2012/10/12 08:45:10
いきいき健康ウォーク
参加者:44名(スタッフ10名を含む)平均年齢:70才近い?
2012/10/12 09:42:10
佐牙彌豆男神と佐牙彌豆女神を祭っています。社伝によると、敏達天皇2年 (573)の創建とされます。造酒司の奉幣があったといい我が国の酒つく りの発祥と関係が深いものと見られます。 大同元年(806)頃には摂津国に封戸九戸がありました。古文書によると 三山木の山本にあったものを永享年間(1429−41)に現地へ移すとあ ります。現在も山本に御旅所があり、祭日には神輿の渡御があります。 現本殿(二棟国指定重要文化財)は天正13年(1585)の再建とされま すが、形式は古く、ことに身舎の蟇股は左右対称の図案で室町時代初期と考 えられ、旧建物の再利用と見られます。左右二棟とも同型式の春日造りで屋 根は桧皮葺です。 10月17日 例祭 御幸祭 10月18日 還幸祭 田辺町教育委員会
田辺町文化財保護委員会 |
2012/10/12 09:43:07
京田辺市宮津佐牙垣内一六四番地 明治初期の神仏分離により、佐牙神社境内にあった 神宮寺の恵日寺も廃寺となった。そのため、本尊の不 動明王像(南北朝時代)と大威徳明王像・軍茶利明王 像が近くの正福寺(江津)に、降三世明王像・金剛夜 叉明王像と観音堂にあった千手観音立像が寿宝寺(山 本)にそれぞれ移され、大般若経も三百巻ずつ両寺に 分けられたと伝えられている。 文政十二年(一八二九)の古文書によると、秋祭の 御旅所への神輿渡御には寿宝寺(山本)と、恵日寺の 僧侶も列に加わっている記述が見られる。また、一月 十日の佐牙神社の初座(弓始・弓講)には、恵日寺の 法印が弓射の儀をしたと伝える。 なおヽ住牙神社の木殿の南隣の丘陵地に奈良時代以 前に創建された寺があったとみられ、現在、三山木廃 寺跡の碑が建っている。 京田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会 |
2012/10/12 09:45:49
境内で全員で準備体操
2012/10/12 09:54:07
2棟の本殿は、右殿に佐牙弥豆男神、左殿に佐牙弥豆女神を祀る。
安土・桃山時代、1585年の再建とされる。二棟とも一間社春日造、桧皮葺。
1923年、本殿2棟は重要文化財に指定。
2012/10/12 10:31:16
2012/10/12 10:32:04
京田辺市三山木塔ノ島二〇番地 寺の創建は不明であるが、寺伝では文武天王の慶雲元年(七〇四)創建と伝える。 古くは「山本大寺」と呼ばれ、七堂伽藍を備えていたという。 たび重なる木津川氾濫により移転を繰り返し、享保十七年(一七三三) 現在地に移り明治初めの廃仏毀釈に際しては、近隣の寺々を合併した。 平成九年(一九九七)に改築を行った。 現在は高野山真言宗に属し千手観音立橡(国の重要文化財)を本尊とする。 この千手観音は等身大の素木造で、平安時代後期の像であるが、実際に 千の手を持つ。元はここから約一キロメートル南西にある式内社の佐牙神社の 神宮寺に祀られていたものである。 神宮寺(恵日寺)が明治初めに廃寺となった際五大明王のなかの降三世明王 立像・金剛夜叉明王立像(ともに平安時代後期)などとともにこの寿宝寺に移された。 この他、聖徳太子立像(鎌倉時代・飯岡の蓮華寺から移された)など優れた仏像が多い。 また境内にはめずらしい鶏霊碑があり、かっつては毎年四月の酉の日に鶏霊祭が行われていた。 田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会 |
2012/10/12 10:32:27
重要文化財である十一面千手千眼観音立像を有する。
像高180センチメートル、一木造り。平安時代後期作。
この像は、大阪河内の「藤井寺」と奈良「唐招提寺」の観音と共に、
実際に千本の手を持つ観音として、日本三大千手観音立像のひとつである。
2012/10/12 10:56:21
2012/10/12 10:57:35
京田辺市飯岡東原六二番地 宇賀乃御魂神と菅原道真をまっり天神あるいは天神宮と呼ば れていたが、明治八年(二八七五)式内社咋岡神社として認定 された。 木津川の氾濫により、江戸時代中期の元禄八年(一六九五)に 現在地に移され、その際に菅原道真が新たに祭神に加えられ 整備されたことが文書と石灯龍銘文から判明する。元の位置 は飯岡の北端で木津川と普賢寺川の合流点の箇所であったと口伝 されている。 現在の本殿は、東に面した一間社流造の建物で、屋根は銅板 葺である。移設後明治年間に至るまで数度の改修が行われたと みられ、当初の建築様式を留めていないが、慶長六年(一六〇一)、 元和 二年(一六一七)、寛永十一二年(一六一二六)などの棟札が残さ れ、その経年の歴史が判明する。 祭神の宇賀乃御魂神は稲魂・稲倉魂・宇迦御魂とも表現さ れ、稲を司る神で古代からの神である。 京都の自然二〇〇選にも選定されたスダジイをはじめ、シイな どの巨木が多く、良好な鎮守の森の景観を保っている。 例 祭 十月十五日 前日には百味寄せが行われる 茅の輪 六月三十日・十二月三十一日 京田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会 |
2012/10/12 10:58:09
2012/10/12 11:19:30
2012/10/12 11:20:17
京田辺市飯岡中峯三八番地 古墳の別名を茶臼塚、釈迦山古墳とも呼ばれている。 飯岡丘稜のほぼ中央、頂上近くに位置する古墳時代中 期のもので、南山城地方を代表する、大さな円墳(現在、 前方後円墳とする説もある)である。すでに盗掘にあっ て、遺物は何も残っていないと伝える。 伝承では、継体天皇の椀子王の塚というが確証はない。 継体天皇の筒城宮に近いところから伝説になったものと 思われる。 古墳の直径は六十メートル、高さは九メートル。墳丘 頂部は直径二十メートルの平坦地になっている。葺石の 存在もあり、北東部には堀がめぐっていた跡がある。 京田迦市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会 |
2012/10/12 11:22:56
継体天皇の王子の古墳との言い伝えが残る。
2012/10/12 11:34:36
武田信虎の重臣だった穴山信友の長男。
母は信玄の姉・南松院、妻は信玄の娘・見性院という血筋のため、
武田親族筆頭であった。幼名は勝千代、長じて彦六、左衛門大夫、玄蕃頭、陸奥守、
天正八年に入道して「梅雪」と号する。
天正十年(1582)武田滅亡を前に、徳川氏に寝返った。
梅雪の離反が武田氏滅亡の決定打になったため、後年、主家裏切りの不評を買った。
2012/10/12 11:35:07
京田辺市飯岡西原一六番地の一ほか 古墳時代前期後半(四世紀後半)に造られた、市内最大の 前方後円墳である。全長九十メートル、後円部直径六十 メートルを測る。明治三十五年(1902)に後円部が発掘され、 棺を納めた竪穴式石室やら勾玉、管玉、小玉、石釧、 車輪石、鍬形石、石製小型坩、刀剣片などがみつかったが、 銅鏡が含まれていないので、それ以前に盗掘されていたと みられる。古墳の表面は葺石でおおわれ、周りは 埴輪で囲まれている。埴輪のなかには楕円筒埴輪がある ことが、昭和五十一年(1976)の発掘調査でわかった。 この飯岡には、前期の車塚古墳をはじめとして、 中期の薬師山古墳のゴロゴロ山古墳・弥陀山古墳・ トヅカ古墳、後期の東原古墳・飯岡横穴と 古墳時代を通じて多くの古墳が造られ続けた。 木津川の水運に関係した一族の墓と考えられる。 京田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会 |
2012/10/12 11:58:15
京田辺市草内宮ノ後五番地 創祀年代ぱ建治年間(一二七五〜七八)といわれ、 応仁年間(一四六七〜一四六九)、永正年間(一五〇 四〜一五二一)に戦火で焼失したが、夭文三年(一五 三四)八月に再建されたと伝える。古くは天神社と称 したが、明治二十六年(一八九三)咋岡神社と社名を 改めるとともに、それまでの主神菅原道真を配神とし、 倉稲魂神を主神とした。 本殿は春日造、正面軒唐破風付、桧皮葺で、蟇股、 木鼻等に桃山風の華麗な彫刻をほどこしており、江戸 中期頃の建立と思われる。 この神社地は、もと草路城といわれ、周囲に濠をめ ぐらし土塁の跡が周囲の森林の中に残る。 山城国一 揆に草路城として登場する。昭和五十八年(一九八三 )、京都府文化財環境保全地区に決定され、平成三年 (一九九一)には、京都府自然二〇〇選にも選ばれて いる。 京田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会 |
2012/10/12 11:58:58
2012/10/12 12:00:47
米寿になった人が枡の額を奉納している
飯岡の咋岡神社でも同じように奉納されていた
2012/10/12 12:48:01
真言宗蓮華山(観智院)法泉寺 京都府京田辺市草内南垣内27 観音霊場 山城西国11番礼所 南山城西国10番礼所 ■ 縁起 歴史 万治年間(1658年頃)賢盛が開基 旧名蓮華山案養寺といい、寛文10(1670)年無本寺から仁和寺未となり貞享3(1686)年法泉寺と改称 ■ 伽藍 本堂 最勝殿 表門等 ■ 文化財 ・十一面観音立像(藤原時代の作 国の重要文化財) ・十三重石塔(高さ6m)が境内に立つ。鎌倉時代、僧叡尊が水防のために建てたもの。 弘安元(1278)年11月26日の刻銘がある。国の重要文化財に指定されている。 |
2012/10/12 13:08:16
ここの駅で解散
9時〜13時30分 新祝園〜近鉄宮津〜(のどか散策コース)〜興戸(8q)
17800歩(自宅から駅までの往復を含む)