2013年11月29日 いきいき健康ウォーク(四条畷方面)
四条畷駅~楠正行公御墓所~歴史資料館~和田源秀戦死墓
~環境センター(昼食)~四条畷神社~慈眼寺(野崎観音)~野崎駅 (約8.0㎞=約1万8000歩)
楠木 正行は、南北朝時代の武将。楠木正成の嫡男。「大楠公」と尊称された正成に対して「小楠公」と呼ばれる。
・樹齢565年のクスノキの巨木
最初は楠正行・正時を葬った小さな墓石が置かれているだけの墓でしたが、80年後に誰かが2本の楠を植え、その2本が合体して、石碑を挟み込んで、一本の大樹になりました。
和田 賢秀(にぎた けんしゅう)は、楠木正成の甥
南北朝時代の武将。名は「かたひで」とも読まれ、また源秀(げんしゅう)とも記される。
市の木クスノキと市の花サツキをデザインしたもの
環境センターより西方の眺め
大阪市内多くの高層ビル群 一等高くあべのハルカスが左側に見える
南朝の将として戦い、四條畷の戦いで敗死した楠木正行を主祭神としている。
『四條畷神社由緒記』 御祭神 贈従二位 楠木正行卿 贈正四位 楠木正時卿 贈従四位 和田賢秀卿 楠正行公は楠正成公の嫡男であり正成公の 大楠公に対して小楠公と申し上げる卿は延元 元年(1336)湊川へ出陣をせられる父君と 桜井の駅にて訣別されたが時に御年十一歳爾来 母君に孝養を尽くして臥薪嘗胆読書練武に励み 報恩の至情を捧げた正平二年(1347年)十二月 後村上天皇に拝謁国難に殉せん事を誓い如意 輪堂の扉に剣をもって決死の和歌を遺された 翌年正月敵将高師直の軍勢八幡を発し河内に至るや 正行御一族は寡兵よくこれを迎え撃ち獅子奮迅 せられたが満身に創を受け遂に殉節された時に 御年二十二歳の青年であったこの正義に燃えたる 小楠公お事跡と吉野朝史の一齣は四條畷に永く 留められ万古に変わらぬ飯盛山は青少年の徳義 昂揚を叫び老松は史跡を物語っている |
江戸時代に隆盛を極めた野崎観音詣りの情景。
享和元年に刊行された秋里籬嶌の「河内名所図絵巻六」の 中で描かれている丹羽挑渓の挿し絵より引用。
福聚山慈眼寺(ふくじゅさんじげんじ)は、大阪府大東市野崎にある寺院。野崎観音(のざきかんのん)として知られる。本尊は十一面観世音菩薩。宗派は曹洞宗。
江戸時代より続く『野崎参り』で知られ、その期間である5月頭は参拝客で賑わう。人形浄瑠璃や落語の作品を通じても知られている。