20170320-MBSラジオウォーク

プロフィールマップ

MBSラジオウォーク

【コース】
飛火野(イベント会場)⇒二之鳥居 ⇒春日大社 ⇒一言主神社 ⇒若草山⇒手向山八幡宮宝庫 ⇒手向山八幡宮 ⇒三月堂(法華堂)
⇒二月堂 ⇒正倉院(望見) ⇒五劫院 ⇒北山十八間戸 ⇒夕日地蔵 ⇒般若寺楼門⇒植村牧場 ⇒奈良少年刑務所 ⇒多聞城跡
⇒ 奈良女子大学 ⇒近鉄奈良駅

距離:徒歩10km/22,600歩

写真レポート


2017/03/20 10:36:38

スタート(飛火野~春日大社~若草山~二月堂~東大寺講堂跡)



2017/03/20 12:05:01

般若寺

般若寺の創建事情や時期については正史に記載がなく、創立者についても諸説あって、正確なところは不明である。
寺伝では舒明天皇元年(629年)、高句麗の僧・慧灌の創建とされ、天平7年(735年)、聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したという。
延徳2年(1490年)の火災、永禄10年(1567年)東大寺大仏殿の戦いでの松永久秀の兵火によって主要伽藍を焼失した。
鎌倉時代建立の楼門は国宝、入母屋造・本瓦葺きの楼門(2階建門)。



2017/03/20 12:41:01

奈良少年刑務所

明治政府が全国に建設した「五大監獄」で唯一全体が現存する奈良少年刑務所が3月31日、刑務所としての運用を停止し、閉鎖された。建物が老朽化したためで、今後はホテルや博物館など観光資源として活用される見通し。
東大寺から約1キロ北西にある同刑務所は、ジャズピアニストの山下洋輔氏の祖父で旧司法省技官の啓次郎氏が設計し、1908年に完成した。重厚なれんが造りの外観が特徴で平成29年2月に重要文化財に指定された。(2017.3.31:産経WESTより)



2017/03/20 13:00:03

多聞城跡

多聞山城(たもんやまじょう)は、奈良県奈良市法蓮町の現・奈良市立若草中学校の敷地にあった松永久秀、松永久通、塙直政の居城となった日本の城(平山城)。多聞城とも呼ばれる。
永禄3年(1560年)に築城開始し、永禄4年(1561年)松永久秀が入城し続いて永禄7年(1564年)城が完成するが、天正元年(1573年)末に織田信長への引き渡し後に天正3年3月塙直政が大和守護として入ったが、天正4年5月の討死後に、天正5年(1577年)6月に破壊され期間はわずか16年間だった。建物や内装は京都旧・二条城に移築され、石材の多くは筒井城に用いられ、更に郡山城にも移された。天正5年(1577年)、久秀は最終的に信貴山城で自害した。

法隆寺の南東に接する環濠集落の安堵町窪田地区にある石田家邸には、「多聞城の門」が移されて残っている。


『多聞城跡』
多聞城は、戦国武将、松永久秀が築いた城です。 永禄2年(1559)、久秀は大和に侵攻し、翌年奈良の町を見下ろす佐保山の一画に多聞城の築城を始めました。 永禄8年(1565)、奈良を訪れた宣教師ルイス・デ・アルメイダは、城は瓦葺で白壁の城壁を備え 城内は障壁画で飾られるなど豪華な造りであったと書き残しています。 後に「多聞櫓」と呼ばれる長屋状の櫓や、後世の天守に相当する「四階櫓」が造られるなど、近世城郭の先駆けとなる城でした。
松永氏が退いた後、天正2年(1574)、織田信長が多聞城に入りました。しかし、天正4年(1576)には、 信長により多聞城の取り壊しが命じられ、築城からわずか十数年で破却されました。 建物の一部は安土城や二条城で再利用され、残されたいた石材は筒井城へ運ばれたことが知られています。
城跡は、現在の奈良市立若草中学校の校地と、西側の光明皇后陵、聖武天皇陵を含む範囲と考えられ、 北面と東西には堀を巡らし、南面は佐保川で奈良の町と区切られていました。
発掘調査では、石造物を再利用した石組の溝や井戸、多数の瓦などが見つかっています。 また、現在でも校門の東側には、校地一帯で発見された墓石類が手厚く供養されています。



2017/03/20 13:17:03

奈良女子大学(奈良女子高等師範学校=現・記念館)

『奈良女子高等師範学校』
1908年(明治41年)、東京女子高等師範学校に次ぐ日本で第2の女子高等師範学校として設立され、女子中等学校の教員養成にあたった。学科は文科・理科・家事科が設置され、修業年限は本科が3年8ヵ月であった。
(初代校長:野尻精一/廃止:1952年)