大阪を結ぶ重要な道であった。
昔は堤防も低く、祝園あたりから行きかう帆掛け舟の帆が見えたという。
画面の帆掛け舟は、淀・伏兒に向かう行きは山城地方の米や特産品のお茶を積み、帰りには京・大阪の品々や肥料(油かす)を積んでいた。

かしのき苑ホールにある木津川を行き交う帆掛け舟の絵(陶板製) 説明板

2018/11/10 10:28:17

泉橋寺

行基が木津川に掛けた泉橋のそばに、橋の管理をも兼ねる泉橋寺を建てた。
地蔵堂跡に露仏として鎮座する石造地蔵菩薩坐像は、鎌倉時代に造られたもので、高さ4.58メートルあり日本一です。
応仁の乱(1471)で、地蔵堂とともに焼かれて200年以上そのままになっていた。

泉橋寺 泉橋寺

泉橋寺地蔵尊

泉橋寺地蔵尊

2018/11/10 10:44:20

高麗寺跡

高麗寺跡は、7飛鳥時代に創建された国内最古の寺院跡のひとつで、相楽七郷中の大狛郷に属し、高句麗からの渡来氏族狛(高麗)の氏寺として創建されたと考えられています。
高麗寺は、文献資料から奈良時代に存在したことが「日本霊異記」に記され、その他「今昔物語集」にも説話が収録されています。
伽藍は、木津川を見下ろす台地上に南面して立地し、西に金堂、東に塔を持つ法起寺式の配置となります。塔、金堂、講堂は整美な瓦積基壇を外装としており、講堂の両翼から伸びた回廊は塔、金堂を囲んで中門に接続し、寺域は一辺が約200メートルの規模であったと考えられます。

高麗寺跡 高麗寺跡

塔礎石

塔礎石 高麗寺復元図

コスモス

2018/11/10 10:52:33

コスモス

一面に咲くコスモスが見事



2018/11/10 11:29:34

椿井大塚山古墳

1953年(昭和28年)、国鉄奈良線の拡幅工事の際に竪穴式石室が偶然発見され、当時最多の三角縁神獣鏡32面が出土した。
内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面など計36面以上の鏡と武具が出土した。
36面以上というのは他の鏡の破片数点が出ているのと盗掘で行方不明になったものがあった可能性が出てきたためであった。
多数の銅鏡を棺の中に入れる習俗が古墳時代前期には西日本や中部地方で急速に拡がった。それらの鏡が、短期間にほぼ同一場所・地域で製作されたと推定されている。
【被葬者】
当古墳は、淀川を遡り木津川の右岸にある。副葬品として、縄文時代からの漁具である銛、ヤス、釣針が揃っている。南西に船戸という地名がある。以上のことから当古墳の被葬者は船舶の管理者であり、津(港)の管掌者ではなかったかと推測されている。
被葬者に武埴安彦(祝園いごもり祭と関連)の名を挙げている幾人かの研究者がいる。他方、天皇に討伐された敗者にしては古墳の規模が大きく副葬品も優れているとして、タケハニヤスビコ的な人物ではなく、『記紀』に記される日子坐王伝承のモデルとなった人物こそふさわしいという研究者もいる。   (Wikipedia より)

椿井大塚山古墳 椿井大塚山古墳

椿井大塚山古墳の後円部分                   椿井大塚山古墳の前方部分

椿井大塚山古墳の後円部分 椿井大塚山古墳の前方部分

前方後円を線路が分断===電車が通過

古墳を電車が通過

山城のマンホール

2018/11/10 11:39:28

旧山城町のマンホール

町の花の菊、町の木の紅葉、特産品のお茶の葉とタケノコがデザインされています。



緋寒桜

2018/11/10 13:09:07

不断桜

サトザクラの一品種。10月頃から4月頃まで咲き続ける。三重県鈴鹿市の白子不断ザクラは天然記念物。
八重咲きの十月桜や一重の四季桜のように,初冬と春の2回きまって咲くサクラがある。。



来迎寺

2018/11/10 13:15:51

来迎寺

【沿革】
天平勝宝元年(749)、行基の開基と伝えられている。 江戸時代は、融通念仏宗の本山である大阪府守口市の佐太来迎寺の末寺だったため、本寺も融通念仏宗だったが、近代の廃仏毀釈を機に、知恩院の門下に入り、浄土宗に転宗した。
文化文政時代建立の旧本堂は老朽化のため、1996年(平成8年)7月25日に改築された。


お千代半兵衛の墓

お千代半兵衛の墓 - 近松門左衛門作の浄瑠璃、「心中宵庚申」の主人公、お千代が、地元の植田村の大百姓、嶋田平右衛門の二女であったことから、墓石が置かれている。
天王寺七坂の源聖寺坂を昇ったところの寶樹山銀山寺にも、お千代半兵衛の墓があります。

お千代半兵衛の墓 心中宵庚申の由来

来迎寺の梵鐘

貞享元年(1684)の銘がある。大晦日にこの鐘の響きを聞くと、借金取りも引き上げたという伝承がある。
太平洋戦争中の金属類回収令で一度回収されたが、材料として溶かされる事なく終戦を迎え、当地に戻された事から、延命鐘との別称がある。

来迎寺の梵鐘 梵鐘の歴史と由来

メタセコイヤ並木大通り

2018/11/10 13:31:14

メタセコイヤ並木大通り

朝九時に出て4時間ほとんど歩き続けた。
途中で台湾中華料理の店で昼食、ラーメン・チャーハンのセット定食を注文したらそれぞれが単品注文と同じ量あって、食べきれずにラーメン半分以上残してしまった。
それにしても安い(700円) 昔ならたべられたけど・・・