20181001-古事記の痕跡を訪ねて(2)

マーカーリスト

GPSログ解析

開始日時2018/10/01 10:46:31終了日時2018/10/01 12:18:43
経過時間1時間32分12秒移動時間0時間00分48秒
水平距離6.21km沿面距離6.22km
徒歩距離9.2km徒歩合計12,500歩
全体平均速度4.04km/h移動平均速度4.28km/h
最高高度92m最低高度73m
  ※ 古事記に関連ある場所では、その記載箇所を現代語訳で表示。
     (あおぞら文庫より武田祐吉訳を拝借して一部変更しています)

写真レポート


称徳天皇稜(孝謙天皇)

2018/10/01 10:48:32

称徳天皇稜(孝謙天皇)

孝謙天皇(こうけんてんのう)、重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう;稱德天皇、718年(養老2年) - 770年8月28日(神護景雲4年8月4日))は、日本の第 46 代・第 48 代天皇。
孝謙天皇としての在位期間は、749年8月19日(天平勝宝元年7月2日) - 758年9月7日(天平宝字2年8月1日)。
称徳天皇としての在位期間は、764年11月6日(天平宝字8年10月9日) - 770年8月28日(神護景雲4年8月4日)。
父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。史上 6 人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第 109 代明正天皇(在位:1629年 - 1643年)に至るまで、850 余年、女帝が立てられることはなかった。
<ウィキペディアより>



神功皇后陵

2018/10/01 11:00:08

神功皇后陵

神功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、仲哀天皇の皇后。『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高額媛(かずらきのたかぬかひめ)。応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫あり。
三韓征伐を指揮した逸話で知られる。
また、『日本書紀』によれば、神功皇后52年(252年)九月丙子の条に、百済の肖古王が日本の使者、千熊長彦に会い、七枝刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、友好を願ったと書かれている。
通説ではこの中の七枝刀を、石上神宮につたわる七支刀のことだと考えられている。
<ウィキペディアより>


神功皇后の新羅遠征

成務天皇稜

2018/10/01 11:12:50

成務天皇稜

成務天皇(せいむてんのう、景行天皇14年 - 成務天皇60年6月11日)は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第13代天皇(在位:成務天皇元年1月5日 - 同60年6月11日)。和風諡号は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、『古事記』は若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと)とする。『日本書紀』にはこの天皇の事績として、日本全国に数多くの国造を任命したり、稲城を設置したり、国や郡の境を定めたりしたことが記されている。
<ウィキペディアより>


成務天皇

日葉酢媛命陵

2018/10/01 11:16:24

日葉酢媛命陵

日葉酢媛命(ひばすひめのみこと、生年不詳 - 垂仁天皇32年7月6日)は垂仁天皇の皇后である。「日葉酢媛」は『日本書紀』での記述であるが、同書は「日葉酢根命」、「日葉洲媛命」にも作り、また『古事記』は「氷羽州比売命」、「比婆須比売命」に作る。父は丹波道主王、母は丹波之河上之麻須郎女。垂仁天皇との間に景行天皇のほか2皇子・2皇女を産む。

『日本書紀』によれば、垂仁天皇の皇后狭穂姫命が同天皇5年に薨じた後、その遺志により同15年2月甲子(10日)に丹波(後の丹後国を含む広義の丹波国)から後宮に迎えられ、同年8月壬午(1日)に立后、同32年7月己卯(6日)に薨じたとされる。またその葬儀に際しては、それまで行われていた殉死を悪習と嘆じていた天皇が群卿に葬儀の方法を問うと、野見宿禰が生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言したため、その陵墓に初めて人や馬に見立てた埴輪が埋納され、以後も踏襲されるようになったという。
<ウィキペディアより>


日葉酢媛命

日葉酢媛命稜

2018/10/01 11:17:24

日葉酢媛命稜



山上八幡神社

2018/10/01 11:19:37

山上八幡神社

山上八幡神社は近鉄大和西大寺駅の北東側、近鉄平城駅にも近いやや小高い丘に建つ神社です。神社の境内は全国有数の古墳群として知られる「佐紀盾列古墳群」に取り囲まれるように位置しており、周囲にはかつて神功皇后陵であるとされていた日葉酢媛命陵(ひばすひめのみこと)、また称徳(孝謙)天皇陵、成務天皇陵、瓢箪山古墳、猫塚古墳など数々の古代古墳が位置しており、うっそうとした古墳の「森」に囲まれた小道を歴史愛好家が地図を片手に散策する姿も多く見られます。



葛木神社

2018/10/01 11:30:00

葛木神社

祭神  葛城一言主大神



磐之媛命陵(ヒシャゲ古墳)

2018/10/01 11:39:14

磐之媛命陵(ヒシャゲ古墳)

磐之媛命(いわのひめのみこと、生年不詳 - 仁徳天皇35年6月(347年)は、古墳時代の皇妃。『日本書紀』では磐之媛、『古事記』では石之日売、その他、いはのひめ、磐姫とも記す。仁徳天皇の4人の皇后のうちのひとり。仁徳天皇2年(314年)立后。葛城襲津彦の娘で、武内宿禰の孫にあたり、皇族外の身分から皇后となった初例とされる。孝元天皇の男系来孫(古事記では玄孫)。仁徳天皇の男御子5人のうちの4人(履中天皇・住吉仲皇子・反正天皇・允恭天皇)の母。記紀によるととても嫉妬深く、仁徳天皇30年(342年)に、彼女が熊野に遊びに出た隙に夫の仁徳天皇が八田皇女(仁徳の異母妹。磐之媛命崩御後、仁徳天皇の皇后)を宮中に入れたことに激怒し、山城の筒城宮(現在の京都府京田辺市多々羅付近)に移り、同地で没した。
<ウィキペディアより>


磐之媛命

磐之媛命陵

2018/10/01 11:42:16

磐之媛命陵



平城天皇稜

2018/10/01 11:56:33

平城天皇稜

平城天皇(774年9月25日(宝亀5年旧8月15日)- 824年8月5日(弘仁15年旧7月7日))は第51代天皇(在位:806年4月9日(延暦25年旧3月17日) - 809年5月18日(大同4年旧4月1日))。小殿親王、後に安殿親王。桓武天皇の第1皇子。母は皇后・藤原乙牟漏。同母弟に嵯峨天皇。延暦4年(785年)11月25日、叔父の早良親王に代わり立太子する。しかし病弱だった上に父との関係も微妙であり、『日本後紀』によれば、延暦12年(793年)に春宮坊帯刀舎人が殺害された事件の背景に皇太子がいたと噂されたことや、同24年(805年)に一時重態であった天皇が一時的に回復したために皇太子に対して参内を命じたのにもかかわらず参内せず、藤原緒嗣に催促されて漸く参内したことなどが記されている。また皇太子時代より妃の母で夫のある藤原薬子を寵愛して醜聞を招き、父より薬子の追放を命じられた上に薬子の夫の藤原縄主を春宮大夫につけらている。こうした経緯が即位後の平城天皇による桓武天皇の政策の見直しへと反映されたといわれている。
<ウィキペディアより>




平城宮跡第一次大極殿

2018/10/01 12:00:43

平城宮跡第一次大極殿

第一次大極殿院 南門~2019年から公開予定
現在、修景柵(大極殿院を取り囲む柵)が仮設置されていますが、調査研究に基づく外観を復原するため、2011年(平成23年)「第一次大極殿院建造物復原整備計画」が策定され、「築地回廊」、「南門」、「東西楼」、「内庭広場」を順次整備していくことが決定しました。これらの復原工事は長期にわたるため、工事現場を公開しながら、現在まで伝承される伝統技術の素晴らしさを広く発信していく予定です。

「平城宮跡歴史公園」ホームページより



佐紀神社(亀畑)

2018/10/01 12:05:02

佐紀神社(亀畑)



佐紀神社(亀畑)

2018/10/01 12:05:39

佐紀神社(亀畑)

『神名帳考証』『神祇志料』『特選神名帳』などでは、この神社を式内社の佐紀神社にあてている。治承4年(1180年)、平重衡の焼き討ちにより焼失したが、中御門家忠の奏聞により文治6年(1190年)に超昇寺と併せ再興された。天正6年(1578年)にも再び兵火のため焼失し、再興されたものの社地は狭くなった。

祭神
・経津主命
・天児屋根命
・六御縣神 - 高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布の六御県に坐す神とみられている。



佐紀神社(西畑)

2018/10/01 12:10:37

佐紀神社(西畑)

変遷は明らかではないが、江戸時代に亀畑の佐紀神社より分祀されたものであろうと伝わる。 佐紀西町(旧西畑村)の氏神であり、氏子地域は、神社西側の佐紀町字西畑である。 上六人衆、下六人衆の宮座制度があり、東隣の釣殿神社(旧門外村氏神)とほぼ同じ御祭神、宮座制度を持ち、分祠の時期も江戸時代頃と考えられる。 それ以前は佐紀神社末社大国主神社が鎮座の起源とされている。 二條村と西畑村の度重なる勢力争いにより、佐紀神社を名乗りだすようになったと伝承される。

祭神
・経津主命 - 本殿中央に祀られる。
・天児屋根命 - 本殿右に祀られる。
・六御縣神 - 本殿左に祀られる。高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布の六御県に坐す神とみられている。