2013年1月24日 いきいき健康ウォーク

 いきいき健康ウォーク 参加者:63名(スタッフ10名を含む)
 近鉄桃山御陵〜前駅スタート〜御香宮〜桃山御陵〜乃木神社〜桃山城〜大手筋商店街 (約7.5q=約1万1000歩)

写真レポート


2013/01/24 10:06

御香宮神社(式内社)

神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神を祀る。神功皇后の神話における伝承から、安産の神として信仰を集める。 また社務所内に小堀政一(遠州)が伏見奉行所内に作ったとされる庭園が移設されている。


2013/01/24 10:07

御香宮神社

[由緒]

初めは「御諸神社」と称した。創建の由緒は不詳であるが、貞観4年(862年)に社殿を修造した記録がある。伝承によると、この年、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったというが、実際には菟芸泥赴によれば、「筑前国糟谷郡の香椎宮から神功皇后を勧請し、神功皇后御廟香椎宮を略し、御香の宮と申す。とあり筑紫の香椎宮をこの地に分霊し勧請した説の方が有力である。この湧き出た水は「御香水」として名水百選に選定されている。 全国にある「香」の名前のつく神社は、古来、筑紫の香椎宮との関連性が強く神功皇后を祭神とする当社は最も顕著な例である。 豊臣秀吉は、伏見城築城の際に当社を城内に移し、鬼門の守護神とした。(現在でも古御香宮として残っており、また伏見宮貞成親王に関係が深かったこともあり、境内は陵墓参考地として指定されている。) 後に徳川家康によって元の位置に戻され、本殿が造営された。表門は伏見城の大手門を移築したものとされている。 明治元年(1868年)に起こった鳥羽・伏見の戦いでは伏見町内における官軍(薩摩藩)の本営となったが、本殿等は無事であった。 昭和に入ってからはすぐ東を通る国道24号線の拡幅に伴い、境内の一部を道路用地として提供し、その際に元伏見奉行所の跡で、米軍のキャンプ地の跡である桃陵団地建設の際に発見された小堀遠州ゆかりの庭園が、造園家中根金作の手によって、社務所の裏側に再現された。
(「Wikimedia」より転載)


2013/01/24 10:07

御香宮神社

境内で全員で準備体操



2013/01/24 10:48

伏見桃山陵(明治天皇陵)

[概要]

明治45年(1912年)7月30日、明治天皇が崩御。同年(大正元年)9月13日に東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)にて大喪の礼が執り行なわれた後、9月14日に埋葬された。 古式に範を採ったとされる上円下方式で、墳丘にはさざれ石が葺かれている。すぐ東には昭憲皇太后の伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみささぎ)が隣接する。 敷地は豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地で、京都に墓所が営まれたのは明治天皇の遺言によるものという。周囲一帯は宮内庁の管理地となっており、京都市南西部から旧山陽道、旧西海道地域の陵墓を管理する宮内庁書陵部桃山陵墓監区事務所がある。 墳丘は、上円下方墳で、下段の方形の一辺約60メートル、上円の高さ6.3メートル。方形の墓坑を掘って内壁をコンクリートで固め、その中に棺を入れた木槨を納めた。槨内の隙間には石灰を、石蓋をしてコンクリートで固めた。上円下方墳の墳形は天智天皇陵がモデルにされたという。幕末の孝明天皇についで火葬にせず、天武天皇以前の古制に戻した。 大正天皇以降の天皇・皇后の陵は東京都八王子市に作られたため、近畿地方以西に作られた最後の天皇陵である。
(「Wikimedia」より転載)


2013/01/24 11:27

乃木神社

乃木神社(のぎじんじゃ)は、明治時代に活躍した軍人であり明治天皇の崩御の際に殉死した乃木希典を祀った神社。日本国内に複数の乃木神社がある。乃木の出身地の下関市や別邸のあった那須塩原市など、乃木ゆかりの地に多い。

・乃木神社(栃木県那須塩原市) -- 日清戦争後に乃木が閑居した別邸の敷地内にある。旧社格は県社。
・乃木神社(京都市伏見区) -- 明治天皇陵の麓にある。旧社格は府社。
・乃木神社(山口県下関市) -- 下関市長府は乃木の郷里である。旧社格は県社。
・乃木神社(東京都港区赤坂) -- 乃木夫妻が自刃した邸宅の隣地にある。旧社格は府社で、現在は神社本庁の別表神社。
・北海道函館市乃木町に分社がある。1916年(大正5年)に独立の函館乃木神社として創建され、1964年(昭和39年)に東京の乃木神社に寄進されて函館分社となった。
・沙沙貴神社(滋賀県近江八幡市安土町常楽寺) -- 乃木の祖、佐々木源氏の氏神。
・香川縣護國神社(香川県善通寺市)内 乃木神社 -- 香川縣護國神社とともに「讃岐宮」と称される。
・御傘山神社(北海道室蘭市)内 乃木神社
・秩父御嶽神社(埼玉県飯能市)内 乃木神社
(「Wikimedia」より転載)


2013/01/24 11:42

桓武天皇 柏原陵

延暦25年(806)3月17日、平安京の創設者である第50代桓武天皇は、内裏清凉殿において70歳の生涯を閉じた。天皇の山陵は当初、平安京の西北郊の山城国葛野郡宇太野(現・京都市右京区宇多野の付近)に定められた。ところが、そのことは宇太野付近の在地勢力の反発をひきおこしたらしく、京の周辺の山で不審火があいつぐことになる。占いの結果、これは山陵が賀茂神社に近いための祟りであることになり、天皇の陵は山城国紀伊郡(現・京都市伏見区)柏原山陵(柏原陵)に改められる。
『延喜式』諸陵寮は桓武天皇柏原陵を近陵に列し、「兆域東八町、西三町、南五町、北六町、丑寅角に二峯一谷を加ふ。守戸五烟」としている。すなわち、同陵の兆域は1辺11町(約1・2q)の範囲に及ぶ巨大なものであり、陵の本体はその中央やや西寄りの場所に位置していたことになる。この陵は平安時代から鎌倉時代前期にかけて歴代の朝廷の尊崇を集め、定期的に荷前使が派遣された他、国家の重大事に際しては必ず告陵使がつかわされるならわしとなっていた。その位置は、「伏見山に在り。東辺に従いて二町許り入る。稲荷南野に在り」(『拾芥抄』)と記録されている。また、応天門の変の主役として著名な大納言伴善男が建立した報恩寺が桓武天皇陵の兆域内にあったとされている(『三代実録』貞観9年12月18日条)


2013/01/24 11:52

伏見桃山城

城跡一帯が開墾され、付近が桃山と呼ばれたことから、後に伏見城の通称として桃山城と呼ばれる由来となった。なお、開墾にたずさわった一族の末裔は、吉村酒造蔵元の吉村家と伝えられている。 伏見城跡は伏見奉行所の管理とされ幕末まで立入禁止となっていたらしいが、本丸跡などの主郭部分はのちに明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたことから現在も無許可での立入りが禁じられている。2009年2月20日、宮内庁の許可を得た日本考古学協会によって伏見桃山陵の本格的な調査が行われ、敷地内に4-5メートルの盛り土がなされていることが判明したが、城郭を記した歴史的文献には存在しないものであることから、未発見の古墳ではないかともいわれている。 また、伏見城花畑跡は1964年(昭和39年)に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、園内には洛中洛外図に描かれた伏見城を参考にして5重6階の大天守と3重4階の小天守、櫓門などを伴った模擬天守が6億円(当時の金額)をかけて鉄筋コンクリート構造で造られた。2003年1月、同遊園地は経営母体である近鉄によるリストラの一環で閉園したが、模擬天守は京都市民の運動によって伏見のシンボルとして保存されることとなり無償で京都市に贈与されたほか、敷地を含めて同市により伏見桃山城運動公園として整備された。ただし、模擬天守については耐震基準を満たしていないことから内部非公開となっており、バリアフリー対応などを含め改修に数億円かかるとされることから2012年10月時点でも具体的な活用予定は無い。 2007年10月、映画『茶々 天涯の貴妃』撮影のため東映が約1億円を負担し、望楼の下に虎の装飾がなされたほか、鯱を金色に塗り替えるなど大坂城に見立てた改修がなされ、これらの装飾は撮影終了後も同年内はそのままとなっていた
(「Wikimedia」より転載)


2013/01/24 12:44

辨財天長建寺

・豊臣秀吉没後、徳川3代まで使われた伏見城は元和5年(1619年)廃城後、伏見の町は衰退し、13代目伏見奉行 建部政宇(たけべまさのき)は元禄12年(1699年)、壕川を開拓するとき、深草大亀谷の即成就院の塔頭多門院を分離して現在地に移築した。建部姓の一字と長寿を願いと名づけたのが寺の起こり。
・かつての中書島遊郭の一角にある
[寺宝]
・八臂弁財天:本尊、秘仏(鎌倉時代後期作)毎年元旦から15日間のみ開帳。8本の腕を持った音楽・財富・智恵・延命を司る弁天様。
・裸形弁財天:脇仏
・賓頭盧尊者:なで仏は、釈迦の弟子で十六羅漢の一人。
(「Wikimedia」より転載)


2013/01/24 12:55

寺田屋

慶応2年(1866)1月23日、京での薩長同盟会談の斡旋後に寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行の林肥後守忠交の捕り方が捕縛しようとした事件の舞台となる。
寺田屋は鳥羽伏見の戦(1868年)に罹災し、焼失した。現在の建物はその後再建されたものである。


2013/01/24 12:58

寺田屋

 



京都市のマンホール

(寺田屋の付近で撮影)

平安時代の牛車の車輪「御所車」をデザインしたもの

このマンホールを見たときに、下図が頭に浮かんだ

回り始めるかとじっと見つめていたが。。。



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参考

北岡明佳の錯視のページ

 月桂冠大倉記念館の前で解散。この後、長健寺〜寺田屋〜西岸寺(油掛地蔵)〜黄桜記念館を回る。22,000歩